説教


聖霊降臨後第15主日
2012年9月9日
 
垣根を越えて
 
 ロンドンオリンピックが終わって四週間、そろそろ熱気も褪めてきました。
 近代オリンピックに対し、聖書の民、ユダヤの人びとは、どの様な感情を抱いたかでしょうか。
 古代オリンピックは、イスラエルの地を征服したアレキサンダー大王の死後、その部下の将軍セレウコス(ギリシャ人)の一族が優れたギリシャ文化によって、その国、パレスチナを含むシリアを支配しようとして、支配地域に古代オリンピアの神事、古代オリンピックを導入したと伝えられています。
 が、古代オリンピックはオリンピアの神事、異教の祭りですから、聖書の民、ユダヤの人びとには許し難い神冒涜そのものです。
 そのオリンピックについて、今日の福音との関わりで、もう少し続けます。
 現在、オリンピックが終わると、同じ施設で引き続きパラリンピックが開催されていますが、このパラリンピックについて、“五体不満足”の著者乙武洋匡氏がTV.で、「オリンピックの後のパラリンピックではなく、オリンピックの種目の一つとしてパラリンピックの種目を行っても良いじゃないか」と話すのを聞いて、パラリンピックの素晴らしさは素晴らしさとして、まだ障害者と健常者という区別に名を借りた、差別が人の心にあるのではと感じました。
 区別と差別、どこが同じで、どこが違うのか、ある人が区別だと思っても、受け取る人が差別だと思えば、この区別は差別だといわれますから、線引きが難しい問題です。
 私たちは課題に直面したとき、自分がどう考えるかではなく、キリストが何と語っておられるか、先ず聞くことが大切です。
 ローマの信徒への手紙10:17は実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのですと述べています。
 それで以上を踏まえて、今日のキリストの言に心を傾けます。
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。
 ティルスは、今もティールという名でレバノンに残る古い都市で、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生れであったとあるように、ユダヤの民には、穢れた異邦人の町です。
 ケガレという漢字には、本来は物質的、物理的なヨゴレを表す文字、今日の福音でケガレと読ませている文字の他に、もう一つ抽象的、宗教的なケガレを表す文字があります。
 ユダヤの民が問題にするのは、ヨゴレ、汚染の汚れではなく、この宗教的穢れです。
 キリストがユダヤの地を離れて、穢れたティルスに行かれたのは、教会讃美歌No.307、2節の“食するひまも、うち忘れて”という歌詞が示すように、人びとが押し寄せて、忙しすぎたので、弟子たちを教育するためであったと言われています。
 そのせっかくのティルスでギリシア人でシリア・フェニキアの生まれの女が押しかけてきたのです。
ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれの女とは、ギリシャ語を話す教養高く、裕福で誇り高い女性を暗示しています。
 しかし、どうにもならないものが彼女にあったのです。
 それは汚れた霊に取りつかれ、精神疾患に苦しむ幼い娘です。
 恐らく、彼女はそれまで、娘のために良いと聞けば、藁をもつかむ思いで手だてを尽くしたはずですが、すべては徒労に終わり、娘は快方に向かわず、彼女は娘の苦しみは我が苦しみと苦しみ生きてきたので、彼女はその苦しみの中で、ユダヤで評判のイエスが我が町ティルスに来ていると伝え聞いて、恥も外聞も捨てて、イエスの足もとにひれ伏して娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだのです。
 が、イエスの解答は、まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけないという冷たい言です。
 聖書の世界で、マタイに神聖なものを犬に与えるな(07:06)とあるように犬は穢れた動物です。
 またパンを欲しがる自分の子どもに石を与える(マタ07:09)という句が示すように、異邦人の娘のために何かをすることは、ユダヤの民には論外でした。
 ただ、小さいのプチが訛ってポチと謂うようになったように、小犬という語、まだ救いがあるように響きますが、小犬であろうと、犬は犬です。
 つまりキリしア人でシリア・フェニキアの生まれの彼女に同情しても、彼女は多神教の偶像礼拝社会の一員、それで、小犬という語をキリストは用いたのです。
 しかし、彼女は自分が異教徒、異邦人として、神の前に穢れた者であることを認めて、その足もとにひれ伏し、諦めずに主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきますと懇願したのです。
 何故、キリストは苦しみ叫ぶ母親に子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけないと言われたのでしょうか。
 その理由を示すのがギリシア人でシリア・フェニキアの生まれという語とそれほど言うなら、よろしい。家に帰りなさいという語です。
 同じ出来事を伝えるマタイ15:21~28の結びで、キリストは婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるようにと言われたと伝えています。
 マルコ06:01~のキリストが何故ナザレにお帰りになった記事が、「預言者が敬われないのは自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人びとの不信仰に驚かれた(04:06)と結ばれているように、キリストは、母親に神のみ前にひれ伏してすべてを委ねる信仰を求めたのです。
 私たちは礼拝式でキリエⅠで司会者の唱える以降に応えて、主よ、憐れんでくださいと、私の願いに応えてくださいという祈願です。
 東の教会に主イエス・キリストよ。罪びとなる我を憐れみ給えとひたすら祈り続ける絶えざる祈りという祈りがあります。
 キリストのそれほど言うならという言に、キリストがルカ18:01~でやもめと裁判官のたとえで気を落とさずに絶えず祈ったことを示されています。
 そうシリア・フェニキアの生まれの母親はユダヤの民との間に渡ることのできない深い淵、破ることのできない厚く固い垣根の横たわる異邦人、異教徒でした。
 それほど言うなら、たとえ人の目には渡ることのできない深い淵、破ることのできない厚く固い垣根であろうと、ほんのからし種一粒の信仰、小犬の信仰、プチ信仰があれば、キリストは真剣に祈り求める者の願いを見捨てず、顧みてくださるのです。
 主、我を愛すという讃美歌、字数の関係で訳されていませんが、主、我を愛すの次に聖書が私にそう告げていますと続いています。
 ほんのからし種一粒の信仰、小犬の信仰、プチ信仰であろうと、キリストは真剣に求める者の願いを見捨てず、あらゆる垣根を超えて顧みてくださると、今日聖書が私に、そしてあなたにそう告げています。





聖書


マルコによる福音書7章24~30節
24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。