最近、日本でも竜巻が起きるのが珍しいことではなくなりました。天気予報は、百パーセントは当たらないにしても前もって知らされるので推測ができるものですが、竜巻はまったく予測がつかないものですから、もし、自分のところに起きたときには巻き込まれるしかないと思います。
予測できないことが起きるのは、竜巻だけではなく地震や津波、または車の事故や重い病気、ほかにもあらゆることがありましょう。生きるうちに、突発的なことを経験しないで生きられることはあまりないと思います。誰だって、人生に一度、二度は、思いもかけないときにもっとも大切なものを失ったり、人の知恵や力ではどうすることもできない状態におかれたりします。そんな突発的なことに直面したときに、人は、何を畏れるか!人は、誰を畏れるか!本日の福音書の日課は私たちにそれを問いかけていると思います。
さて、皆さんは「畏れる!」という体験をしたことがありますでしょうか。体験までは行かなくても、感覚で感じたことがありますでしょうか。
創世記3章に描かれている、エデンの園でのアダムとエヴァは、神さまの戒めを破ってはじめて感じることがありました。彼らは、取って食べるな!と命じられた善悪の木から実を取って食べてしまいます。戒めを下さった神さまに対して、または戒めそのものに対する恐れが欠けた行動をしました。戒めを破った人に初めて訪れたのは、「恥ずかしい」と思う思いでした。
「恥ずかしい」という思いは、失敗したときに感じる思いですね。知ってほしくないところが知られたり、見せたくないことを見られたりしたときに感じる感情です。エデンの園の二人は、戒めを破って神さまとの関係を破り、恥ずかしくなって、まず裸を覆うことで体を隠しています。しかし、ここで恥ずかしいと感じている彼の心の中にもう一つ、造り主に対する「畏れ」が芽生えている事に気づかされます。つまりそれは、彼らは、ただ裸だから恥ずかしいのではなく、戒めをくださった方を軽んじたという恥ずかしさもありました。つまり、戒めをくださった方を畏れていなかった。畏れ敬うという思いより、食べたいという自分の欲望を優先したということであります。
ともかく、恥ずかしくて木の後ろに隠れているアダムとエヴァは、戒めを破って初めて内面で恥ずかしさを感じ、神さまに対する畏れを経験しています。つまり、自分自身の内面が揺さぶられる経験に導かれていると言うこととも言えると思います。
旧躍神学の世界では、この箇所を教育的な指針を与える箇所として用いられたりします。悪いことをしてもそれがどうして悪いのかわからない世代が増えつつある現代には(古い世代も)、もっとも必要な教えであると思いますが、私たちは、ここで言う恥ずかしさや畏れる心ということを、本当の意味で感じ取っているのだろうか?戒めを破りながらも心は鈍感で、平気で振舞ったりはしないだろうか。自分を振り返る必要があると思います。
昨日、27時間テレビを見ながら、あるところで、自己成功家の話が成されていました。自己成功家は他者を認めないそうですね。これは「軽んじる」ということとつながると思います。他者を「軽んじる」ということは、自分が相手より優越であるという思いが働くということですね。それが人間同士であったら、大体は喧嘩になります。(親子同士であっても)。喧嘩ができなく力関係が働いていれば、軽んじられた方が我慢するようになり、抑圧される中の関係が続きます。この世のシステムは大体そうだと思います。パワーハラです。決してゆるされる行為ではなりません。
ところが、それが神と人間との関係だったらどうでしょう。
私たちは、まさか神さまを軽んじることなどできないと思いますし、そうはしていないつもりでいると思います。しかし、人を、それが、職業柄において、または男性か女性かの性の差において、または子どもか大人かにおいて、軽んじたり、無視したりしているとするならば、それは、神さまを軽んじていることになるということになります。
神を畏れ敬うと言う思いは、人との関係の中に現れるということであります。人との関係の中で、あの時、あの人の前で見せてしまった自分の姿、または、吐いてしまった自分の言葉が恥ずかしくてたまらないと、自分を振り返られるという姿勢は、創造主に対する畏れを抱いているという姿勢の表しですね。これは、私たち信仰者にとって考えるべき、とても大事なことであります。
さて、本日、大勢の群集にたくさんのたとえ話をなさったイエスさまは、弟子たちといっしょに、用意された小舟にわかれて乗ります。お話をして疲れを癒すために船に乗って向こう岸へ渡ろうとされていたのでしょうか。もちろん、向こう岸へ渡られてもそこでまた病気の人を癒したりする仕事が待っているわけでありますが、ですから、船に乗っている時間だけがイエスさまにとっては大切な休息の時でありますし、湖の上の小舟の中で休息の時を設定して描くマルコ共同体は、ロマンな人の群れだったと思います。湖の真ん中に出て、海が静かで、静かな海の上にしばらく留まっていれば、舟はまるでゆり篭のように、疲れている人をゆっくり眠らせてくれる。ロマンですね。
ところが、そのロマンは瞬く間に壊され、予定になかった突風が起きました。きっと、この湖はガリラヤ湖と思いますが、ガリラヤ湖はしばしば突風に襲われる所だったようです。ですから、イエスさまといっしょに舟に乗っている、元漁師たちの騒ぎは、私たちに異常な姿に移るほど、オーバーパフォーマンスです。ガリラヤ湖に対しては誰よりも、イエスさまよりも知っている彼らが大騒ぎしているのです。むしろ、漁師でもなく船旅の経験のないイエスさまの方が彼らに「どうすればいいのか?」と聞いた方が、私たちには素直に受け止められそうではないでしょうか。
