説教


聖霊降臨後第6主日礼拝
2012年7月8日
 
ひたすらに待ちます、主よ
 

 先週は5日(木)~6日(金)、四つやで国際聖書フォーラムが行なわれ、金曜日だけ行ってきました。木曜日から始まっていましたが、いろいろの事の都合上金曜日にいくことにしました。田川建造の「ヨハネによる福音書の歴史的イエス」や、その他にも、W.H.シュミットさんの「試練の預言者エレミヤ」などを学びました。

 今回のフォーラムで感じたことは、やはり、私たちキリスト者はいろいろの角度から聖書を学ぶ必要があるということ。自分で学ぶということです。
 昨年から、私は、あえて、多方面から講師を教会に招いています。伝統的な神学のもとで説教をする方も、女性の視点から聖書の読み教える方も招いています。それは、皆さんがあらゆる角度から聖書を読む機会を増やすためであります。このようなことは私たちが信仰を築く際にとても重要な課程になります。ステレオタイプの、一つの筋しかわからないとなりますと、その他の考え方や解釈は否定するようになるからです。聖書は、生まれ育った環境や民族の慣習や豊かか貧しいか、差別を受けているか加えているかによって聖書の読み方は違ってきます。それらの視点を受け入れ、認め合い、尊重しあうためには、私たち自身が学ぶ必要がありますし、その学びこそが自分の信仰を岩の上に築き上げることのできる過程であります。

 もちろん、私たちは共に信仰告白ができるように共通の告白があります。式文に納められている使徒信条やニケア信条がそれです。しかし、それとは別に、自分の言葉で神と一人で向かい合ったときに、私たちは何らかの形で信仰告白をすることになります。そのときに、私は神さまのことを、イエスさまのことを何と言うのか、という問いかけがなされるわけであります。

 このことは、イエスさまが弟子たちに常に求めておられたことでした。
 イエスさま一行がフィリポ・カイサリアにいたときのことです。マルコ8章にありますが。そこで弟子たちに対してイエスさまは問いかけられます。
 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)と。
 弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(マルコ8:28)と答えます。
 すると、そこでイエスさまは弟子たちに聞きます。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ8:29)。
 ペトロが素早く答えます。「あなたは、メシアです」(8:29)

 ペトロは、だれも教えてくれなかった中で、自分とイエスさまとの関係の中で、自分と神さまとの関係の中で告白しています。彼の自由意志なのです。どう答えるか、どう向かい合うか。彼は使徒信条やニケア信条を知らない。あの本にそう書いてあるからとか、あの人がこう言っていたからではなく、私にとって信ずることとは、私にとってイエスは誰なのか、神さまはこういう方である!と、自分の言葉で告白するということは、自分の中に与えられている自由意志の中から出る選択、チョイスであり決断であるということ。

 ともすると、私たちは、創造の初めから与えられている自由を、あまりにも乱暴に自分の欲望のために現したり、または権利と義務のバランスを取らず権利主張のためにだけ用いたり、さらにはまったく使えないまま失い、罪の奴隷状態になって縛られた生活をしていたりするときがあるからです。

 さて、人を造ってエデンの園に住まわせた神さまは、彼らが生きるためのものすべてを与えてくださいました。そのすべての中には「自由」というものも、もちろんありました。つまり、神さまは人間に、エデンの園にあるものを自分で判断して自分で選び取って食べて生きられるように、自由意志を与えられたのです。ただし、善と悪を知る木の実だけは取って食べてはならないと戒められました。つまりこのことは、選択しない、選び取らない自由をも与えられた。守る義務なのです。

 しかし、人は、神さまから与えられた自由意志を上手に使うことができませんでした。やってはならないと言われるとやりたくなるのが私たち人間なのですね。だいたい、禁じられたことをすることがもっともスリルがあっておもしろいものです。神さまの戒めを破りました。

 二人はいちじくの葉で腰を覆って木の間に隠れます。どれだけ隠れていたのでしょうか。隠れている間、二人はどんな気持ちだったのでしょうか。カラーフールで、パラダイスのような園で、食べ物は実り豊かで、動物たちは一緒にいても怖くない、緑が多く木々がささやくようなしなやかなエデンの園が、一瞬して地獄化して行く。きっと、木の間に隠れている二人の心の中は、地獄を味わっているかのような、暗闇のただ中ではなかったでしょうか。

 そこへ、神さまが近づいてこられました。ところが、尋ねてこられた神さまの前で人は大きな過ちを犯して行きます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と、今、闇の中に置かれた責任を神さまの所為にし、隣りにいるパートナーの所為にして責任を転嫁するのです。そうすることでその場を楽に乗り越えようとする、もっとも弱い人の姿です。神さまから与えられた自由意志を自分の欲望のために用い、それゆえ罪の縄目に縛られた人の姿です。

