説教


聖霊降臨後第3主日礼拝
2012年7月1日
 
真ん中に立ち、手を伸ばしなさい
 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにありますように。 アーメン

 先日、ふと思い立って世界の軍事費を調べてみたのですが、一年間に世界では約1兆6300億ドルもの想像を絶する大金が軍事費につぎ込まれています。1年365日で割、日本円に換算してみますと、1日に約4千億円使われている計算になります。気の遠くなるような大金です。私はつくづくこの世界は罪と悪の奴隷とされ、不義の闇に覆われ人々は光を見失しない、まるで、感覚が麻痺したかのように人を生かすのではなく、殺すことを黙認している ひややかな冷たいものを感じてしまいます。
  私たちの生きるこの世界の7人に一人が食べる物に困り、飢えで苦しんでいると聞きます。確かにほかの6人は食べるのに困らず物質的には豊かかもしれません、ですがこの世界の多くの人々の魂は満たされずに飢え渇き、必死にもがいている。自分さえよければいいというように物質的に豊かであり、環境が整っている国ほど世界の軍事費の上位を占めているのです。アメリカはその最たるもので世界の軍事費の約43%を占めているのです。
 
 イエスさまは言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。いのちを救うことか、殺すことか。」と。 もちろん善を行うことであり、いのちを救うことであるとだれもが思うことでしょう。しかし、人々は答えませんイエスさまの問いに対して黙っているのです。人の罪が、正しいとすることへ意見することを憚らせ、言葉を押し殺してしまいます。人の罪は、絶えざる自己正当化する思い、自己満足、自己保存、自己中心の思い。人々の醜い心を、この時のファリサイ派の人々にはっきりと見ることができます。自分たちの守っている安息日の律法をイエスさまが破ろうものならすぐにでも訴えようと人々は注目しています。そして、イエスさまが病を癒されるとすぐに訴えるどころか殺すことを算段しはじめるのです。心は罪に支配されていきます。安息日の律法を固く守ることを訴えているその者たちが、「殺すなかれ」「殺してはならない」というモーセの十戒に示される律法には無関心であり、その律法を破ろうとするのはどういったことなのでしょう。ヨハネ福音書7:19節でイエスさまはこう言っています「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」 イエスさまが怒り悲しむのは無理もありません。ファリサイ派やヘロデ派の社会的に地位や権威のある者たちの考えが物差し、計りとなり人々の生活を束縛し、かれらの権威や力が脅迫となっている。人々は彼らの顔色をうかがい自分にとって不利な問題には口をつぐむ。悲しいけれどそうしなければ生きていくことのできない現実があること、また世界の歴史も私たちにそのような事実があったことを教えています、そして、現在も・・・・しかし、神の言葉は黙っていません。イザヤ書には「草は枯れ、花はしぼむが 私たちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ40:8)」また、「わたしの口から出る わたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:11)」と書かれています。

 イエスさまは言われます。人々が大勢集まる会堂の中、一人の片手の萎えた人に向かって「真ん中に立ちなさい」と。この言葉で人々の注目は一気にその片手の萎えた人に集中したことでしょう。人々の目が注がれる、大きな緊張がそこに生まれています。ただ、忘れてはならないのが片手の萎えた人を注目する多くの人々と その中にイエスさまの見つめる目があるということ、イエスさまもその人を見つめておられるということです。私たちがもしこの片手の萎えた人と同じ状況になったとしたらどうでしょうか、イエスさまの目よりもその他大勢の人々の目を気にして何も言えずにいるかもしれません。
 7節からの話では、イエスさまのところへ至るところから多くの人々が癒されたい、救われたいとの切なる思いをもって、望みをもってイエスさまに触れようとそばに押し寄せたということが書かれています。悩み、苦しみ、悲しみ、痛み煩っている人誰もが今すぐにでも癒され救われること願い、祈り求めている、その思いは切実であります。このことはいつの時代でも変わることはありません。
 人々の真ん中に立たされた片手の萎えた人も癒されたい、救われたいという思いであったに違いありません。しかし、悲しいことに人々の突き刺さるような視線から「今すぐ癒して欲しい。救って欲しい。」という思いを押し殺して言葉にすることはできない。また、その萎えた手ではイエスさまに触れようと手を伸ばすことさえもできない。
 主イエスは人々に問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
人々の答えは沈黙でした。つまりその人を、イエスのすべてを否定する、無視をすることが人々の答えでした。これに対してイエスさまは神さまの御心、その想いをはっきりと示されます。神さまは憐れみ深く私たち一人一人を見つめ、御心に留めてくださるお方、無関心ではなく人との親しい交わりを絶えず求め愛し、愛し抜かれるお方です。その底知れぬ愛ゆえにあらわされたイエスさまの怒り、悲しみ、そしてイエスさまの目は人々に向けられるのです。人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら言われました「手を伸ばしなさい」と。手の萎えた人に向けられた言葉であるようで、しかし、その場にいたすべての人々に語られた言葉であるように響いています。

