説教


聖霊降臨後第12主日
2012年8月19日
 
屑と残り
 

 屑や残り。私たちにとってそれらはどうでもよく、それらに価値を見出すこともせず、無関心に通り過ぎてしまうもの、見捨てられたり、処分されたりするのが関の山です。屑や残り物は決して形の整ったものではないでしょう。しかし、たとえばパンであったなら屑かもしれないけどパンには変わりはないし、魚も残りのものかもしれないけど魚に変わりはない。でもあえて売り物でパンの屑や魚の残りを買う人はほとんどいないでしょう。ただ、山のように積み上げただのような値段で売られていたら別かもしれません。それでもやはり価値のないものとして扱われるのです。そしてまた、このことはものだけに当てはめられていることではなく、私たち人間にも当てはめられ、屑や残り物扱いされる人もいます。屑や残り物扱いされる人たちは脇に追いやられ弱くて小さく低い立場に立たされてしまうものです。つまり、逆に強くて高い立場に立っている人間が間違いなくいると言うことです。人は誰でも高みを目指して何でもするもの、屑や残り物になりたくはないし、弱くて低い立場は御免です。ですが、なんと究極の高みからこの世界にこられ、それにとどまらず底辺以下のよみの世界まで降った方がおれらました。それが、私たちの主イエス・キリストその方であります。私たちの主イエス・キリストが「屑と残り」物への思いと新たな気づきを与えてくださいます。

 イエスさまと弟子たちの一行は人里離れたところを目指し、そこへ行ってみると、なんと大勢の群衆が待ち構えていました。主イエスは深い憐れみのうちに群衆にいろいろと教え始められます。つまり、みことばが人々へ語られました。そして、時もだいぶたったころ弟子たちは食事の心配をし始めます。弟子たちは人々を解散させて、それぞれが自分で食事することを考えますが、驚いたことにイエスさまは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われるのです。そしてすぐに弟子たちは、頭の計算機をはじきます。この事は誰しもがすることだと思います。「大勢の群衆はざっと5千人以上、その人々に行きわたる量のパンを買うとなると200デナリオンは下らないぞ。」と。誰もがこのように考え計算し、私たちにはどうすることができるだろうかと思い巡らせることでしょう。そして、すぐに思うのです「不可能だ」と。同時に、こう思うでしょう。「人々を解散させて自分たちで食べ物を買わせれば済むことじゃないか」と。この思いが弟子たちの次の言葉にあらわされていると思います。「私たちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。
 しかし、主イエスは人々の心と体の健康と魂の平安を気遣われ、誰ひとりとして洩れることなくすべての人に愛と恵みとを、いのちの糧を分け与えたいと願っておられる方です。 
 そして、弟子たちに「パンがいくつあるか見てきなさい」と言われます。弟子たちは五つのパンと二匹の魚を見つけてきます。
 五千人、200デナリオン、5つのパンと2匹の魚。無理だ、絶対に不可能だと彼らは考えたはずです。弟子たちの目にはこの困難な現実だけが映り、心を奪われ、すぐそばにおられる主イエスの存在に目を向け、信頼の心を寄せることができませんでした。
 弟子たちの目には、五つのパンと二匹の魚では群衆に食べさせることは不可能であると映り、限界を感じていた、しかし、驚くことに主イエスは弟子たちの思いをよそに、すべての人々に食事を取らせるということをさらっとやってのけます。イエスさまの心は常に神さまへと向けられています。天を仰ぎ賛美の祈りをもってこの五千人の給食の大いなる業がなされ、神さまの愛と恵みと、その大いなる力とは底知れず、無限であることを示されました。私たち人間のもつ能力の限界と有限性を、主イエスにも当てはめ考えることはとても愚かなことなのです。
 そして、神さまの祝福がどれほど豊かなもので、恵みに冨、底知れない愛はどれほど惜しみなく人々に分け与えられるのかを示されたのが、パンの屑と魚の残りを集めると12の籠がいっぱいになったということにあらわされています。
 このことは人々が満たされる以上のものを神さまは惜しみなく、与えてくださったということがいえるでしょう。私たちには足りることのできる分以上の恵みをくださっているということ。そして、なによりもイエスさまの十字架はすべてを満たすそれ以上の価値あるものだということに気づかされるのです。
 この豊かな恵みを知ることも信じることもできない人々はどうすることもできないこの世界の中で満たされることもなく、自分の弱さと限界を知り、心は不安や絶望の波を漂い疲れ果てていく。なぜなら絶えざる自己中心の罪と、ただ、ただ、この世の事柄に、欲望に必死にしがみつき、心が奪われているからにほかなりません。
 人々が幸せと思える事柄に、そして容易に満たされたと思える事柄の中に、おいしいものをおなかいっぱいに食べること、そして、ゆっくり休むことができたら幸せだなと感じることでしょう。
 特に日本は食の文化が進んでいますし、人はおいしいものを食べることに貪欲であると思います。
 しかし、その貪欲さが度を超えて、お腹も心も麻痺してしまっている今の現実があります。なぜならば、恐ろしいことにこの日本は一日に約三千万食もの食料を廃棄処分しているのです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、日本の食料自給率は三割以下です、他の7割以上、約5800万トンを輸入に頼っていながらその3分の1の約1940万トンを捨て、驚くことにこの半分の一千万トンを家庭が食べ残し捨てているのです。それでも私たちは満たされず、貧しいと、不幸だとうなだれる時、私たちの何が貧しく、満たされていないのでしょうか。よくよく考える必要があると思います。
 私たちは気付き知り、絶えず立ち返る必要があります。私たちに平安と希望を与えて喜びに心を満ち足らせてくださる主イエス・キリストのもとへと。
  
