説教


聖霊降臨後第17主日礼拝/特別讃美礼拝
2012年9月23日
 
あなたは幸せですか。
 

 昨日はルーテル学院大学の一日神学校に行ってきました。テーマは、希望、夢、未来。子どもたち、ティーンズたちは夢そのものであり、希望そのものであり、未来そのものであります。大人の私たちは?希望がありますか?

 大人である私たちは、どんな時に希望をもち、夢を描き、未来を生み出しますか。心に喜びがあるときでしょう。心に喜びがなければ、人は、絶対に!と言ってもいいほど希望や夢や未来を生み出すことはできません。今日は、このようなことを念頭におきながら、イエスさまと弟子たちとのやり取りの中からくる福音を受け取りたいです。

 本日、イエスさまは弟子たちにこういう質問をなさいました。
 「人々は、わたしのことを何者だといっているか。」(27節)
 弟子たちの答えはこうでした。
 「洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(28節)
 すると、イエスさまはもう一度弟子たちに聞きます。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(29節)
 すると、弟子たちの中でペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」(29節)と。

 他の福音書では、「あなたはメシア、神の子です。」とペトロが答えると、イエスさまがペトロのことをとても褒められますが、マルコ福音書には、ペトロが返事した後に、褒め言葉はありません。これが本来のバージョンなのですね。他の福音書はマルコを手本にして編集していますから、特にマタイは、この部分をとても膨らましています。

 マタイのバージョンではこのようになっています。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マタイ16:15)とイエスさまが聞かれると、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えます。すると、イエスさまの褒め言葉が述べられます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17~19)

 このマタイのバージョンは、本日聞いていますマルコ福音書のものより後に編集されたものですから、その編集作業の中で、手が加えられたと考えられます。ということは、元にはなかった言葉を付け加えることには、意図がということですね。マタイは、ペトロをそれらしき位置に上げたかった、天国の鍵まで授けられた者であると、弟子たちの中でも特にペトロを高い位置に置きたかった、そうする理由があったということであります。
 このように、たとえば、原語で聖書を読む機会がありましたら、古いものと新しいものを見分けるときには、文の短い方が古い方であると考えたらいいと思います。

 さて、話しをマルコに戻しましょう。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
 イエスさまがこの質問をしておられるところは、フィリポ・カイサリアという地方で、でした。フィリポ・カイサリアという名前のフィリポは、ヘロデ大王の第五番目の妻との間に生まれた息子さんです。彼は、ローマ皇帝のアウグストゥスより、いくつかの土地の領主に命じられ30年間治めるようになりますが、途中でパニアスという土地をカイサリア・フィリポと改名し、そこを王宮所在地に指定します。フィリポには、子どもがいなかったために彼が領主として治めていた土地は、当時属州であったシリアに併合されるようになりますが、フィリポ・カイサリアとは、このように、王宮所在地に指定されるほど、政治的に重要な場所であったことがわかります。

 ですから、そういうところで、ご自分を現そうとしておられる、この問いかけは、とても意味深い問いかけにほかない。このことを私たちは真剣に受け止める必要があります。

 というのは、信仰告白というのは、今、こうして礼拝をしているこの場でなされるものであると、私たちは、どこかでそう覚えてしまっているところがあると思うのです。もちろん、礼拝の中で使徒信条やニケア信条をもって信仰の告白をしています。確かに、毎週、ちゃんと、礼拝の中で信仰告白をしています。けれど、もしかしたら、それに安住してしまって、個人としてイエスさまに向かい合って信仰を言い表すことを忘れてしまっていたりはしないだろうか。フィリポ・カイサリアという地方でわざわざご自分を言いあらわそうとして聞かれる問いかけは、それだと思うのですね。

 私たちが、一個人として信仰を言い表すということは、私たちの置かれている生活の場での話しであります。 私たちの生活の場は、外から見えるのとは違う、本当にどろどろとしています。人によっては、緊迫した状況にいるのかもしれません。病に伏していたり、トラブルに巻き込まれていたり。または、実際に信仰的な面で、神さまを信じることが妨げになって、家族との間で葛藤が起きているのかもしれない。夫婦の間、親子の間、会社での人間関係、そこからにじみ出る自分自身の醜い姿。そのような、どろどろとしたただ中で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」。つまり、あなたの言葉でこの問いかけに答えて欲しいと聞いておられるのであります。

 困った…本当に困りました。宗教の色を表す公な仕事場でそんなこと求められても困りますね。それでも、ある教会では、なお言い表して証しをするようにします。口で言い表せないのは信仰が弱いからと言われました。私は、若いときに、そのような教会で洗礼を受け、信仰を培っていました。

