「静けさは物事に対する新しい見方を与えてくれます。」マザー・テレサの言葉であります。ここで言う「静けさ」とは、「沈黙」を指して言う言葉でありましょう。「沈黙は、物事に対する新しい見方を与えてくれます。」と。
マザー・テレサはこんなことも言っています。
「わたしたちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。」と。まさに、今のわたしのことが言われる言葉であります。それは、物理的に忙しく、時間がなくて微笑みを交わすひまさえないと言うことよりも、精神的に、心が、必要のないことのために囚われて、思い煩うために微笑みを交わすひまさえない、ということであります。
このことは、やはり自分の思うことや理解の程度を重んじるがために、他者の、または、神の語りかけに聞く耳を持たない、鎮まって、沈黙して、心が、深いところから叫び出していることを聞こうとしない。どこかで、自分自身を騙して、自分に嘘をついて生きている、そういう姿を指摘されたのでした。皆さんはどんな日々を過ごしておられるのでしょうか。
本日、私たちに与えられています福音書の日課をもう一度見てみますと、最後の34節には、「もはや、あえて質問する者はなかった」と記すことで、本日の物語を終えています。これは、イエスさまとある律法学者とのやり取りの末に出てきた、マルコ共同体の見解の結論であります。
イエスさまと律法学者との間になされたやり取りとは、ある律法学者がイエスさまにこのようなことを聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(28節) するとイエスさまは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29~31節)と答えられました。これは、本日の第一日課であります旧約聖書申命記6章の言葉であります。
すると一方学者は、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と返事をします。
このようなやり取りの最後の方でマルコは、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」と書いてこの物語を終えます。マルコが、イエスさまと律法学者の間のやり取りの末に、「あなたは、神の国から遠くない」と言われ、「もはや、あえて質問する者はなかった。」と書いているということは、とても大事なことを語ろうとしているということです。
たとえば、マタイとルカにも同じ記事が載っていますが、マタイは、マルコを参考にして書いていながら「あなたは、神の国から遠くない」と言われ、「もはや、あえて質問する者はなかった」ということばを省略していますし、ルカは、その逆を書いています。ルカは、愛の行いとはこういうことですよと、善きサマリア人というリアルな隣人への行いを書いています。そういう意味では、マルコが伝えようとしていることは、読み手にとっては、少し厳しい面があると言えるかもしれません。
ここで、私たちは、イエスさまがお返事なさった言葉を丁寧に考える必要がありますが、イエスさまは、申命記6章を引用なさいながら、第一と第二と、二つの律法を言っているようで、しかし、この二つは一つであるといっておられることを私たちは気をつけたいのです。つまり、神に対しての行いと隣人に対しての行いとは、セットである、同時に行なわれることですよ、ということを語ろうとしておられるのです。
つまり、イエスさまは、神と人との人格的な関係を位置づけ、新しい戒めを伝えようとしておられるのではないかということです。というのは、当時のイスラエルの人たちは、モーセを通して与えられた十戒をもとに、百六十三に詳しく掟が造られていて、それを守ることが神の国に入る条件であるとされていました。百六十三個の掟を守るということは、人が機械的に動かなければ守りきることはできないことですね。ですから、イエスさまは、そのような、機械的な関わりではなく、神と人との人格的な関係作りを重要視して言っておられる、ということであります。
つまり、神さまと人々との生きた人格的な交わりに人々を立ち返らせよとしておられることです。神さまが人を招き呼びかける、この神の愛に応えようとした人々との間に生まれる人格的な共同体。そここそが、イエスさまが考えておられ、またはマルコ共同体が描こうとしていたイエスを中心とした、神が支配しておられる共同体であったということです。
このことは、創世記1章で、人が神の似姿に造られたという事ととても密接な関係があります。神の召しに応える者として神さまは人を造られたのですね。神が呼びかけると人が応答するのです。― 愛し合う関係はどんな関係も、親と子、男と女、神と人 ― このことは、神さまが人を愛し信頼されたときに、人も神を愛し返し、信頼し返すことができる存在として創造されたということであります。人が神の前に人格的な存在であるということはこういうことですね。