 神さまが人に与えられた自由意志は、とても尊いものであります。それは、その人にだけ与えられたものですから、他の人がどうすることは許されないものです。しかし、世の中の多くの人が、暴力や武力のようなものによってその自由を奪われ、余儀なく虐げられています。または、現代の一つの大きな病と思いますが、忙しさという病です。時間に拘束されることによって、働いている、または遊んでいないという事実を作るために、人は時間に縛られている。時間こそが人を支配し、時間の奴隷状態になっている。これが現代の大きな病の一つであり、私たちは知らないうちに時間に、本来神さまから与えられている自由を奪われて生きている、まさに闇の中を生きているのではないかと思います。

 本日、短い詩篇でしたが、共に交読しました詩篇130編は、ルターの愛する悔い改めの詩篇の中の一つです。ルターが愛した悔い改めの詩篇は、この他に詩篇32編、51編、143編があります。
 この詩篇130編は、罪がもたらした煩悩とも言える深い苦しみの中から、神さまの恵みと赦しへ上がっていくことのできることを歌う詩篇です。つまり、神を畏れ敬う人の告白の詩なのです。
 先ほど交読したところより前の節から読んでみる。
 「2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。4 しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。5 わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。6 わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。」

 ここで言う「見張り」という言葉は聖書の中に良く出てくる言葉であります。戦いの相手である敵を警戒して見張りをおくとか、ぶどう畑を守る、または城を守る人のことを見張りと言っています。これは稀な表現ですが、詩篇141編には、「主よ、わたしの口に見張りを置き/唇の戸を守ってください。」というふうに使われています。

 しかし、大体は、国を守るとか町を守る、戦争の際に見方を守るために夜の警備を担当する人のことです。

 韓国の男性たちには兵役義務があります。誰も避けられない義務ですが、先日、最前線で夜の見張りをしていた兵士一人が頭に銃を打たれて死んだというニュースがありました。原因はわかりません。こういう事件は時々ありますが、私の高校の友だちのお兄さんも、北朝鮮との境界線の最も近いところに配置されていましたが、朝、遺体で発見されたと知らされました。夜、見張りをしていたときに、誰かによって殺されたのです。
ですから、息子を軍隊に送ってから、特に母親たちは、一晩も、両足を伸ばしてゆっくり眠ったことがないといいます。息子と一緒に、お母さんたちも見張りになって、国を守っているのです。一日でも早く徴兵制度がなくなり、本当の平和が訪れることを祈るものであります。

 このように、見張りという仕事は命が危ういほど、危険を伴うことでもあり、それにプラスして夜の深い暗闇という力に襲われる、心身ともに縛られる仕事ですね。
ですから、見張りが、朝が来るのを待つ思いといのは、経験したことのない人にはわからないことなのでしょう。
 しかし、詩篇130編の記者は、それにもまして、「見張りが朝を待つにもまして、わたしの魂は主を待ち望みます」と告白しています。どれだけ深い闇の中に置かれているのでしょうか。何が彼をそれほど縛り付けているのでしょうか。もちろんそれは罪の力。私たちは、この詩人の魂の叫びを察する必要があると思うのです。なぜなら、この詩人の叫び声は、私たちの中にもあるものだから。この叫びに築かないまま聖書を読む、祈りをする、教会生活をするということはありえないことであるからです。そんな私であるから、魂の叫びを持っている私たちであるから、神さまは、私たちの傍らに近づいてきてこられ、今、あなたは「どこにいるのか」と語りかけてくださるのです。

 エデンの園の木の間に隠れて、自分の力ではどうしようもできず深い暗闇のただ中に座り込んでいる二人。「見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして わたしの魂は主を待ち望みます」と叫ぶこの詩人の叫びが、この二人の心の、魂の叫びとなっているはず。

 私たちは、自分の魂が、今どういう状態であり、何を叫んでいるのか。渇いているのか、潤っているのか、診断をしてみる必要があると思います。本来、神さまから与えられた自由意志はどこで働いているのだろう?ただ、自己満足のために、心の欲望を満たすために用いていたりはしないだろうか。本当に、魂の渇きを満たすために、選び取るべきものを選び取り、諦めるべきものを諦めながら、他者に担うべき責任を転化しない、自らの土台となっている信仰の高台の上に、その責任をおいているのだろうか。そうできる自由を私たちは持っているのだろうか。

 マルチン・ルターは「キリスト者の自由」という本の第1章で、このように述べています。
 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」

 これは、ルターの信仰告白であります。このルターの信仰告白は、彼一人ではない、イエス・キリストが共におられることを感じさせるものです。人に自由意志を与えられた神さまは、その自由意志と共に働かれる神なのです。この自由が取り戻されるときでありますように。「見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして わたしの魂は主を待ち望みます」と祈れる、自分の魂の渇きの責任を自らの力で担うことのできる信仰の歩みでありますように祈ります。






聖書


創世記3章8~15節
8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」


詩篇130編(6~8節)
6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。 8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。