 しかし、本当に、主は、そういうことを求めておられるのだろうか。私はそうではないと思います。
 先週は、コミュニケーションの最上の手段が言葉であると申しましたが、しかし、言葉というのは、場合によってはとても恐ろしい武器に変わるのですね。人を殺すこともできます。社会的に、二度と立ち上がることができないようにさせるほど、鋭い手段であります。もちろん、反対に、一言で相手を生かすことができるのも、言葉であります。ですから、言葉というのは、どう使うかによって人を生かしたりも殺したりもできるものであります。

 けれど、自分は限りなく、どんなときも愛されていることを知ってしまったときには、言葉は要らなくなってきます。心の中にある愛されているという幸せが、体全体を通して、他の人が見てすぐ分かるように現れるからです。それがその人の言葉だと思うのです。

 そう理解するとき、今日、イエスさまイエスさまが問いかけておられる、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いかけをもう一度考え直す必要があると思います。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これは、私たちが、普段の生き方の中でよく聞いていたり、聞かれていたりする質問であります。つまり、この言葉を他の言葉で言いなおすならば、「あなたは私のことが好きですか?」と置き換えることができると思います。例えば、子どもが親に、「母さん、私のこと好き?」と聞く言葉と同じ言葉です。子どもはお母さんが自分のことをどう思っているのか、何度も聞きたくなるみたいですね。すると、お母さんは、もちろん、「好きだよ!」と言ってあげると子どもは嬉しくなって、「私もお母さん大好き!」と言って、本当に喜ぶわけであります。この一言の確認がその子の将来を決める言葉になるのですね。親に、特に母親にこの言葉を幾度も聞かされるなかで愛された子は、人を愛し信頼することができ、世界のどんなところにおかれても自信を持って大胆に自分の言葉で生きることができると言われます。「愛しているよ」「好きだよ」。子どもに他のことを継承するよりも、この言葉を継承して上げられたらいいと思います。どんなに力ある言葉なのかわかりません。

 このことは、男女の付き合いにも必ず問われる言葉であります。相手が自分のことをどう思っているのか、本当に好きになってくれているのかときになるときに、「私のことをどう思う?」「私のこと好きですか?」。そんなときに、見当違いな答を出したら、二人の関係は壊れてしまいます。「どう思う?」と聞かれて「好きだよ」と返事をすることによって二人の関係はますます深まっていく。ですから、この「好きだよ」という言葉は、親子の関係であっても、男女の関係であっても、相手を愛しているという、互いのゆえにほんとうに幸せな気持ちの中にいてこそ出てくる言葉なのですね。

 今日、イエスさまは、弟子たちに、そして私たちにそれを聞いておられる、ということであります。「あなたは私のことをどう思っているのか」、つまり、「あなたは、幸せですか?」「私に出会って、あなたは、毎日、幸せですか?」という質問であると言うことであります。
 この質問に、「はい、主よ、私は、本当に幸せです」と答えられる人は、本当に幸せだと思いますし、それこそ真の信仰告白であると思うのです。この返事を、どんな時でも、病の時でも、悲しいときでも、クリスチャンだって言いあらわせないような場所ででも、現すことができるかどうか。それが求めておられているということであります。
 もし、そうまっすぐに返事ができない場合、または見当違いな返事が返されるとき、二人の関係はただちに崩れていきます。イエスさまと私との関係が崩れていくのです。もしかしたら、すでに崩れていることを私たちは気付かないまま、表面的でしか付き合っていないのかもしれない。

 このことは、伝道をするという事柄においても言えることだと思うのです。あの人はいつもニコニコしている、あの人は、いつもいいことがあるみたい、何であの人はいつも幸せそうな顔をしていられるの?と、出会う人たちが不思議に思えて聞きたくなるように、その人のそばに行きたくなる。そういう生き方の中にイエス・キリストは現れるのです。イエスさまを伝える本当の伝道はこの生き方の中にあると思うのですね。

 何年も、何十年も聞かれてきたこの告白の言葉。もしかしたら、教理的な事柄の中で難しく考えてきたのではないだろうか。本当に生きた告白となっているのだろうか、考える必要があります。
 または、イエスさまとそれほど長い付き合いではないけれど、この方が、いつどんな時、あらゆる状況の中で嘆き、苦しみに、愛する者と別れを告げなければならない深い悲しみに襲われる、そういう日常のただ中に、とても慣れ親しんだ姿をして私たちのすぐ側におられるということ。すべてを超越しておられる方であるけれど、私のような欠けの多い者の傍に、一緒に、おられ、「わたしはあなたを愛しています」と、ご自分が先に告白しておられる方。この方を私たちは、「私の主」として告白していい、永遠を語り合う仲として向かい合っていいとゆるされている。幸せなことです。皆さまの人生が、「あなたに出会って本当に幸せです」、そして人生の彼方にたたされた時には「あなたに出会って本当に幸せでした」と告白できる、希望があり、夢があり、未来のある、そういう道を歩まれますように祈ります。






聖書


マルコによる福音書8章27~38節
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」