説教


聖霊降臨後第18主日
2012年9月30日
 
その名のゆえに
 

 家の血筋を大事にして、家紋の名誉をともて大事にするのは、昔から受け継がれることでした。家の名前を汚さないために、特に、名誉ある家に生まれたら、自分がやりたいことも自由にできない。

 最近、韓国のドラマなどを見ていらっしゃる方は、その背景がよくわかると思います。先日放送された「家紋の栄光」というドラマの中は、私も知らなかったことが伝えられていました。私は、家の代をつなぐために、必ず家の男性の血筋が後をつぐのだと思っていました。しかし、長男が子どもを産めない状況で、兄弟の子どもや血のつながりのある親戚の家から養子を迎えるのではなく、外から連れてくるのですね。そこで言われていたことは、この家の名前が続くことが大事であって、血筋が同じであるかないかはそれほど問題ではない。つまり、志を同じくする人が集る共同体、それが家族であり、家紋というものの本当の意味はそこにあるのだということでありました。とても聖書的な話しだと思いながら見ていました。

 志を一つにする人たちの群れ。
 この教会、この共同体もそうではないでしょうか。一つの名の下に集り、ひとりの方を主として告白して家族と呼ばれるのです。何の血のつながりもないのに家族と呼ばれる。その名のゆえに私たちは、主の家族に入れられたのです。
 しかし、主の家族と呼ばれ、だから聖なる者とされた人たちの集りだといわれたりもするその中に優劣争いが起きる。

 さて、イエスさまは、カファルナウムに入って、きっとペトロの家に入られたと思いますが、そこで一息ついていたとき、弟子たちに聞かれます。ここに来る途中何を議論していたのか?と。このイエスさまの言葉の中に使われている「議論する」という言葉は、大きな声でやり取りするようなことではなく、内相話をするような、ささやく声で話す際に使われる言葉です。ですから、「途中で何を議論していたのか?」という質問は、弟子たちにとっては、して欲しくない質問でした。彼らは、「だれがいちばん偉いか」と議論していたからです。

 「だれがいちばん偉いのか!」。
 私たちの共同体の中ではだれがいちばん偉いのでしょうか?
 人は、なぜか、肩書きがつくようになると肩に力が入ります。ですから、私は、肩書きが嫌いなわけですが、肩書きがついても普段と変わらずキリストの道を歩める人は本当に尊敬したくなります。
 つまり、肩書きとは、出世したことの証しでもあります。世の中は、何らかの肩書きをつけるために一所懸命に生きる人が多いですし、そうあるようにさせるのがこの世の価値観でもあります。
 弟子たちも、きっとそういう思いがあったのでしょう。彼らだってこの世的な人たちであり、できればイエスさまに出会って出世したいのですから、そのような内相話のような議論が出るのは当然なことです。

 ですが、そういう欲望に駆られている自分のことが、どこか、大人気ないと感じるところもありました。なぜ彼らは大人気ないと思ったのか!主が、受難と復活の予告をされたのに、自分たちは出世話をしていたからでしょうか?違います。今の彼らには、主の受難と復活の予告の意味など、わかりません。考えようともしなければ、自分たちとは関係のない話しでありました。彼らが「何を議論していたのか?」と聞くイエスさまの質問に対して、黙っていた、その理由は、出世話をすること自体、男として大人気ない、ただそのことを恥ずかしいと思ったためにです。

 でも、出世意欲って、恥ずかしいことでしょうか。私は、この世でクリスチャンたちが、どんどんと出世して、高い地位について、財産も名誉富むようになったらいいと思います。そうなれば、献金もたくさんできるし、宣教活動も活発にできるし、またこの世に対して証しにもなって、教会と世間との間の段差が少し低くなっていくと思うのです。出世欲をもつこと自体は恥ずかしいことではないと、私は思います。ですから、その彼らに向かってイエスさまが叱責される理由は、彼らが大人気ないと思う出世欲に対してではなく、人を評価したことに対してでありました。

 つまり、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)
 この一節をよく吟味してみますと、それがわかります。つまり、これは、偉くなればなるほどすべての人の後になり、仕える人になりなさいですよね。ですから、出世して仕える人になればいいのです。出世して名誉をもち、多くの財産を持つようになことが、仕えないことになることではない。もちろん、財産をたくさん持って金持ちになりますと、目に見えない神さまに仕えることは難しいことだと、聖書の中でも言われます。しかし、できないことと決め付けてはいません。私は、財産をもっていても謙虚に仕える人をたくさん見ました。

 しかし、私たちの中で「だれがいちばん偉いのか!」、つまり、人が持っている才能や能力を評価して優劣を決めるのは、あってはならあにこと!なぜなら、人に人を評価する権利は与えられていないから。人を評価できるのは、その人を造られた創造者お一人なのだと。

