「1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(1コリント13:1~3)
これは、1コリント13章の「愛の賛歌」と呼ばれる初めの部分であります。聖書を読んだことのある方は、この箇所を知らない方はいらっしゃらないほど有名なところです。そして、コリントの教会がこの愛の賛歌を歌っているということは、コリントの教会の中に、この賛歌を必要とする状況があったのではないかと、私たちは推測することができます。
そしてそれは、コリントの教会のみならず、現代の私たちの教会にも、この愛の賛歌は必要とされる状況があることに気づくわけであります。
すべてのことに愛がなければ…現代の教会は神の存在を、「愛なり」という言葉をもって捉えますし、また、神は、イエス・キリストを通してその愛を私たちに示してくださった十字架を、キリスト教の基盤に置いています。つまり、十字架の愛、それこそが教会の存在の基盤であり、それを伝えるのが教会の存在の理由であると。しかし、本当にその愛、十字架のが教会の信仰の基盤となっているのだろうか、私たちは、現代の教会に生きる一人として自分自身に問われなければなりません。
さて、本日の福音書の中には、ファリサイ派の人たちが、手を洗わずに食事の席についている弟子たちのことを指摘したことに対して、イエスさまの、興奮したかのようにでも思われる勢いのある反論が成される姿があります。つまりそれは、人間の言い伝えを守るために神の生きた言葉が失われ、人間が神の代わりに玉座に座っているという、身勝手な宗教家たちの核心を鋭く刺す言葉でした。
ユダヤ教の中でも特にファリサイ派の人たちは、清めの規定にとても厳しく守る人たちでした。当時はサドガイ派もいましたが ― サドガイ派は、復活はないと主張するグループ ― 彼らはファリサイ派があまりにも厳しく、時には神経質的にさえ思えるほど、清めの儀式を重んじることに反対していました。
ファリサイ派の人たちは、食事が始まるときに手を洗って、食事が終わるとまた手を洗い、場合によっては食事の途中でも手を洗うのだそうです。そうすることが彼らにとっては、自分たちは神の前で清い者であり、神に最も近くにいるのは自分たちであるという確信を持っていました。そして、そうできない人は汚れた人、自分たちとは違うものであるという区別をしていた。まあそれが彼らの信仰体系であるといえるでしょう。
もちろん、ファリサイ派がこれまで清めの儀式に厳しいのは、旧約聖書のレビ記の律法から来るものです。しかし、彼らが主張しイエスさまが批判していることは、律法には書かれていない、人の言い伝えに対してであります。これはとても怖いものですね。聖書のみ言葉ではないのに、一度決められたものは、まるで聖書を削るような気がしてなかなか無くすことができない。キリスト教の教理だって、聖書にないものが教理として認められると、それを変えることは、異端のような扱いを受けるわけでしょう。まあ、わざわざ変えようとしませんが。
ですから、私たちはちゃんと学ばないといけないと言うことなのです。私たちが聖書の言葉であると信じていることが、もしかしたら聖書にはない、人の言葉なのに、いつの間にか入り込んでいるものなのかもしれない。その代表的な一つが、マグダラのマリアは娼婦である、という説です。聖書のどこにも彼女が娼婦であるという記事はありません。しかし、教会の伝統の中で、何世紀にも渡って、彼女は娼婦であったと刷り込まれてきました。
けれど、ちゃんと歴史を辿って学んでみますと、彼女はイエスの死後、伝道者になって、それこそ優れた主の弟子として活動していました。彼女は、青い着物をきて、髪の毛は編んでいて頭に伝道者たちが被っていた帽子を被っている、その姿が絵で発見されています。ところが、キリスト教がローマの政治と結びつくようになり、彼女のその絵は段々と変えられて行きます。青色はローマ教皇が着る服の色、つまり権威を表す色にし、彼女の服はピンク色のドレスに変わります。帽子はなくなり、髪の毛は長くたれた娼婦のような格好をして、そのように描かれて教えられます。彼女は娼婦だったと。視聴覚教育によって、マグダラのマリアは完璧な娼婦として教会の中に位置づけられるようになりました。
政治家は自分たちの都合に合わせて教会の真理さえも変え、たとえ間違っていても堂々とそれを教えます。そして、それに騙されていくのは、学ばない、何も知らない純粋な信徒であります。ですから、学ばないのは罪であると言ったある人の言葉のように、もし、現代の私たちが聖書について、正しいことは何だろう?と学ばないで、人に教えられたことや何となく覚えたことを聖書の知識として信じて、それを絶対視しているならば、そしてもし、それを人にも教え従うことを強いるのであるならば、今日のファリサイ派の人と同じであります。イエスさまはそのことに対して憤った言葉で語りかけておられるのです。
つまり、いつまで人の言葉に動かされて、傷ついて、歩みを危うくされるか。人の言葉に振り回されて、神を神として信じることを避ける。真理から離れて言い伝える人の言葉に堂々と刷り込まれていく。
