説教


聖霊降臨後第6主日礼拝
2012年7月15日
 
神の時 人の時
 

 「時は金なり」という言葉があります。時間は貴重であり、有効なものであるから無駄に費やしてはいけないと、時間の尊さを教えたベンジャミン・フランクリンという、アメリカの政治家であり科学者である人が言った格言であります。
 「時は金なり」という言葉は、ギリシャの「時は高い出費である」という言葉に由来するものだそうですが、たとえば、一日働けば一万円稼げるのに、働かずに、むしろ出歩いたりしてお金を使うことで、時とお金をダブルで無駄使いしてしまった、という意味から由来する言葉であるそうです。

 この言葉は、私たちにはとてもわかりやすい言葉であります。
 日本にも、「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。「時は金なり」という言葉に真正面から一致する言葉ではありませんが、ギリシャの「時は高い出費である」という元の言葉に似ている言葉だと思いました。

 このように、私たちは、時=お金、または時=仕事・働きと言うふうに考えますし、時を上手に使うことこそ社会で認められる責任感のある大人としての生き方だと思います。しかし、もし、私たちが、「時」というものをそのようにお金や仕事との関連の中でばかり考えているとしたら、それはとても損する人生だと思うのです。(私がそう思うのではなく、聖書がそう教えている)。私たちに与えられている時の中には、お金や仕事などによっては計り知れないほど豊かなもう一つの時が流れているということを今日はごいっしょに考えたいです。

 さて、先ほど拝読していただきましたマルコによる福音書4章26節からには、からし種のことが出ていました。からし種が土の中に蒔かれるが、蒔かれるときはどの種よりも小さな種であるが、それが芽を出して成長するとどの野菜よりも大きくなり、枝を伸ばし、するとそこに空の鳥が来て巣を作るほどに成長すると言う話しでした。野菜の枝に鶏の巣が作られるといいます。どんなに大きなやさいでしょうか。でもやさいという以上、木のように強いものではないことがわかります。

 からし種は、見たことのある方はご存知と思いますが、本当に、他の種と比べると目に付くかつかないかというくらい小さな種であります。種であるときはその存在さえわからないほどい小さなものが、しかし、土の中に入って、芽を出すと、それが成長して、鳥の巣が作るほど成長するということ。

 この話の中にはとても大事なことが流れています。つまり、その成長段階を誰も知らないということ。どうやってそれがずんずんと大きくなっていくのか、どうやって枝が伸びて、鳥が巣を作るほど大きくなるのか、それを育てる人にもわからないということであります。

 このからし種の話しはイエスさまのたとえ話でありますが、からし種とは、人のことですね。私たちのことを指しているのです。そして、土というのは、神さまのこと、またはイエスさまのこと。またはみ言葉のこと。つまり、私たちはみ言葉の中に蒔かれることによって、新たな目が出てきて、成長するのだということであります。逆に申しますと、み言葉を聞いてもその中に蒔かれない種は目を出さないということ。

 少し、他の事を通して考えて見ましょう。
 聖書の中には、永遠の命のことでイエスさまのところを訪れたある人の話しが書かれています。その人は大きな金持ちでした。イエスさまを訪れた彼は、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18)と聞きます。するとイエスさまは、「あなたにかけていることが一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」(ルカ18:22)と答えられます。

 彼は、小さい頃から聖書の中に決められている律法をすべて守り、何ひとつ悪いことをしたことのない、完璧な人でした。さらに、お金もあります。しかし、彼のその完璧さ、そして金持ちである、それが彼にとって欠けているところでした。イエスさまの返事は、とても不思議な返事です。人よりできること、人より持っていることを欠けていることと位置づけておられるのです。不思議でしょうがない。しかし、聖書の世界はそうなのです。能力やお金よりももっと強くて豊かなものがある。そしてそれは、この世の能力やお金をなくして初めて手に入れるものであり、見えてくるものである、と。これを、聖書では「生まれかわる」というふうに言います。

 イエスさまを訪れた金持ちは、イエスさまの言葉を聞いて悩みながら家に帰ります。それもそう!その時まで、社会の一人前として生きてきた価値観や考え方をすべて捨てるようにと言われるのに、悩まないでいられるでしょうか。きっと、私なら、イエスさまはそう言うけれど、わたしは私の生き方の中で神さまに従いますと言って、その夜聞いたイエスさまの言葉を忘れて生きることでしょう。しかし、彼は変わった、と、私は信じます。悩みながら帰ってこの金持ちは、言われたイエスさまの言葉のゆえに、神さまの時の中で、きっと、変わっていった。もっと豊かな神さまのみ言葉の中に自分を陥れて、そこで、自分の能力や世間の価値観に頼って生きていた自分が死に、限りのない、その時までは味わったことのない豊かさを手に入れたはずと、私はそう信じています。

