説教


聖霊降臨後第16主日
2012年9月16日
 
エッファタ - 開け -
 

 キリスト教では、この世を旅路と捉えます。生まれてきて一生涯を送る場ではあるけれど、いつまでもいられるところではない、やがては離れていくところだからです。この世が旅路であるから私たちは旅人であります。
しかし、旅路での生活の中でも、ある程度定められて安定した住処がなければ、人は旅路の中で不安の中を生きるようになります。場合によってその不安は、その人の人生の歩みを左右するほど危ういなものになってきたりします。

 ですから、安定した住処というのはとても大事なものになってくるわけですが、その住処というのは必ずしも家、つまり家屋のような建物の家を指しているのではない、とういことです。心の住処、心の拠り所、これが人の人生の歩みには必ず必要なものとなるわけであります。心の拠り所がないときに、人は居場所を探し出さないままさ迷うようになってしまいます。やがては孤独感を感じるようになり、人々の輪から切り離された思いで生きるようになり、人生を悲観してしまう場合もあるでしょう。

 皆さんの中でもこのような孤独感を感じたことのある方は少なくないと思います。寂しいな!一人ぼっちだ、誰か傍にいてくれれば心を割って話がしたい…つまり、心の中の声に気づいてくれる人が誰もいないとき、たくさん話はしているけれど、心の中の声を出していない、聞かれてもいない、そのとき人は孤独だ、一人ぼっちだ、寂しいと思うのではないでしょうか。ちゃんとした家に住んでいるとしても、心が安定していないときさ迷ってしまうのです。

 本日、福音書の中にこのような孤独を味わっているであろう人が一人います。彼は、身体の障害によって人との基本的なコミュニケーションの手段である「言葉」を失っていました。「耳が聞こえず、舌が回らない」人。人が自分に語りかける言葉を聞くこともできなければ、自分が思うことを人に語ることもできない。それは、人々とのコミュニケーションの場から切り離され「一人だけ」の世界を生きている状態を表します。

 創世記2章18節で神さまは、「人が独りでいるのは良くない」と思われ、「彼に合う助ける者」を造られます。ある人は、この「彼に合う助ける者」と訳している言葉を「彼に答えるもの」と訳しています。とてもいい翻訳だと思いました。人は、男性も女性も等しく、誰か答えてくれる相手を必要とします。本気になって、私という人間の本心、心の声に耳を傾けて聞いて欲しいと願うのです。けれど、心の声を聞いてくれる相手がいないとき、人はそこから先に進むことができなくなるのです。天地創造のときに、神さまが「人が独りでいるのは良くない」と思われて、「かれに会う助ける者」を造られた、つまり「彼に答えるもの」を造られた、彼と一緒に前へ進める人を、神さまは造られたのであります。

 ところが、ここで、向かい合うために、答えあうためにもっとも貴重な役割をするのが「言葉」であります。ですから、「耳が聞こえず、舌が回らない」この人が置かれている立場が、どれだけ閉ざされた状況であったかを、私たちはとてもよく察することができます。
 その彼が、イエスの前に連れて行かれました。人々の導きによってです。マルコは、人々が彼をイエスの前に連れてきて「その上に手を置いてくださるようにと願った」(32節)と書いています。

 孤独の中に生きるような人生であっても、この「人々」の存在は彼にとって、大きな慰めであったことでしょう。たとえ、言葉という手段を通してコミュニケーションを取ることはゆるされていなかったとしても、身体の障害に目を留めてくれる隣人がいる、自分の不便な生き方を知っていてくれる隣人がいるということは、孤独のただ中でも、この上ない慰めだったと思うのです。

 マルコ福音書の中には、他の箇所でも、この人々のことを描き出すところがあります。2章の1節から始まる物語の中には、中風にかかっている人を四人の仲間が担架に乗せてイエスさまの前に連れてきた記事が記されています。彼らは、入り口が大勢の人にふさがれていたために、家の屋根をはがして病人をイエスさまの前に降ろすほど、隣人の病に対してとても熱心な人々でした。実際、イエスさまはこの四人の仲間の熱心さに感動されて、担架に載せてこられた人の病を癒されます。

 こういう人々という存在が、一人ではどうしようもできない窮地の中にいる人を喜びの場へ導いていくのです。ただただ、「耳が聞こえない」「舌が回らない」ことが重荷で、これが私の十字架なのだと、避けることも、変えることもできない現実のただ中で、行き詰まりを覚えていた、その人を、未来が見える面に、イエスの前にいるようにしてくれる。