 道の途中で議論していた弟子たちは、いちばん先にイエスさまにコールされた人たちでした。つまり、彼らは、自分たちより後で呼ばれた弟子たちに比べれば、出世する可能性が高い、すなわち、これは、イエスを通して出世先が見えているとうことであります。自分たちは、ある程度評価されるものを持っていると自負していた。可能性の多い人こそこういうことを考えます。しかし、それは、信仰的な面で深刻な腫瘍をもっていることと同じ、とても危険性のあるものです。

 だけど、そうしないことを選択することがなかなか難しい。人は、どうしても、仕えた年数によってとか、新人か古い人かによって、年の差によって、あらゆる角度から自分と人とを評価して比べたがります。自分が、今、どこら辺にいるのかを知りたいがために。
 皆さんもそういうことないでしょうか。特に、自分より後に入ってきた人や弱そうに見える人が、より良い奉仕をしていて好かれたりすると焼きもちを焼きたくなりませんか。今まで一所懸命にやって来た自分こそが評価されるべきだと、どこかでささやいてしまうときがある。
 このささやきが「議論する」という言葉ですね。人には聞こえないようにごっそり、心の中でだけささやいているようで、しかし、イエスさまに聞かれていたのです。ですから、聞かれるのです。あのとき「何を議論していたのか?」と。主は、私たちの最も嫌な心の汚いところへまで挑んでこられる方なのです。(放蕩息子のお兄さんのような状態です。)
 そういう弟子たちに主はこのように語られました。
 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(37節)と。

 子どもは弱さのシンボルであります。人数を数えるときには数えられることもないくらい、役に立たない者であると考えられました。もちろん、子どもは弱いし、大人に属している者ですし、実際、大人の助けなしに一人で生きることはできない者です。そればかりか、昼夜かまわず泣きたいときになき、自由にありのままを出します。

 でも、実際、私たちの教会のこどもたち、いちばん小さければ夢ちゃん、その次は、光生くん、美悠ちゃん、彩恵ちゃん、この子たちを受け入れるために苦労しますか。いたずらをしたり、騒いだりしても、子どもだと思うから、そんなに問題になりません。もちろん、うるさいと感じたりもすることでしょう。けれど、それは、その子を否定したいほど感情的なものではないでしょう。なのに、「わたしの名のために・・・子どもを受け入れることは・・・わたしを受け入れ・・・わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われる。それは、どういう意味でしょうか。

 それは、「議論をする」という言葉からヒントが与えられることと思います。
 私たちは、本当にそれはやってはいけないことであるけれど、自分と他者とを比較してこそ安心したり不安になったりするものだと先ほど申しました。つまり、この世の価値観に比べて、自分が、貧しいか富んでいるか、だれだれより、または平均値より…いろいろの世の尺度の中で評価し、判断し、処分をくだしたがるものです。 自分自身と議論をするのです。

 けれど、子どもと自分とを比較したり、この子より自分が劣っていると思ったりはしません。子どもは、自分より知識も知恵もなければ、自分の言うことに従う者と思うからです。だけど、大人気なくて恥ずかしく思って主の質問に黙ってしまう大人の姿。弟子たちはそうでした。自分たちが人を評価しているとは思いつかず、つまり、自分たちのやっていることが神の座に座っている、創造者の座を奪っているということだとは気づかない、人の弱さであります。目に見える子どものようなものとは比べなくても同じようなレベルの人とは比較して平気で評価する大人の、子どのようのような姿であります。

 子どもの受け入れるということは、自分の中にあるその弱さを認めること。それは、自分の力によって受け入れるのではなく、主なる神の偉大なる名のゆえに。つまり、私たちは、その偉大なる方によって造られた被造物であり、被造物である私を、そしてあの人のことを評価できるのは、作ってくださった創造者お一人だけであるとうことであります。

 もっと大切なことは、私たちは、すでに、弱さも、醜さも、ありのまま、丸きり神さまに受け入れられているとういこと。そこに条件はありません。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)ていると、主は既に告白してくださっているのです。もう、人と比べて評価しなくても、もうこの世の価値観にあわせた生き方をしなくても、ただ、ただ、私の名のゆえに救われたあなたは、主の後に従う者でありなさいと、私たちのもっとも醜い心の底に降りてこられた主は語りかけておられます。私たちの人生において、その名が、主の偉大な名を誇りとする歩みでありますように、私たちの人生の中でこの名が輝きますように、その名が輝くゆえに私わたちの人生が輝きますようにお祈りいたします。






聖書


マルコによる福音9章30~37節
30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」