説教


聖霊降臨後第19主日
2012年10月7日
 
キリストの名
 

 さて、今日の福音書の個所に二人の人の名前が出てきます。「ヨハネ」と「イエス」。
 ヨハネは12弟子の一人。ゼベダイの子で、イエスさまの弟子になる前は漁師をしていました。仲がよかったと思われる兄のヤコブと一緒にイエスさまの弟子となり、二人はボアネルゲス、雷の子らという名前が、ニックネームのようなものがイエスさまにつけられています。なぜイエスさまは「雷の子ら」と名付けたのか確かなことは分からりませんが、気性のひどく荒い者であったのかもしれません。なぜなら、ルカ福音書9:51からの個所で、イエスさま一行がエルサレムへ向かう途中、サマリア人の村を通る際に、村人に歓迎されなかったことに対してイエスさまにこう言ったのです「彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と。この言葉からヨハネが激しい性格の持ち主だと考えられます。また、権威欲や独占欲が強かったであろうことも彼ら兄弟がイエスさまに向かって願い出た次の言葉からうかがい知ることができます。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左にすわらせてください。」。これを聞いたほかの弟子たちが腹を立てたということが10章にしるされています。
 そして、ヨハネは弟子の中で一番若かったのではないかといわれています。若さがありまた、漁師で鍛えた力がある。若くて力があるものが陥りやすいのが、自分を中心に世界が回っているかのような傲慢が支配する激しい自己中心の罪です。私も若いころ、中学、高校生ぐらいの時は、つっぱっていきがって怖いもの知らずで、今思えばぞっとするような無鉄砲なこともしました。このような者は自分と気の合うものとだけ、否、自分にとって都合のいいと思うものとだけ仲間になって自己満足に浸ってしまいがちです。自分の物差しで物事を、さらに人をも計り、分け隔ててしまうのです。

 ヨハネは言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」
 悪霊を追い出している者をやめさせようとしたのには、ヨハネの嫉妬、妬みが含まれているように思います。なぜなら、少し前の出来事で弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったことが記されています。ヨハネは12弟子の中でも絶えず優位な立場でありたい、抜きに出たいという強い思いを抱いていた男のようですから。自分にできなかったことが他のものにできることに対してまったく気分のいいものではありません。

 そもそも「私たちに従わないので」という言葉は、私たちはふさわしい者であるが、他の者はそうではないという思いが含まれているように思います。自己主張の強い者にとって、すべての人の後になること、へりくだることは容易ではありません。ルターは罪についてこう言っています。「罪とは絶えざる自己正当化である。」と。
 「私たちに従わないので」。この言葉はともすると「私たち」ではなく「私」、「私に従わないので」と、私を中心とした思いに捕らわれ、キリストの名の故に成される奇跡、大いなる業さえもまるで自分たちの、否、自分の成した業であるかのように立ちふるまってしまう私がいる。
 この共同体が、私たちが、私が仕えていく、務めていく、何事かをなしていくその中心にキリストがいないのならば、キリストがいなければただの自己満足となり、何かうまく事が運ばないと、「私に従わない」というような不平不満をもらすか、陰口をたたいくか、言葉にしなくても心は穏やかではないのです。

 イエスさまは言われます。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」
 ここで「奇跡」と訳されている言葉は、口語訳や新改訳聖書では「力あるわざ」とも訳されている言葉です。イエスさまは言われます。わたしの名によって力あるわざがなされる、わたしの名の故に奇跡はなされるのだと。主イエス・キリストの名にある絶対的権威がここに示されるのです。
 さて、どうでしょうか。私たちは主イエス・キリストの御名の前にへりくだり心から権威あるものとして畏れ敬っているでしょうか。キリストの名によってあなたが、私たちが受けた救いの力ある業、その大いなる奇跡の体験を私は、私たちは色あせたものとしていないだろうか。今日といういのちはキリストの名の故にあるものという喜びと感謝が、私たちの心に真実に迫ってきているだろうか。
 主イエス・キリストの御名にある権威を信じ、信頼する者の口は、決してキリストの名を罵り、あざけり、悪口を言うのではなく、その御名を褒め称え賛美するものであります。

 また、イエスさまに対しての信頼と、私が本当に頭の下がる思いへと導かれるのは、すべてを治め、力も、栄光もある方なのに、この世の力ある、知恵ある者、この世の支配者とは違い、優しく柔和で謙虚であるということ、この主イエスの心の広さ、深さ、暖かさは、決して強制ではなく無理強いからからではなく、キリストの御名の前に跪き、あなたに従うものでありたいと願い祈るものとされるのです。
 もしも、イエスさまが傲慢な思いから自分の名には権威があり力があるのだと言い、弟子たちと同じように誰が一番偉いかというような権威欲や独占欲があったとしたなら、次のようには言わなかったでしょう。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と。ここで「わたし」ではなく「わたしたち」と主は言われます。
 キリストの名の故になされる奇跡ならば、「わたしたち」ではなく「わたし」と言って誰が文句を言えましょうか。
 主は、なんと憐れみ深くいつくしみに富む方でありましょう。私たちの主イエス・キリストは、分け隔てることをなさらない。主イエスは私たちと同じ立場に立ち、肩を並べ、共に生き、共に働き、共有し、協力される方。愛し抜き、そのいのちさえも惜しみなく与え尽くされる方。そして、すべての人々を受け入れる用意のある方なのです。

 私たちはキリストの名のもとに集められた者。私たちが、「私たち」とこの共同体を指して言う時、はっきりと言えることは、みなキリストに結ばれ、キリストに属し、キリストにある者なのだと言うことです。ここに分け隔てはありません。
 ただただ滅びるばかりのこの身が、神さまの大いなる恵みの主イエス・キリストの十字架の死によって罪赦され、復活により永遠のいのちの約束に与った私たちはイエス・キリストの名の故に、神の子とされたのです。
それゆえに私たちはキリストの名をもっているのだということを、しっかりとした確信の中に生かされているでしょうか。
 私は笠原光見という名のほかにキリストの名を持っている。畏れ多いことかもしれませんがその信仰が、私を強め支え守ると同時に、自身を省みるものとされ、悲しみ、悔い、謙虚なものへと変えられるのです。
 私たちが何事に対しても胸を張って誇ることができるのはキリストの名にあること、この一点であります。

 誰よりも一番先のものなりたいと思っていたであろう弟子のヨハネは後に、ペトロと共に、いのちの危険を省みず大祭司、議員、長老、律法学者たちの前で大胆な態度でこう言います。
 「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と。

 私たちはキリストに結ばれ、キリストに属し、キリストにある者。この信仰に固く立ち、キリストの名を絶えず思い起こして、与えられたいのちを大切に誠実に精一杯生きていきたいのです。そして、あなたの、私たちの心にその優しさが染み入るような一杯の水を飲ませてくれる人が現れたならどれほどの喜びでありましょう。
 国と、力と、栄とは限りなくキリストの名にあるのです。






聖書


マルコによる福音9章38~50節
38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49 人は皆、火で塩味を付けられる。 50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」