ところが、本来はそうであるけれど、人が、本当に、そのように、神と人間との関係の中で、人格的な存在であり得るしょうか。ありえない。人は、欲望という罪を抱えて生きる者であるがゆえに、本来の姿を失っています。神の呼びかけに応答することができないのはもちろん、隣人を自分のように愛することなど、とうていできはしない。ただひたすら自分の足りないところを満たすために、神と隣人を用い、そうすることで神と隣人から離れていく、それがわたしたちであると。本日のイエスさまの語りかけは、このような私たちに対して、本来の、人格的な存在としての姿、神さまと隣人と喜びをもって交わる共同体へ連れ戻そうとして語りかける福音、救いへの招きではないかと思うのです。
この招きに応える者として私たちはここへ召し集められました。神と隣人を自分のように愛するものでありなさいと。すると、私たちも、あの律法学者のようにこう言うことでしょう。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(32~33節)と。
この律法学者のように、私たちも答えられるのではないでしょうか。頭では知っているから。神は唯一であって、他に神はいないことを。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛することが、どんな献げ物やいけにえよりも優れたことであることを、特に前から、私たちも、十分知っています。知っているつもりで、しかし、知らない。わたしが、神の国に遠くないところに立っていることを。
神の国に遠くないところに立っているということはとても重要なことですが、どこかで、私たちは、救われて当然な思いをもっていたりはしないでしょか。イエスさまの時代の律法学者やユダヤ教の教えのように、百六十個の律法を守れば神の国に入る資格は得た、という安心感の中で、機械的になって生きている。そういう安心感は自己満足に過ぎないものですね。
しかし、「あなたは、神の国から遠くない」と言われている。これはどういうことでしょうか。…もう救われていると言うことでしょか。… 決して、そういうようなことを言っている言葉ではありません。神の国から遠くないけれど、しかし、神の国に入ってはいない状態ですね。
そこで、律法学者は、そして、そこにいた他の人たちも、「あえて、質問する者はなかった」。ここで、マルコは、この物語にピリオドを打っている。つまり、このことは、沈黙させられた、ということです。イエスの前で、鎮められたということ。鎮まって、今、自分がどこに立っているのかを、考えさせられたと言うことであります。
私たちを、本来造られたままの神と人との人格的な存在へ取り戻すために、主は、私たちに沈黙することを勧めておられる、ということであります。
本日も、テゼの祈りの中に沈黙の時間が設けられています。沈黙は、できれば一日に一回、時間を決めて行なう必要がある、とても大事な時間です。たった5分でも、慣れてなければとても長く感じるけれど、慣れてきますと10分も、20分も、1時間もできるようになります。この時間が、神とともに呼吸をする時間ですね。祈りの時間なのです。自分の心の深いところの叫び声を聞く時間、誠実に自分自身と向かい合う時間なのです。きっと、体の健康のためにも、この時間はとても有意義なときとなりましょう。
遠藤周作は、沈黙という本も書きましたが、人は、自分が苦しんでいるとき、神にいくらお願いしても答えてくれなかったというけれど、また、実際、歴史の中でキリスト者たちが迫害を受け、大事ないのちを失っていくとき、神は沈黙しておられたと言うけれど、しかし、その人は、鎮まって、沈黙して、何もないところから語りかけてくる神の声を聞いたことのない人である、と。鎮まって、何もないところから語りかけてくる神の声を聞いたことのある人は、そういうことは言わないというのです。
鎮まる、沈黙することは、私たちの全存在を回復するために大切なものでありますが、沈黙させられる中で私たちは、初めて、自分が、何に、どれだけ執着し、それを愛だと勘違いして、自己満足の中で神と人を捕らえていたことを知らされることでしょう。そして、神と隣人との関係を保っている今の形が、結局は、自分の欲望を満たすためでしかない関係であった。そういうことに気づかされるわけであります。そして、それに気づいて初めて私たちは、自分が、神の国の遠くないところにいる者でしかない。決して、自分自身の力では神の国に入ることはできない、それを知らされるのです。つまり、私たちを、神の国の中に入れていただけるのは、イエス・キリストを通して与えられる恵みのおかげであることを知らされるのです。そして、微笑みながら神と隣人との喜び溢れる人格的な交わりに入れられたのも、ひたすら、イエス・キリストの恵みであった。
マザー・テレサが言っているような、「静けさは物事に対する新しい見方を与えてくれます」。新しい視点、イエス・キリスト側から見る視点が、沈黙を大事にする歩みから生まれてくる。私たちは、自らの努力や能力によって救いを手に入れたのではないという、隣人との関係も、イエス・キリストが間にあってこそ作られるのである、という新しい見方ができました。
ですから、「あなたは、神の国から遠くない」と言われる私たちは、イエス・キリストのゆえに神の国に入れられた、救われている幸いな者であります。神の国に入る価値などない、欲望の固まりである私たちが、イエス・キリストのゆえに、救われたのであります。ですから、イエス・キリストがあってこそ、私たちの救われた人生もあるのです。救われたこの人生を、ありのまま、神さまと隣人とともに生きる、恵み豊かな歩みへささげていきましょう。