説教


聖霊降臨後第11主日礼拝
2012年8月12日
 
選ばれた者
 

 先週は、日本中がオリンピックの熱気に包まれた一週間だったのではないかと思います。サッカーや、バレボールと、その他のいろいろの種目において、嬉しかったり悔しかったり…もちろん、誰よりも選手たちがそう言う気持ちの中にあると思いますが、きっと、皆さんもそう言う思いの中で過ごされたのではないでしょうか。

 そう言う意味でスポーツは、同じ思いをしている人の気持ちをいっきに一つにさせるものだと改めて思わされたときでした。知らない人同士で同じ気持ちになって応援したり、買ったときの喜びや負けたときの悔しい思いを共有したりできる、それは、やはりスポーツだけだと思います。
 そして、実際、オリンピックは、世界の人種差別や人権差別など、あらゆる面で世界平和に貢献してきたものだと思います。これからも、結束力と共に、人と人との心を繋いで、たくさんの仲間を作り出していく大事な役割を担ってくれることでしょう。

 そういう意味でもロンドンオリンピックは、この夏の暑さを乗り越えるための、スタミナーのようなものだったのではないかと思いました。韓国では、暑い夏には暑いものを食べて、汗をたくさん流して暑さを乗り越えるといって、スタミナー食がいろいろあります。(サムゲタン、うなぎなど…)。

 私は、このようなことを「おまけ」という言葉で表現できるのではないかと思います。キリスト教的な言葉では「恵み」なのですね。暑い夏を乗り越えるためのものですから、夏の暑さより力があるものだと言ってもいいでしょう。(買い物の話し。買い物をするときに、本来買いたがったものにプラスしてもらう、おまけでもらったものこそ嬉しいときがある。)

 エフェソの教会にもおまけのように与えられたものがあって、大いにそれを喜んで、感謝しています。つまり、こう言うのです。「天地創造の前に神は私たちを愛して、ご自分の前で、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と。もちろん、「おまけ」というような言葉は使っていませんが、人が、天地創造の前から神さまに愛され、聖なる者とされ、汚れのない者にされる。これは、その人自身は知らないことですね。あなたのことを聖なる者にしてもいいかとか、汚れのない者にしてもいいかと、人に聞いてからみ旨を果たされるのではない、神さまの一方的な思いの中でそうされることですから、人には知らされることのないことであります。

 ある神学学者は、ここから予定説を描き出します。天地創造の前から聖なる者にされる人とそうではない者が決まっている、と言うのです。しかし、私は、それは間違いと確信しています。この神さまの一方的な働きかけは、どの人にも、それこそ人種や人格関係なく向けられている働きかけであって、特別な誰かのためにだけのものではない、そう信じています。ただ、それが人に知らされるのが、イエス・キリストにあって、つまり、イエス・キリストを通してである、というわけですから、イエスを知らない人にはピーンと来ない話になるわけであります。

 人はキリストにおいて、天地創造の前から聖なる者とされ、汚れのない者とされている。どんなに嬉しいことでしょうか。このことは、私たちにとって測ることのできない、恵みなのですね。違う言葉で申しますと、私たちに向けられた神の救いが、イエス・キリストを通してなされた。神さまからの豊かな恵みでありますが、つまり、買い物をしたときに売主から一方的にいただく「おまけ」として与えられるものであります。

 皆さん、皆さんは自分が、このイエス・キリストを通して神さまに救われていることを、実感していますでしょうか。神さまの働きかけがなく、ほって置かれていたならば、知らないまま死を迎え、いったい、私の人生は何だったのだろう!と悔しい思いでこの世を去るはずの自分が、救われている、永遠の命に与っている、天の国の市民としてこの世を生きるようにされているということは、驚くしかないことであります。毎日、どんなときでも、感謝せずにはいられないことだと思うのです。本当に、私たちは、毎日、どんな時でも、救われていることに対する驚きと共に感謝しているのだろうか。

 私は、自分がそうしていないことを、先週ある方と時間をともに過ごす中で知らされました。
 私たちが今年の教会のテーマにしています、「絶えず祈りなさい」というテサロニケの教会の言葉は、いつも喜んでいなさい、どんなことにも感謝しなさい、という言葉の間に挟まれている言葉であります。ですから、喜ぶことと祈ることと感謝すること、この三つはセットでなされるものですね。それを、普通の、何でもない、それこそどんな時でも、生活の中で、または、本当にどのような状況の中に置かれているときでも、祈り、感謝し、喜んでいるのだろうか。そうしていない自分に大きく気づかされて、ショックさえありました。自分がどんなに傲慢なものなのか、また最初からやり直し!という、恥ずかしい思いが強く私を苦しめました。

 そうなのです。私たちが救われたのは当たり前なことではないのであります。いい子だから救われたのではないですね。悪い子はもっと。教会の奉仕を一生懸命にしているから救われるのでもありません。私たちが何かをしたとか、しなかったとか、それが救いの条件になるのではないということであります。神さまの一方的な恵みが、イエス・キリストを通して私たちに向けられたために私たちは救われたのです。

