説教


聖霊降臨後第10主日
2012年8月5日
 
マリアの息子
 

 ヤイロの家で、娘を生かして癒されたイエスさまは、そこを離れてナザレの家に帰ります。ナザレは、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の西の方へ30キロほど離れた、海抜350~400メトル時点の山の上に位置している、小さな村です。当時はそれほど知られない村でした。

 そこへ、村を離れて、弟子をも作ったイエスさまが、12年間出血が止まらない女性を癒したり、ヤイロの娘を生き返らせたりした癒しの奇跡を行なったのちに、弟子たちを連れて帰られるのです。小さい時から父ヨセフの大工の仕事を手伝いながら育ったイエスを知る村人たちに、弟子を連れて現れたイエスは受け入れがたい存在だったのでしょうか。無学で田舎の男として年を取るはずのイエスが、会堂で教えるほど優れた知恵を持っていることに焼きもちをもったのでしょうか。それとも、その他に、村人には、イエスに対する異なる感情があったのでしょうか。帰られたイエスをまったく受け入れられない、厳しい村人たちの様子が本日の福音書の内容となっています。

 帰られた故郷ナザレで安息日を迎えられて会堂で説教をしておられたイエスさまに向かって村人たちは驚き始めます。もちろん、知恵ある教えだったからでしょう。しかしそれだけではありません。彼らは口をそろえて言います。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」(3節)と。村人たちの驚きは、三流的な驚きでした。

 村人たちは「マリアの息子」と、イエスさまのことを言いあらわしています。いったい、何を言いたいのでしょうか。イエスがマリアの息子であることは間違いないことです。しかし、ただそれを言っているとは思えない。なぜなら、ユダヤ人は母親の名前で子どもを呼ぶことはないからです。

 ある人は、ヨセフが早死にしていないから「マリアの息子」と呼んでいると言う人もいます。しかし、イスラエルでは、たとえ父親が早く死んでいなくても、子どもが母親の名前で呼ばれることはありません。ということは、この呼び方には、何か、異なる意味が入っているということを推測させる呼び方であります。

 つまり、イエスは小さい頃から人々に「マリアの息子」というふうに言われながら育てられていた。それは何を意味するかと申しますと、父親が誰なのか分からない、ということであります。マリアのお腹の中にいるときにヨセフと結婚をして、それからイエスさまは生まれます。そして、父ヨセフの仕事を手伝いながら育ちますが、しかし彼は「マリアの息子」。無視した呼び方です。マリアとイエスのことを差別していた、偏見的に見ていたということであります。

 これは、母親にとっても子どもにとってもとても耐えられないことだったと思います。小さな村の中で、偏見視する冷たい視線に耐えながら生きる。隅っこに追いやられて生きなければならない立場というのは、まさに、今の社会で問題になっている「イジメ」であります。

 そのイエスが、弟子たちを連れて帰ってきたのでした。それだけでもびっくり仰天することなのに、会堂での説教が、天の知恵に満ちていた素晴らしい説教だった。そのために人々は驚きを隠すことができません。まさか、大工で、マリアの息子が、神さまの教えを立派に解くとは考えもしなかったことだった。だから信じられないのです。

 まさに私たちの姿ではないでしょうか。家柄に問題があり、学歴が劣っていたり、体に何らかの障害をもっていたり、何らかの形で社会が決めている標準から乱れていくとき、私たちは何の偏見もなくその人を受け入れられるだろうか。または、そういう立場にいる人が、自分より優れていることを知らされるとき、心の中に何の同様もなくありのまま相手を受け入れられるだろうか。それが、長い間いっしょに、小さな共同体の中で生活をともにしていた中であればなおさら、受け入れられるだろうか。私たちは、この村人たちの三流的な驚き方、心の中に騒ぎ起きた嫌な気持ちをとてもよくわかるような気がないでしょうか。

 そうすることで、会堂にいた人々はイエスを自分たちから切り捨てました。大工でマリアの息子である理由から、どんなに力ある説教であっても、どんな素晴らしい癒しの奇跡を起こしたとしても、イエスが行なわれることすべて、受け入れられない、切り捨てます。ですから、本日の本文の5節には、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」(5節)と書かれるようになりました。

 このことは、私たちにとても大事なことを示しているところです。
 イエスさまが語られるみ言葉、または癒しの奇跡は、イエスさまの個人的な能力によって行なわれているのではないということであります。もし、イエスさまが自ら持っている力でみ言葉を語り、癒しの奇跡を行なっているとするならば、それは、神さまとは関係のない、それこそ心理的な、魔術的な、または他の何かの宗教といったものになります。しかし、そうではなく、イエスさまが奇跡を行なわれるということは、救いをもたらす神の子としてのイエスが、共にいてくださる神のゆえに、奇跡を行なうことができる、ということであります。つまりそれは、救い主としてのイエスが拒否されるときには、神の奇跡は行なわれないということであります。私たちは、この点を注意して受け止めたいです。

 ナザレでは、ごく僅かな人だけがイエスさまによって病を癒していただき、イエスさまを救い主として受け入れました。ごく僅かな人。誰のことでしょうか。私はこの僅かな人の中に入っているのだろうか。それとも、やはり、会堂の中でイエスさまのことを「マリアの息子」と指差していた人たちの群れに入っていたりはしないのか。もし、私が、隣人に対して、学歴や社会の地位によって判断しようとしているならば、それは、イエスをそうしていることになりましょう。イエスさまを主と告白していながら、隣人に対して偏見と差別に満ちた思いを向けているならば、あのナザレの村の人たちの群れの中にいることになることでしょう。

 ナザレの人たちも、もちろん神さまを信じる立派なユダヤ教徒でした。小さい頃から、細かい律法をもちゃんと守る中で信仰生活をしていた人たちです。神さまを信じることにはだれにも負けまいと自負心さえもっている人たちなのかもしれません。けれど、隣人として育ったイエスをありのまま受け入れることはできなかった。神さまが愛してご自分の子として用いておられる方であっても、自分たちの偏見的な物差しで計って違っていたならば、躊躇することなく切り離していく。そこには神の愛などこれっぽっちもありません。

 イエスさまがマリアの息子であることは、今でも変わりません。神さまは、この「マリアの息子」を私たちの救い主として送ってくださいました。神さまに送られたマリアの息子が、今日、私の上に手を置き、私の最も弱いところに手を置いて、癒しの力を注いでくださっています。私がどのような環境の中で育てられ、今、どのような立場にいて、多くの弱さを抱えているとしても、それら何一つ問題にせず、ありのまま受け入れてくださっているのです。はかりも知れない神さまの愛の眼差しであります。それを、私は、どうやって受け入れないで切り捨てることができるでしょうか。無条件に愛してやまない神さまの愛の手を、どうやって断ることができるでしょうか。

 どの誰よりも低い身分で生まれ育ち、この世的には多くの問題を抱えておられた方が、しかし、どの誰よりも高く上げられ、神に愛される神の子とされました。その方が私たちの主、救い主であります。私たちを神さまの永遠の命に触れるように、救いの道へ導かれる方であるのです。私たちの信仰はこの両方のバランスを崩さないところにあってこそ生かされるようになります。そして、その両方をバランスよく受け止めているという証は、私たちが隣人と向かい合うときに表れます。神さまが私たちの弱いところをこそ守り、大事にしてくださるように、私たちも、隣人の弱いところをこそ大事にする、そういう一週間であり、一生涯の歩みでありますように祈ります。






聖書


マルコによる福音書6章1~6a節
1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6 そして、人々の不信仰に驚かれた。