説教


聖霊降臨後第20主日

2012年10月14日
 
イエスの微笑み
 

 みなさん、最近笑っていますか?

 イエスは笑ったのでしょうか。
 または、イエスは周りの人たちに冗談を言ったりして、笑わせたりしていたのでしょうか。イエスが笑ったのでしたら、どんな笑い方をしていたのでしょうか? 残念ながら聖書は、不親切にも、イエスが笑った事に関して何も提供してくれません。
 反対に、イエスが涙を流されたという記事はあります。マルタとマリアの兄弟ラザロが死んだことを聞き、ラザロの墓の前に行かれた際に、イエスさまは涙を流されました(ヨハネ11:35)。ラザロのことが大好きだったのですね。

 聖書は、イエスの感情表現に関して記すことにはとても乏しい感じですが、それは、聖書はイエスの伝記を書いているのではないからということもあると思います。ところが、ある人はこのように言います。
 聖書にイエスが笑ったという記事を書かないのは、イエスの髪の毛について触れないのと同じことであるというのです。つまり、イエスの髪の毛について触れないことが、イエスには髪の毛がなかったと言えるだろうか!という問いかけです。(若手牧師たちの研修会)。
 同様に、イエスの笑いに対しても、書いていないから笑わなかったと解釈するのはおかしい、ということです。

 まあ、実際、古代キリスト教以来、イエスは笑わなかったという意見がとても強かったそうです。それによって教会は、厳粛主義的な流れになり、他のことよりイエスの受難物語が重んじられるようになりました。実際、福音書は、イエスの十字架の死とその直前の悲惨な出来事に重点を置き、読み手にとって、聞き手にとって重んじることを促しています。そして、このような流れは、イエスだけではなく、その後を続く主の弟子たちも、そして、今日に至るまでのクリスチャンも、笑いが消された信仰を培う、ということがパターン化してきたと思うのです。

 その中でイエスが笑ったという事実を見つけ出そうとする労力は大変なことなのかもしれません。だけど、福音書をよく読んでみますと、その中には、イエスの笑い、イエスの微笑み、さらには神のユーモアが広がっており、それを読み取ることがゆるされていることを、同時に大切にしたいと思いました。そしてそれは、決して信仰を失うことでもなければ、教会の厳粛な雰囲気を堕落させていくようなことでもない。むしろ、福音書が伝えようとする喜びが力に変えられて、福音本来のもつ力が湧き上がることになるのではないかと思います。

 イエスは、マタイによる福音書6章でこのようにも述べておられます。
 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」

 この箇所は、空の鳥と野の花のことを喩えに出しながら、人間の、思い煩うことの虚しさを語るところです。ここで、私たちは、語っておられるイエスの微笑みと神のユーモアを感じるわけです。つまり、神のユーモア的な愛と恵みのゆえに、明日の「思い煩い」から解放されて、厳しい状況の中でも、ユーモアを持って生きることがゆるされている、というメッセージですね。

 ですから、福音がもたらそうとする喜びとは、いい状況の中でだけ生まれるものではない。今日生きて明日は炉に入れられるような、たった一日しか生きられないという厳しい状況の中にあっても、その一日が切ない、喜びに満ちた一日である、そしてそれは明日へとつながる力になるのだという、神の恵みと愛に生きることは、そう言うことであるということであります。

 福音書の中には、この神の恵みと愛に生きたことを良く表してくれる人がいます。ザアカイという人です。彼は、当時イスラレルを支配していたローマのために税金を集める収税人でした。ですから、同胞からとても嫌われていたのです。ある日、彼は、イエスが来られると言うことを知って、木の上に登ります。どんな人なのか見たい、会いたかったと思います。けれど、木の上に上らなければ見えない、彼は、背が低い人でした。

 ところが、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)と、イエスが木の上の彼を見つけて木から降ろします。そのイエスの一言に、「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」(ルカ19:6)と書いてあります。

 イエスはザアカイの家に入って一緒に食事をしたりして、きっとそこで大笑いしながら楽しい時間を過ごされたのではないでしょうか。人々は、こういうイエスのことを見て、この人は罪人と食事を共にしているのだと非難をしました。にもかかわらず、イエスは、罪人のザアカイとテーブルを囲むことに躊躇しません。正しい人々の非難の言葉を浴びながら、しかし、ザアカイと向かい合っているこのイエスの口元に、微笑が、満遍なく広がっていることを、皆さん、想像できないでしょうか。

 もう一箇所、来週の日課になるところですが、金持ちの男が、どうすれば永遠の命を手に入れることができるか、それを聞くためにイエスのところを訪れた箇所です。イエスは、持っているものを貧しい人々のために全部施して、それから私に従いなさいと返事をなさいました。しかし、もっているものがあまりにも多かったので、彼は、悲しみながらイエスの下を去ります。このとき、ご自分に背を向けて、悲しみながら去っていく男を見つめるイエスは、金持ちの男に向かう愛の眼差しの故に、きっと微笑んでいたに違いない。

 そして最後、本日、私たちが聞いていますところ。子どもの前におられるイエス。
 きっと、子どもと同じ背丈になられて、子どもの顔を見つめながらお話しをなさっていたと思います。子どもって不思議な力をもっていますね。

 先日、和代ちゃんを訪ねて、生まれてまだ三日しか経っていない新しい命に会いました。ちょうど起きていて、手足を動かしながら泣きそうな顔をしたりし、笑ったりして、いろいろの表情を見せながら動くのです。ずっと見ていても飽きないのですね。不思議な力です。赤ちゃんの顔を見ている自分が、微笑んでいるのです。赤ちゃんに語りかける自分の声のトーンが変わります。家の猫に話しかけるときだって、まったく声のトーンが変わるのに、子どもに話しかけるときは言うまでもありません。

 子どもの前のイエスも、お話しの声のトーンを、きっと変えておられた。そして、きっと、微笑みながら話しをかけておられたと思うのです。
 その微笑みいっぱいの顔で、イエスさまは、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃって、子どもを抱き上げて、祝福されました。そして、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われる。

 つまり皆さん、イエスは、微笑みながら私たちを見つめておられるということです。私の背丈に合わせて、私のことを見つめながら、やさしい眼差しで、子どものようになりなさいと。きっと、その眼差しは、私の心に流れる涙に気づいているはず。私たちが抱えている明日への不安や思い煩い、そして、お金があれば!何だってできる、手に入れることができる、永遠の命さえも。その私の欲望に、そしてそこから来る虚しい思いにさえも、イエスは目を留めてくださっている。微笑みながら。そして、「いい子だね!」と、「もう泣かなくてもいいよ!」と、「もう自分を失わずに生きなさい」と、「あなたの笑顔は素敵なんだから」と、私たちの前で語りかけておられる。

 そうなのです。明日への思い患いのために小さくなって、うずくまって、もしかしたら昨夜もそう夜だったのかもしれない。眠れない長い夜を過ごしてここにいるこの小さな私を、この大きな方が、素敵な微笑みを贈りながら抱き上げてくださっている。そして祝福してくださっている。

 きっと、明日も、私たちの生きる日々はそれほど変わらない日々でありましょう。けれど、その折り、その状況の中に、微笑みながら私と向かい合ってくださる方がおられる。私の貧しいテーブルを一緒に囲んでくださり、笑い話しを交わしながら交わってくださる方がおられる。ですから、私は、今日もありがとう、感謝します、あなたのゆえに豊かな一日だったという祈りの言葉を口ずさむ、そう一日、一日へと導かれますように祈ります。






聖書


マルコによる福音10章13~16節
13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。