  皆さんは屑や残り物のように扱われたり、それらのように言われたりしたことがありますか。もしくは、誰かに向かって屑や残り物に接するような態度をとったり、口にすることはなくても人を屑や残り物だと思ったりしたことはないでしょうか。
  私はどちらもあります。屑や滓、残り物のようにいわれたり、扱われたりもしましたし、人を屑呼ばわりしたり、自分にとって価値のないもののような態度をとったりしました。どうして私たちは屑や残りを大切にする、大事にすることができないのでしょう。悲しいことですがこれが現実であり私たち人間の限界なのかもしれません。本当に切ない話です・・・・
  屑や残り物のように扱われ、罵られた人はどれほどの悲しみに溺れもがくでしょう。必死にもがき苦しむその人を救えるのは何でしょうか、それは底知れない無条件の愛です。「それでもあなたを愛している」と言ってくれる分け隔てなく、このままの私を受け入れてくれる大きな愛です。たとえ周りでそのように言ってくれる人がいなくても知っておいてほしい、わかってほしいのです。神さまはあなたを愛しているということを。すべてを創造し、すべてを治める神さまは決してあなたを屑や残り物のようには見ていないし、そのような態度で向き合うことはしない。神さまはこのように言われます「わたしの目にはあなたは高価で貴い、わたしはあなたを愛している」と。さらに驚くべきことに、神の独り子、主イエス・キリストの十字架、その愛、赦し、いのち、平和はあなたのためにもあった出来事。それは、すべての人々のために、しかも赦しを一番必要としている、誰かを屑や残り物だと思ったり、口にしたり、人を大切にも大事にもできない罪深い人のためにも。
 
  見てください、私たちのためにあった主イエス・キリストの十字架への道を。人々に蔑まれ、罵られ、つばを吐きかけられ、弟子の一人に銀30シュケル、当時の奴隷売買の最低賃金で人々に売られ、罪なき人がまるで屑や残り物のように木に掛けられたのです。絶えず思い起こさなければなりません。すべては私たちの救いのため、平安と希望を得て主イエスのいのちの中に生かされるためです。まるで屑のように十字架上で引き裂かれた主イエスの体には、愛と恵みとが豊かに満ちあふれています。人々がその愛と恵みを受けて満ち足りてほしい。満ち足りることを覚えてほしいのです。ここにいのちがあり、貴く、大切で、なによりも価値あるものだと信じ、感謝して受け取ることができるなら、私たちは、弱くて、小さくて、周りには見向きもされないそのようなものに対し、優しくもできる、大切にもできる、理解し心配ることができるのではないでしょうか。
 私たちは、神さまの限りなく、無条件の愛に駆り立てられ、与えられた信仰によって、今日と言ういのちを大切に、主のみことばと愛とに誠実に、従順に応えていくものでありたいのです。






聖書


マルコによる福音書6章30~44節
30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。 36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。 38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。 40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。 41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。 42 すべての人が食べて満腹した。 43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 44 パンを食べた人は男が五千人であった。