先週、17年間逃亡生活をしていたオウム真理教の幹部らが逮捕されました。地下鉄サリン事件がおきたのが1995年ですね。私がルーテル学院大学3年生のときのことです。日本のど真ん中でテロが起きた!ショックでした。昨年の福島原発の放射能問題が起きたときと同じように、あの時も、国へ帰るという人たちが、留学生たちの中にもありました。当時、東京は世界で最も安全な都市として、それこそ、自分の国のソウルよりも安全で、夜一人で新宿を歩いても怖くない、暮らしやすい都市だと言われていたので、ショックも大きかったのです。そう言う都市がテロリストたちの活躍の場になるということは、本当に残念でなりませんでした。
けれど、平和主義者の視点からは理解できないことですが、しかし、徹底的に洗脳されて、それこそが真実であると信じて、人の命の捉え方さえ間違っていく人にとっては、選択の余地のないものでしょうか。正しいことと正しくないことの間で葛藤するような姿など許されない世界ですね。どうやら、先週、最後に逮捕された人は、その思想が未だに変わっていないような様子を伺いました。罪を憎んでも人を憎んではならないという言葉がまた思い出されたりします。
ある思想や主義というようなものはとても怖いものですね。また、それは、宗教も同じだと思います。人がどのような環境におかれるかによって、どういうことをする人になっていくか、人を助けて生きる人になるのか、人を殺して命を奪う人になっていくのか。そして、人は、その両方の、どちらにも立たされうるという、それがそれほど難しいことではないと言うことを考えさせられた一週間でした。
このようなことを考えながら、今週の説教を黙想していて、特に旧約聖書の中に描かれているイスラレルの民らの置かれた状況も似ていると思いました。彼らは、荒れ野での40年間の放浪生活を終え、神が与えられたとう約束の地カナンにたどり着きます。ところが、たどり着いたカナンには、バアルとアシュラテという神々がいて、カナンの人々の信仰はそこにありました。
バアルとアシュラテは夫婦です。バアルは、天候を司り、雨を降らしたり嵐をおさめたりする神です。そしてアシュラテは、農業を豊かに実らせてくれる豊穣の女神でした。
このバアルとアシュラテは、それからずっとイスラレルの民らの生活に密接な関係を持つようになります。イスラレルの人たちがカナンに入り、カナンの人々と交流を持ち、結婚もするケースも増えてきて、段々とその土地に慣れてくるに連れて、神への信仰もバアルへの信仰へ変質していきます。
それにしても、40年も、何もない荒れ野で自分たちに食べ物や飲み物を与え、猛獣や回りの国々の敵から守ってくださった神さまを、カナンの神バアルのゆえに忘れていくということは、あまりにも身勝手だと思います。それもそう、バアルとアシュラテは、イスラレルの神とは違い、目に見える豊かさを約束してくれる神ですから、もしかしたら、慣れない地で生きるためには、すぐ目の前の利益を手に入れる生き方の方が必要だったのかもしれません。それは、合理的な生き方です。しかし、合理主義は一瞬それらしく見えても、結果としては神から離れていく最も近い道であるということは、当時のイスラエルの人々は知ろうともしなかったのでしょう。この時の流れが、自分たちの国を失うほど破局へもっていくことになるということを、私たちはエレミヤを始め、預言者たちのバアル預言者たちとの戦いの中で知るわけであります。
本日の第一日課のホセア2章を見てみましょう。16節で、神さまは、イスラエルの民を荒れ野へ導くとおっしゃっております。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう」(16節)と。「それゆえ」というのは、すぐ前の15節で言う、「バアルを祝って過ごした日々について/わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき/鼻輪や首飾りで身を飾り/愛人の後について行き/わたしを忘れ去った」(15節)ということです。
ホセア書は、その書き方において少し問題のある書物でありますが、ここでその学びをすることは時間が許されていないので、今度、聖書勉強会などで学ぶようにします。ホセアの著者は、神とイスラエルの関係を婚姻関係として捉えています。イスラエルに「彼女」という表現が使われていますから、神の妻のような感じですね。結婚関係のように契約関係で結ばれているのに、ということを言いたいのでしょう。なのに、裏切ってバアルを拝んだ。神さまは、イスラエルに、バアルを拝んだことについて追求して、荒れ野へ導き、そこで、その心に語りかけるとおっしゃっておられるのです。語りかけるということは、彼らを悔い改めさせて、新しく再生させて、新たな契約関係を結ぶとおっしゃっておられる言葉です。
荒れ野は神さまとイスラエルの民において大事な場所であります。40年間、昼夜関係なく、密接に結び合い、共に過ごした、大事な場所であります。そこへ導き出すということであります。つまりそれは、思い出させるために、ですね。
私たちは、この神とイスラエルの民の関係を見る中で、自分自身と神さまとの関係を思い出すことができると思います。そして、それだけではなく、自分とバアルとの関係も思い出すことができると思います。いったい、私にとって神さまはどういう方なのだろう?そして、バアルと私とはどういう関係の中にあるのだろう?