 そして彼ら、人々は、連れて行った仲間とともに、天の奇跡に与るのでありました。彼らは、「エッファタ」ー 開けーという、福音の言葉を聞いたのであります。もちろん、耳が聞こえず舌が回らない人と違って、この人々は、耳が聞こえますし話しもできます。しかし、ここで、彼らは、その時まで聞いたことのない声を、力ある天の言葉を聞くのでありました。エッファタ!「開け!」と。この言葉は、閉ざされていたところからの解放を意味する言葉であります。自分のことしか見えなくなっていた、罪の状態からの解放であり、人間が最も恐れている死からの解放の言葉でありました。

 つまり、「耳が聞こえず、舌が回らない」人が抱えていた問題は、彼一人の問題ではなく、彼をイエスさまの前に連れて行った人々の問題でもあり、そして、今、この言葉を聞いている私たちの問題でもあるということであります。もちろん、私たちも、耳が聞こえますし何でも話せるように舌も回ります。しかし、救いがもたらされるところにおいて「聞く」こと、また「話す」ということは、ただ音が聞こえるとか、日常のことをしゃべるという次元のことを言っているのではありません。そうではなく、本当に聞くべき天のことを聞き、話すべきことを話しているのか!これが問われること。

 耳が聞こえず、下が回らない人は、イエスさまが指を両耳に差し入れられたために聞くようになりました。彼が耳を開いていただいて聞いた最初の言葉は「エッファタ」でした。この人は、他の誰でもなく、イエスさまによって神の言葉を聞くことができるようになりました。同時に話すこともイエスさまを通して、神の言葉、天の言葉を聞くことによってであります。神の言葉を聞くとき、人の行き詰まりは破られます。必ず破られます。

 逆に申しますと、「耳が聞こえず、舌が回らない」という状態は、自分しか見えなくて、人々の言葉が聞こえない状態にいるということを指しているのです。自分自身の力に信頼を置いて、自分が、自分がと、自分を現そうとして人々との輪を崩し、人々から離れていく状態を表しているのです。こういうとき、人は、聞くべき言葉を聞くことができず、話すべき言葉を失っていきますます。話すべきことを語らなくなってしまうのです。それを、聖書は罪のただ中にいる状態であるといいます。罪は、隣人との関係を断ち切ってしまう力をもっています。閉ざしていく世界です。死の世界であります。死に直面する人は言葉を喪います。だからと言って、それのどれ一つ、私たちにはコントロールする力がありません。私たち人間は、自己中心という罪を犯すだけで、罪に勝利することはできない存在だからです。

 その私たちに、聞くべきことを聞き、言うべきことを語ることができるように、イエス・キリストが来られたということ。「エッファタ」-開けーという神の言葉をもって、どこまでも自己中心的な私たちのところへ来られたということ。いいえ、このイエスさまのところへ、私たちは、隣人の手を借りて連れてこられたということです。自分の意志で、自分の力で教会に来ていると思えてもそうではないのです。私たちは、何らかの形で隣人の手を借りて生きていますし、信仰生活も、この隣人の支えによってイエスの前に導かれていることを忘れてはなりません。

 ですから、私たちは、本当の意味で孤独を知るものでありたい。孤独を知る人は、一人では生きられないことをよく知っています。ですから求めるのです。私をこの孤独の中から救い出してくれる人を。この求めは、ただの漠然な求めに留まらず、自分が隣人のゆえにその孤独の中から神さまの前に導きだれていることをも知るようになります。

 ですから、キリストの十字架はたてと横の関係をクロスさせるものだと言うのですね。縦は神さまと自分との関係、横は隣人と自分との関係を示すものであります。この両方の関係がクロスされたものを十字架と言います。

 私たちは、この十字架の出来事を証しする証人として遣わされるために、この群れの一員として入れられました。キリストを証しする一人となって、教会を形づくっていく一員であります。ここが、神の前にいるここが、私たちには居場所であり、天の声を聞くことによって心の拠り所は定められるのであります。そして、イエス・キリストを証しするためにも、天の声を聞く耳が必要であります。そうでなければ、どれだけ語り伝えてもそれは、自分自身を語り伝えたことにしかならないからであります。天の声を聞くこと、口は自然に聞いたことを語るようになります。

 この場で、今天の声に耳を傾けている一人ひとりの耳が開かれ、閉ざされた中から未来へ進められ、開かれた人生を生き、開かれた交わりを作り上げていく幸いなひとり一人でありますように祈ります。






聖書


マルコによる福音書7章31~37節
31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」