あなたを教会に招き、救うのはこの私であって、人ではない。あなたは、神の愛、十字架の愛のゆえに救われたのではないか。きっと、イエスさまは、今日も人の言葉に傷つき、心を暗くしている私たちにそう語りかけておられることでしょう。
だけど、なかなか人は、特に上下関係の中にいますと、上の人の言葉を無視するわけにはいかなく、どうしても人の顔を伺う生き方をしてしまいます。しかし、教会の教えをそのように受け止めてしまうときに、どういう現象が起きるかというと、その教会は宗教家たちの集まりになっていくのですね。神よりは人が強く、まるで神の言葉のように語る人の言葉が生きている教会になっていきます。本日の福音書の中のファリサイ派的なあり方です。人の教えに基づく教会形成をしてしまうのです。
ナチスドイツの時代のことをお話させていただきたいです。
カール・アドルフ、アヒマンという人は、ナチスドイツの親衛隊の隊員でありました。1960年、数百万のユダヤ人を虐殺した罪で逮捕され、エルサレムで裁判を受けて死刑された人です。彼は、最高拷問技術者として、ヒトラーの命令に徹底的に服従した人でありました。彼のことをナチスの視点から見ますと、彼は、だれよりも優れた愛国者であります。もし、戦争がヒトラーの勝利で勝っていたならば、彼は大きな賞をもらっていることでしょう。しかし、時代が変わることによって、彼は、犯罪者になり、死刑の罪を問われた。この彼のことを、ある日とはこのように言います。「彼は、隣の家のおじさんと変わらない平凡な人であった。彼は、法律や規則に違反することをしたこともなければ、与えられたことに最善を尽くす誠実な人であった。彼は、国の仕事をする公務員であったために、最高司令官がどのような命令を下しても、それを一生懸命にやりこなせなければならなかった。つまり彼は、上司の命令に誠実に従っただけであった。ただし、彼は、自分がやっていることがユダヤ人たちにどのような傷を残すことになるのか、どんなに取り返しのつかない過ちを残すことになるのか、それについては考えていなかった。」
この人が、もし、ヒトラーの命令に否を言って、拷問の技術を研究しないし、本当の真理を捜し求めていたならば、そして、それによって周りで拷問を受けしに行く大勢の人の叫び声に耳を傾けていたならば、きっと、何千、何万人と言う人が死なずに、傷つかずに済んだことでしょう。戦争そのものが違う方向へ向けられたのかもしれません。縦の関係だけを重んじた、それがその人の誠実さであるとしても、それがその人の生き方だと言われても、しかし、人は、機械ではないし、ロボットでもないのだから、考えられたのではないでしょうか。
もしかしたら、私を含めみんなは、どこかに、アヒマンと同じ姿をもっているのかもしれません。機械的に従う、考えずに伝統だからと従う、または、そうして植えつけられた人の言葉を逆らうことができず、真理を語る神は見えないから、とりあえず見える人の言葉を優先する、この姿は、違う言葉で申しますと、自己絶対化する姿と言えるでしょう。決して自分を捨てようとしない、決して自分を崩そうとしない。自分を崩して捨てたら人にどう思われるかが気になる、自己絶対化なのです。つまり、古いままの自分、古着を着たままの自分が新しい福音を伝えようとしてがんばっているのだけれど、古いままだから福音は律法となり時には武器となって伝える相手を傷つけてしまうということを知らない姿であると。
ですから、愛がなければ、「わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル・・・たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」ということ。
私の歩みの中に、私の人生の中に、私の一日の中にイエス・キリストを通して示された十字架の愛がなければ…ということ。私の愛は、自分勝手な愛ですから、相手によっても示し方が違いますし、その日の気分によっても違いますし、人の言葉でああしたりこうしたりする、危ういな愛であります。つまり、私たちは、自分の意志では、食事の前に手を洗うことさえできない者であるということであります。神の前で、私たちは自分を清めることができない。聖なる場所に立っていながらもそこが聖なる場所であることも知らずに履物を脱ぐことを知らない。それが私たちであります。自我が強いのです。神の前にいながらも、自分は神に見捨てられていると、孤独なものなのだと嘆くようなものであります。
しかし、その私たちの中に、イエスキリストは言ってきてくださり、共におられる。十字架のイエスが、神の愛を伝えるために私の中に、私と共に、私を支えながらおられるのです。
何だって思って神さまはこんな私たちをこれほどに愛してくださるのでしょう。どうして毎日愛の道から離れないで歩むように、イエスさまをくださり、そしてこうして招いてご自分の心を語ってくださるのでしょう?
ですから、古い服を脱ぎましょう。こんな熱いときに、新しい服の中に古い服を着ていたらあせもが出て、かゆくなってしょうがない。涼しくてもっと美しい、新しい愛の服を着て、毎日、新しくされて、主の福音が人を愛する本当の福音として伝わるように、その働きに遣わされていきたいです。