ベトサイダはペトロとアンデレのふるさとであり、ヨルダン川がケネサレト湖と合流する直前の、ケネサレト湖の北東側に位置する村。この村は、洗礼者ヨハネを処刑にしたヘロデ・アンティパスの領土外にあった。そこへ行こうとし、弟子たちを先に送るイエスには何か意図があったのだろうか・・・しかしイエスはヘロデ・アンティパスの領土にそのまま残り、山で祈っておられる。
弟子たちを先に向こう岸へ強いて行かせられたというのは、イエスはどうやって向こう岸へ渡るつもりだったのだろう・・・しかも、山の上で祈っておられたイエスに弟子たちが湖の真中で逆風に悩んでいるのが見え、分かるとういう! 50節以降で指摘されている弟子たちの心の鈍さ、無理解はこのこととどういう関連があるのだろう?いったい、この物語を読む私たちに何を語ろうとしているのだろう?
山の上で祈ることは旧約聖書の伝統である。モーセは山の上で顕現された神に出会い、律法を授かれる。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」(詩篇121:1)と詩篇記者も山を仰いで神の助けを求めている。イエスの山の上での祈りは、この流れの中にある。つまり、神の顕現、神的存在としての力を持っている方として描かれているということ。
その方が、湖の真中で逆風のために悩み、進むことも戻ることもできずさ迷っている弟子たちの船に近づき、乗り込んでくださる。湖の上を歩き、まるで幽霊のようにしか受け止められない心の鈍い、無理解な弟子たちの船に乗り込み逆風をおさめられるのだ。
人生の真中で、私たちも悩む、逆風のために。進むことも戻ることもできず、どうすればいいのか、さ迷い、道を失うときがある。心が鈍いから近くにまで来られた主を主として受け止めることもできない。その私たちのことを見ていてくださり、さ迷って悩む人生に乗り込んでくださり逆風を収め、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とお言葉を語ってくださる方がおられる。逆風の中でこそ私たちは主の言葉に聞き、語られた主の言葉のゆえに生かされるものでありたい。 |