 このことは、からし種のように小さな私たちが、神の言葉の中に陥れられて、目を出すということはこういうことだと思うのです。
 それこそ私たちは、世間が求める価値観に合わせて、一所懸命に働く、お金を稼ぐ、家族をもち、ローンを組んででも我が家を手に入れて幸せな暮らしをしているとしても、健康が脅かされるたびに、歳が重ねられることで、または、ささやかなことで人間関係がうまくいかないことなどで、不安がないですか。もしかしたら、このまま、ここで死ぬかもしれないと言う死への恐れはないですか。この他にも、きっと、あらゆることで小さくされて、どうして生まれてきたのか分からなくなることだってあると思うのです。

 そういう不安だらけの私たちが、神さまの言葉の中に陥れられるということ。そこで、芽を出し、枝を伸ばしながら成長し、やがては、空の鳥が来て巣を作って遊べるくらい実を実るものとして大きくなると言うこと。本日の福音書はからし種のたとえを通して私たちにそれを教えているのです。小さすぎて、世間の中では、いるかいないかさえ気づかない小さな、ちっぽけなものであったこの私が、どういうわけか、神さまという土の中に入れられた。そこで、あの金持ちが手に入れたかっていた永遠の命が与えられ、もはや私たちは、永遠の命のときを生きるようにされた、ということであります。

 もはや、私たちの持っている不安が取り除かれ、私よりも多くの不安を抱えている人々が集ってくる大きな木になるということ。つまり、このことは、貧しくて、弱くて、生きる希望を失っている隣人が見えるようになるということであります。今までも、隣りにいたはずのあの人、この人の姿が、はっきり見えるようになって、そして、私がいるのはあの人、この人のおかげなのだと、隣人への、家族への感謝が溢れるようになったということであります。今までは、自分にある能力やお金によって生きてきたそういう自分が、それが当たり前だと思っていた自分が、しかし、その時までは気づかなかった隣人への、家族への感謝の涙が溢れでる。神の時を生きるということはこういうことだと思うのです。

 人が生きやすい世界を作ろうと、「地球が100人の村だったら」という本を書いたデイヴィス・スミス氏は、教育相談家です。彼は、子どもたちに、地球が一つの村であることを伝えることを通して、世界が一つの群れであるという世界市民意識を飢えることに熱心な人です。彼には、そうすることが、将来、地球のすべての貧しい国と豊かな国が助け合い、不幸な国と幸福な国が支え合って、互いが理解し合って共に生きる道だと信じたからであります。
 たとえば、今日本で最も問題になっている電気のことに限ってはこのように考えます。
 地球という村が夜になりました。家々が電気をつけます。多くの家が電気をつけました。しかし、電気をつけられない家がもっとたくさんあります。電気の代わりにロウソクの灯火やランタン、ちょうちんの光もあります。
電気のある家に暮らす人は、世界のすべての人が電気の恩恵の下で暮らしていると思っていました。しかし、そうではない家が半分もあったのです。このことは、地球村全体が電気の恩恵の下にあることが幸せであるということを言っているのではなりません。そうではなく、今、電気の恩恵の下にある私が、電気の恩恵の下にいないもう一人の、隣り人のことに気づくこと。私よりもっと貧しくて、私の力を必要としている人がまだまだ大勢いるということに気づくということであります。
 「地球が100人の村だったら」という本は、隣に誰が住んでいるのか、そして、今私の隣に座っている人が何のために悩み苦しんでいるのか、関心さえ持とうとしない現代の私たちに多くのきづきを与えてくれる本だと思います。

 私たちの背中を見て育つ子どもたちに、大人である私たちは、こういう姿を見せたいです。すべて手放しているようで、より豊かに生きる姿。土の中に入って死んでいるようで、永遠の命を所有し、限界のない神さまの時の流れの中で、むしろ分かち合い、助け合い、命をも差し出しながらあなたこそ生きるように愛のまなざしを示してくださるイエスさまの愛に生きる姿。感謝の日々を生きる姿であります。その姿の中から流れ出る永遠のものは、決して出会う人を躓かせるものではなく、どんなときでも希望を与え、生きることを伝えるものであります。私たちは、神の永遠に触れることがゆるされた幸いな一人ひとりであります。






聖書


マルコによる福音書4章26~34節
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。