ということは、この湖でのイエスさまと弟子たちの間で起こっていること、それを通して語ろうとしている重要なことがあることに気づかされます。つまり、誰を恐れるか!誰を重んじ、誰に信頼を置くかということがここでは問われているということであります。
以前もお話したと思いますが、私が小学校1年生か2年生の頃のことと思います。姉の甥たちは男の子だけ三人ですが、一人は私より三歳上で、その次に私、その次に二・三歳の差で二人がいます。小さい頃いつもいっしょに遊んでいました。私が生まれ育ったところは海のそばで、港があり、学校から帰ると夏はいつも港で泳いだりして遊んでいました。当時はまだ丸い木をつなぎ合わせて作った筏があった時代でして、甥たちとそれに乗って港で遊んでいました。ところが、誰が筏の紐を解いたのかわからないけど、気がついたら筏は港が小さなおもちゃの大きさくらいしか見えないほど、深い海の上に来ていた。遊んでいるうちに風が段々強くなり、風に飛ばされてどんどん沖の方へ進められたと思います。そこで、海の沖に飛ばされたことに気づいた瞬間、いきなり海が怖くなり、海のそこがとても暗く、何か、化け物でも出てきそうな恐怖感の中で、私は下の二人の甥とずっと泣いていました。
まあ、大きな船が助けに来て四人とも無事に帰ってきたのですが、あれ以来、今でも、船旅は嫌いですし、海の深いところにいくことはできなくなりました。もちろん、あの時はクリスチャンでもなかったし、まあ信じていたとしても小さな心から海よりは神さまを恐れるような信仰をもつことを考えるのは難しいことですが、未だに、トラウマになって海が怖いのです。海の怖さに囚われているのです。
今日の福音書の中で言いようとしていることはこういうことだと思うのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、襲ってくる高波を恐れて、弟子たちはわれを失ってしまいました。もし、ここでイエスさまがおらず彼らだけだったら、きっと、彼らは二度と船出はしないようになることでしょう。一生涯トラウマになって付き添ってくることになったと思うのです。ですから、そういう彼らのそばにイエスさまが共におられるということは、とても重要なことであります。本当に恐れる対象が誰なのかを、彼らははっきりと知らされるようになるからです。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」
そう言ってイエスさまをせめていた弟子たちの言葉が、同じ時間帯の海の上で、百八十度変わっていきます。
「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。
自分たちを責めてきた突風よりも、嵐よりも、高い波よりも、重い病気よりも、さらには「死」そのものよりも、もっと強い方がおられる。私のすぐ傍らに、私と共におられる。自然界を支配し、司る方が私の主でおられる、という体験。
つまりこのことは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:35)と告白するローマの教会の信徒の群れの告白そのものであります。この世のどんなに力あるものも、私をキリストの愛から切り離すことはできない、と。
この湖での経験は、弟子たちにとって神的体験でありました。私たちには理解しにくい体験でもあります。しかし、この体験を通して弟子たちとイエスさまとの関係がはっきりとわかるようになりました。つまり、自分は人間である。私が神ではない、ということを彼らははっきりと見える形で知らされたのです。つまり、私は、天地を司るこの方を通してのみ、大きな困難の中でも希望を見出すことのできる、そういう方を主と呼び信じている幸いな者なのだということであります。
「望みの港へ導かれる」ということはこういうことを指すことです。決して、ユートピアのような、悲しみもなく苦しみもなく、ハッピー、ハッピーなどこかへ導かれると言うことではありません。自分が、信仰者でありながら、理性の満足を重んじるあまり、心から神の現在、神さまが今私とともにおられ、私のあらゆることを見ていてくださり、望みの港へ導いておられることに気づかない、気づこうともせず、自分の欲望に従ってそれらしく見えるものを選択し、それらしく見えないものを切り捨てながら生きてきた。そう言う自分であることを知るところ。望みの港です。
本日の説教の要約のところでご紹介しています「三本の木」という絵本の中の一本の木は、小さい頃からの夢が大きな船に造られ、世界を回ることでしたから、漁船に作られてしまって絶望の中で生きていました。漁船のような、生くさい臭いを放つようなのは価値のないものだと思っていたからです。しかし、そんな価値のないものにイエスさまが乗り込んでくださるとき、漁船はただの漁船ではなく、この世の、高価な船よりも価値あるものになりました。この世に合わせていた自分の価値基準を恥じて、生まれかわったのです。
イエスさまが、弱くて、問題だらけで、困難の多い、このような私に乗り込んできて、いっしょに生きてくださっています。それゆえにこそ、私は、私たちは価値あるものなのです。私たちは、共にいてくださるこの方のゆえに、救いの港、望みの港へたどり着くことができるのです。