もちろん、あのカナンの地にいたバアルが、今ここに、その形をとっているということではありません。または、ホセアが働いていた時代に人々が神さまを裏切って拝んでいたバアルがここにいるということでもありません。バアルという名を取って存在している
のではないけれど、私たちを神さまから切り離していこうと、同じ働きかけをしてくるものがないでしょうか。豊かさを約束して近づいてくるものがあると思います。それがバアルなのであります。
一つの例ですが、イエスさまが洗礼を受けられてから40日間断食の祈りをしておられたときに、サタンが現れて誘惑します。この世の権威と富と名誉を約束する提案をしてきました。それらしきものです。しかし、それらは、サタンにひれ伏して拝むならば、という条件がつけられた事柄でした。とういうことは、サタンの支配下で、サタンの指図を受けながら、奴隷のような関係づくりをしてくれるならば、この世のすべてを与えるという提案だったのです。
バアルが私たちに提案してくるものも、まったく同じものです。この世の富や名誉、仕事、そして幸せを約束してくる。しかし、それはただではなく、私にひれ伏すならば…バアルにひれ伏すならば…罪の奴隷になってくれるならば、ということであります。
イエスさまはそれらすべてを断りました。そして、それらに束縛されることなく、死に対してさえ自由になられました。サタンが提供してくるものは一瞬、生きるためにはそれらしく、もっともなもののように見えます。しかし、イエスさまは、み言葉でもってそれらを退けられます。なぜなら、それらは、まことの自由を奪うものであることを知っていたから。神さまから離れると言うことは、罪に束縛されて、罪の奴隷になって生きる生き方でしかなくなるということを、イエスさまは知っておられた。だから、私たちもそのようにしなければなりません!と、私は言いません。なぜなら、私たちにはできないからです。というか、私はできません。今も、心の中ではもう少しお金があれば…と思いますし、もう少し社会的な名誉があれば、あのような人たちに軽んじられることもないのにとも思います。日々、このような思いのゆれの中にいるのです。私はイエスのようにはなれない。
しかし、イエスのゆえになれる。イエスのようにはできないけれど、イエスさまが私を離れないでいっしょにいてくださる限り、私にもサタンが、バアルが提供してくるものを退けることができます。合理主義を退けて、神信仰の中で人生の歩みを展開していくことができるのです。
イエスさまは、マルコによる福音書2章21節からで、このようにおっしゃっておられます。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」」(21~22節)。
このことは、イエスさまが信じ、私たちが信じる神さまとバアルは共存することができないものであるという、厳しい指摘であります。神さまは、イエスさまを通して、いつも新しいものを私たちに提供してくださる方です。毎日、新しい命を与えて、生きるのだ、新しい命に生き生きと生きるのだと力をくださっています。その神とバアルが共存しようとするときには、引き裂かれて、破れるしかない、ということ。新しい布切れが古い服に当てたときのように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたときのように敗れていく、強い葛藤が神さまとバアルの間で起きてきて、いつもゆれている。そして、それで良いと思うのです。しかし、そのような葛藤もないならば、私は、神さまか、バアルかどちらかについているという風に考えたら良いのかもしれません。
イエスさまを通して知らされた神さまからくる新しさ、そしてその豊かさを味わったことのある人は、バアルが提供してくる豊かさより、本当の、豊かさがあることを知りますし、目に見えない豊かさは見える豊かさとは比べられることのできないものであることをも知ります。新しく変えられた人だけが味わうことのできる世界であります。それでも、そこは葛藤が大きい世界です。
その葛藤を大事にして行きたいです。イエスなしの私たち自身は、古いものでしかありません。バアルを拝むような形で神さまを捉えようとしてしまう、弱い者です。まるで、オウム真理教に洗脳されて、ある主義を貫こうとする、古い者なのです。ある主義の奴隷状態と言えましょう。キリスト教の中にいて、もし宗教活動といってそのような主義的なものを展開していこうとするとき、それも、古い人がやるものですね。
しかし、イエスさまは、私たちに、葛藤しながらも真の自由の中を生きるように、死に対してさえも自由に生きるようにその道を開いてくださいました。そのイエスさまと結ばれている私たちは、イエス・キリストのゆえに新しく変えられています。罪から開放されたのです。その自由を失わないように、主義や宗教を超えて、神さまと出会った荒れ野、そこで、神さまの語りかけを毎日聞く日々でありますように、祈ります。