 みなさん、福井達雨さんと言う方を御存知でしょうか。止揚学園という知能に重い障害をもった方が利用する施設を設立した方です。その福井さんが止揚学園をつくるきっかけとなったお話があります。
 1961年、福井さんがいくつかの施設で働き、29歳の時、土間に掘ってある穴に入れられていた一人の障害をもった子供に出会い、大きな衝撃を受けられます。「なんてひどいことをしているんだ。子供が可哀想だ。」と母親に激しい言葉で訴えたそうです。その母親は目に涙を溢れさせて、「あなたの怒る気持ちは分かりますが、この子を外に出すと、自動車の前に飛び込んで行くのです。でも、ほとんどの人がそれを止めてくれません。この穴に入れている時だけがいのちを守れるのです」と話されたその時、福井さんはハッとさせられたのです。そして、この子どもを不幸にしたのは周囲の冷たい人間たちなんだ。その「たち」の中に僕もいたんだなあ。何も知らないで第三者になって母親を叱っていたんだ。この子どもを疎外したのは僕だったんだと感じ、その時なぜかこの子どもやその家族に謝らないといけないという思いが心の中に沸々と湧きあがり、そして、謝るとは「ごめんなさい」と頭を下げるだけではなく、それを行動に示すこと、行動の伴わない愛や祈り、謝りはむなしいものだ。愛や祈りや謝りは、きれいな言葉から生れるものではなく、優しくて、美しい行動から生れるとの信仰の決断をし、止揚学園が始まったという話です。

 私たちはどのような信仰に立っているのですか。クリスチャン人口1%のこの日本でイエスさまが私たちに向けて「真中に立ちなさい」と語られるとき私たちはどう在ることができるのでしょうか。子どもを不幸に、隣人を不幸にする周囲の冷たい人間たち、その「たち」の中の私であるか。周りに起きている苦しみ、悲しみ、不幸、流される涙に無関心であり黙り、傍観し、眺めているのか。私たちは決してそのような信仰に立ってはいません。私たちの主イエス・キリストは病む者を癒し、苦しむ者を励まし、悲しむ者を慰め、差別や偏見、蔑まれ虐げられ周りから穢れている汚いと追いやられる弱いもの少数のものたちに手を差し伸べ共にいて寄り添い共に喜び、共に涙される方です。善を行い私たちのいのちの救いのために、すべての者の罪をその身に背負い十字架にかかられ限りなく無条件の底知れぬ愛を示された主イエス・キリストを基とした、土台とした信仰に私たちは立っている、否、立たされているのです。
 私たちは「真ん中に立ち」何ができるでしょう。手の不自由な人の手になること、足の不自由な人の足となること、目となること、耳となること。虐げられている弱いもの、少数のものの声となること祈り仕えるものとなることはできないでしょうか。一人では大変なこともあります、しかし、私たちは主に結ばれて神の家族です。一人で大変ならば互いに手と手を取り合い、共に協力し合い、生きる、仕えていく。個人ではなく共同体として歩み生きる教会、キリストの体でありたいと願います。
そして、「手を伸ばしなさい」と言われるイエスさまの言葉に応えて私たちが手を伸ばし指し示すもの、それは、主イエス・キリストの十字架。喜びの福音、豊かにあふれ流れる恵み、決して朽ちて果てることのない永遠の愛です。
 神さまの愛と恵みによって罪赦された私たちは、その信仰により絶えざる祈りをもって主に仕え、人々に仕えてこの日本で、ここ大宮の地で聖霊の息吹に満たされ真ん中に立ち精一杯に手を伸ばして主イエス・キリストの十字架を指し示していきたい!! 神さまの栄光を現して生きたいと切に願うものです!!

 愛する恵み深い天の父なる神さま、御名を喜びと感謝をもって心から賛美いたします。
 神さま、あなたの限りなく無条件の底知れぬ愛を心から感謝いたします。愛と恵みによって私たち一人一人を覚えてあなたがこの親しき交わりの礼拝の時を備え与えてくださり、今私たちは御言葉を聞きました。神さまどうぞあなたの義さの中に生かしてください。私たちが差別や偏見のまなざしを突き破り、愛のまなざしをもってこの世の痛み、苦しみ、悲しみを見過ごし、見捨て、見殺しにすることなく手を伸ばし、手を差し出し、手当をし、手助けをすることができるものとしてください。イエスさまの十字架を絶えず見つめて謙虚にへりくだり、主に仕え人々に仕えるものとして育て養い教え導いてください。
 イエスキリストの十字架と復活、注がれる愛と恵みによってとびきりの幸せと喜びが私たちの心に湧きあがり満ち溢れる感謝の思いの中で与えられたいのちを大切に今日と言う一日を精一杯に生きて主の栄光があらわされますように。
 すべてをその愛と力の御手におゆだねして、私たちの救い主イエス・キリストさまの御名により感謝してお祈りいたします。   アーメン






聖書


マルコによる福音書2章18~22節
1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。 11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。