 このような神さまの恵みを安価な、安っぽい恵みにしないためにも、私たちは、日常生活の中で感謝することを身に付けていかなければならないと思いました。きっと、日常生活の中で感謝ができるとき、私たちは、少しでも、神さまが、今、私に、何を望んでおられるのか、どういう歩みをして欲しいのか。さらには、私の今の辛い思い、苦しみを見ていてくださっている。今、私が孤独と戦っていることも、不安の中で、壁のような大きな問題に囲まれていることも、私に一方的に働きかけておられる方が、ちゃんと見ていてくださっている。それを、少なくとも、感じ取ることができるのではないかと思うのです。

 神さまが、天地創造の前から、私たちに対して、一方的に心を向けておられるということ。私たちが嬉しいときや、死を前にしているような苦しいときなど問わず、どんなときでも、一方的に御心を向けてくださっている。そのことは、つまり、神さまの自由な働きかけが私たちに対してなされているということ。神さまが勝手に私たちの人生に介入しておられるということであります。天地創造の前から今、このときも、そうだということであります。

 つまり、それは、私たちの置かれた状況を問わず、神さまの救いの物語が私たちの中で展開されていると言うことであります。それは、救われるか、救われないかそう言うことではなく、私たちに語られる救いの物語を語り伝えるようにと、今も働きかけておられると言うことであります。どんなときも、折が良くても悪くても、晴れる日も雨の日も、暑い日も寒い日も、神さまの救いの物語を語り伝えるように、働きかけておられるということです。

 本日の福音書は、イエスさまが、弟子たちを二人ペアにして派遣しておられるところです。弟子たちが、とても厳しい条件付けで遣わされていることがわかります。持って言っていいのは杖一本だけです。今のような暑さでは考えられないことです。でも、パレスチナ地方はこちらよりも熱いですから、熱中症にならなかったのかと心配になりますが、杖一本のほかに何も持たないということは、必要なものは、宣教しに出かける人ではなく、宣教する人を受け入れる側が持つという考え方ですね。そして、ある村に入ったら、その村を出るまでその家にずっと留まっていなさい、と。しかし、もし、迎え入れない家があったら、その家を出るとき、足の誇りをその家に払い落として出なさいと、本当に厳しいことが言われています。

 つまり、人情によって振舞っては、宣教はできない、ということでありましょう。なかなか難しいことを言われているのですね。人情に左右されるときに、ともすると、伝えるべき救いの物語を伝えることができなくなるから、だから、宣教をする側も、受け入れる側も、ひたすら宣教のために励むような、両方が一つになってするものだと言うことをいいたいのでしょう。

 とても厳しく思えるような弟子たちの姿から、私たちは、自分を探し出さなければなりません。彼らは、イエスさまを通して与えられた救いの物語を語るために選ばれた者であります。私たちが、天地創造の前から聖なる者として選ばれていること、そして、神さまの一方的な働きかけによって私たちの中に救いの物語が語られていることは、それを、まだ聞いていない人に伝えるために選ばれていると言うことですから、派遣される弟子たちの姿から自分を見出すようにしなければなりません。

 そうしたら、みんな神学校に行って神学の勉強をしなければならないのか。そうではない。私たちがよく聞く言葉の中に、神の国をもたらす、とか、神の国が臨むように!という言葉があります。私は、それが私たちのするべきことであり、できるだと思うのですが、神の国が望むということは、天が崩れて地上に天国が現れることを言うのではなく、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とおっしゃっておられたイエスさまの言葉にその答えがあると思います。つまり、イエスさまがおられるところには、救いがある、おまけのような喜びがある。人々の心が一つにされ、喜びも悔しさも、悲しみや苦しみさえも共有できるところ。ですから、そこには戦争がない、平和が、まことの平和が臨むところ。

 私たちが礼拝を終えて、生活の場へ帰れば、生活や将来への不安が再び襲ってくることでしょう。または、老いからくる不安や、子どものこと、家族のこと、多くの不安を抱えるようになることでしょう。心が病むほど悩んでいたり、怒りや憤りを覚えたりするときもあることでしょう。しかし、その中にイエスが、神さまの救いの物語を私たちに指し示しながら共におられる。どのような状況の中に置かれようとも、私たちが気づかないうちから私の中で始まった救いの物語、与えられたおまけ、神の恵みを、もう一人の隣人に語り伝えるように、イエスが私たちを支えておられること。

 私たちは、どんなときにも、この方のゆえに神さまの特別な恵みに生きることがゆるされた、選ばれた聖なるもの、幸いな者であります。どんなときでも、神さまの自由の中で語り伝えられている救いの物語に生きるように選ばれた平和の道具、主の弟子であります。そのことを強い自覚の中に置く中で、祈り、そして感謝することを大切に、恵み豊かなときを過ごすことができますようにお祈りいたします。






聖書


マルコによる福音書6章6b~13節
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


エフェソの信徒への手紙1章3~14節
3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。