説教


聖霊降臨後第9主日礼拝
2012年7月29日
 
主の必然の中で
 

 一度だけでも服に触れたら五百回の縁が結ばれることになるということを説いているのは、確か仏教の教えだと思います。それだけ、人と人との出会いは簡単なものではない、大切なのだということをいいようとしているのでしょう。

 先ほど拝読していただきました福音書の中には、十二年間出血が止まらない病にかかっている一人の女性の姿が描かれていました。全財産を治療のために使い果たすまで、病気を治すために必死な女性の姿があります。その彼女が、イエスの噂を聞き、何としてでもこの方に会いたいという必死な思いで、彼女は群集の中に紛れ込みます。彼女に、他に家族がいるのかどうか、それについて聖書は何も教えません。けれど、彼女について描く内容から、彼女が一人暮らしではないだろうか、ですから、彼女は未亡人かもしれないということを垣間見ることができます。

 ともかく、彼女は、最後に残された力を搾り出して、ヤイロの娘の病気を治しに行こうとするイエスの裾を止めます。イエスとの出会いを果たすのです。彼女の置かれた状況から考えるとき、とても勇気ある行動です。きっと、彼女は、病の中でも出血が止まらないという病のために、十二年間、言葉では現すことのできない苦しみの中で暮らしていたと思います。旧約聖書のレビ記に定められている、血を巡ることにおいての律法はとても厳しいからです。律法の定めによって彼女は、大勢の人の群れと交わることが許されない、隅っこに追いやられて、「汚れた者」というレッテルが貼られた、まるで、死んだような生を生きていたのではないかと思うのです。

 血を巡る差別と偏見はユダヤ教やキリスト教だけでなく、仏教にもありました。私が関わっている日本フェミニスト神学・宣教センターで、先日、仏教の浄土真宗の女性たちの性差別運動の話しを聞くことができました。運動のリーダー的な役割を果たしている源 淳子さんが、「現代の『女人禁制』-性差別の根源を探る」というテーマで話をしていただきました。講演の中で私の印象に残ったのは、大峰山運動でした。大峰山は奈良県にある山ですが、その山頂にはお寺があって、その寺に女性は登ることができない。なぜなら、女性は汚れているから!聖書のレビ記に定められている「浄」と「不浄」の律法にとても似ています。

 出血が止まらない病のゆえに「汚れた者」とされて社会から追い出されていく。ですから、彼女は、今日、群集の中に紛れ込むしかなかった。「紛れ込む」というこの表現が、彼女が置かれていた状況を良く現しています。その彼女が、「この方の服にでも触れればいやしていただける」という必死の思いで群集の中に紛れ込み、念願のイエスの服に触れたのであります。病が癒されました。イエスの内から彼女へ力が出て行ったのです。

 「この方の服にでも触れればいやしていただける」という、これは、彼女の特別な思いでしたが、確かに、たったの一度の触れあいで病が癒されました。ところが、それはただの身体的な病が癒されて、出血が止まったということだけではありません。十二年間闘い続けて、ボロボロだった体が健康になるのと同時に、精神的なストレスも癒され、さらには、堂々と社会の一人として群れの中に入って行くことができるようになった。「汚れた者」というレッテルが外されるようになったということを意味します。つまり、彼女の全存在が、あるべき姿へ取り戻されたということ。

 イエスの内なる力によって、彼女は、この世では手に入れることのできない、永遠と触れ合ったのでした。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という願いを通して、その方のうちに流れる永遠のいのちに触れることがゆるされたのであります。

 たったの一度のふれあいが五百回の縁に結ばれるどころか、永遠の縁に結ばれていったのです。これはもちろん、彼女の必死な思いが、「この方の服にでも触れればいやしていただける」という思いがそうさせたのですが、だけど、私はこの彼女とイエスとの関係に介入しておられる神さまを見るのです。彼女とイエスが、たまたま、服に触れたので出会ったのではなく、偶然出会ったから永遠に結ばれていくのでもなく、これは、神の必然の中での出会いであったのだと。

 時々、結婚した相手がクリスチャンだったから相手と付き合うような形で教会に通うようになったけど、自分が直接導かれているとは思えないという悩みをもっている方がいたり、自分は母体信仰だけど、親が信じているから自然に教会に通うようになったけど、ぴんと来ないという方がいたりします。

 私は、このような悩みをもって訪ねてくる方たちに、はっきりといいます。「違います」と。導かれるきっかけは、結婚する相手がクリスチャンだったらとか、親がクリスチャンだったからとか、たまたま教会の看板を見て入ったからとか、いろいろと理由はあるでしょう。しかし、そういう導きの中で、神さまは一対一で向かい合ってくださり、この人が何を思い、どういう歩みを望み、どう生きたいのか。いいえ、どういう道がこの人にとってふさわしい道なのかを知っていてくださり、心を開いてくることを待っていておられるのです。だれだって、これだ!というしるしが与えられて信じるようになった人はいないと思います。もし、はっきりとしるしが与えられたから信じたという人がいたら、むしろ、その方が危ういと思います。

 私たちは、どうしても、しるしを求めてなかなか心を開かない、自分の手ごたえによって物事を判断しようとしてしまいます。自分のかんじる感覚を重んじるあまり、その感覚の中でだけ絶望したり、嘆いたり、呟いたり…そして、ダメだとすぐ諦めてしまったり…そうしているうちに、私の中に律法が硬く造られていて、それによって人を判断したり、清い人、汚れている人と位置づけて自分から追いやったりしていく。本日の聖書の中の女性は、周りから、そういう偏見を耐えていた一人であります。

 けれど、今、この時も、自分の手ごたえによって生きようとする私に寄り添ってくださり、私の歩む道のりの、その先を拓きながら進んでおられる方がいる。呼びかければ、いつでも、どんなときでも振り向いて、私が抱えている問題と向かい合ってくださる方。神の愛はこの方、イエスを通して私たちに示されるのであります。

 神さまは、私たち一人ひとりが、この女性と同じように、束縛されないで、自由に、罪から開放されて自分らしく生きることを望んでおられます。そのためにあらゆる機会を通して私たちと出会って下さっているのです。つまり、この世のどのような差別や偏見も、肉体を蝕む病も、この世の権力さえも、このイエスを通して与えられる神の愛から私たちを奪うことはできない、ということであります。たとえそれが、聖書の中に堂々と記されている律法であっても、イエスを通して示される神さまの愛から私たちを切り離すことはできません。これが神の必然的な働きの中で、神さま自らが私たちに出会ってくださる、愛の眼差しであります。
 この神の愛に生きる一週間であり、また一生涯がこの神さまの愛に満たされる、幸いな一生涯でありますようにお祈りいたします。






聖書


マルコによる福音書5章21~31節
21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」