説教


聖霊降臨後第25主日礼拝/成長・収穫感謝主日

2012年11月18日
 
すべてをかける人
 

 日本語の「そっと」という言葉を使って人の振る舞いを表すことに、美しさを感じます。「そっと」という言葉は、「秘かに」という言葉や「こっそり」という言葉とも似ていますが、やはり私は「そっと」という表現が好きです。「そっとしておく」、「そっと来て、主日のために週報を折り、教会の周りの清掃をして、そっと帰る」、「そっと聞いて、そっと信じる」…この「そっと」という言葉を通して現される人の振る舞いが、私は好きなのかもしれません。人に気づかれないように行い、相手のありのままを崩さないように話す、相手のことを思いやる尊い気持ちが豊かな表現で、丁寧に相手と向かい合おうとする人の姿なのですね。

 同時にこの言葉は、情熱的なことを表す言葉だと思います。そっと何かを行なう人の行いには、積極さがあります。静かに何かをやっているようで、しかし、誰にも評価されなくてももくもくと行なえる世界です。
 人は、悪いことはそっと行なうけれど、いい事は言いばらしたくしたくなるものですね。「よくやった!」と褒められたいからです。ですから、良いことを、そっと、誰にも気づかれないように行なうことはなかなか難しいことですし、実際、そっと行なえるとするならば、それは、それだけの力があるからだと思うのです。

 それは、子どもたちのことを見てもよくわかります。子どもたちは、小さなことでも自分がやった良いことに対して大人から褒められたいと思います。なぜなら、安心できるから。いい事をやっても褒めてもらえないときに、子どもは不安になります。そして判断がつかなくなるのです。自分がやったことがいいことだったのか悪いことだったのか。ですから、子どもが良いことをしたときに、「よくやったね!」と褒めてあげることはとても大事なことです。そういう過程をちゃんと経ていく子は、大人になったときに、善いことを「そっと」行なう大人になります。もう、誰から褒めてもらわなくても、小さいときに褒められたことが力になって、今度は、大人同士のかかわりの中でその力を発揮するようになります。

 さて、先ほど拝読をしていただきました、マルコによる福音書12章41節からのみ言葉の中には、この「そっと」という言葉の表現にふさわしい一人の女性の姿があります。彼女は、やもめという、当時の社会の中でもっとも弱い立場で生きる人でした。
 イエスさまの当時のユダヤ社会は、女性が夫に先立たれてしまったら、もう収入源がなくなってしまうことになりますから、貧しく生きることが強いられる社会でした。ですから、当時は、やもめたちが集って暮らすところを設けたりして、何らかの形で守ろうともしていたようですが、本日、聖書に登場するやもめは、どうやらそういう社会のシステムの中には生きていない人のようです。

 今彼女が持っているすべては、レプトン銅貨二枚です。他の単位では一クァドランスだそうです。このことは、彼女がどれだけ貧しい人なのかをよく現しています。そのレプトン銅貨二枚を、彼女は、そっと献げてしまいます。その姿がイエスさまの目に映り、彼女の献金額のレプトン銅貨二枚が、何と、金持ちたちが献げたお金と比較の対象になりました。そして、こういわれるのです。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43-44)。

 つまり、大勢の金持ちがたくさんの献金をした、けれど、その献金より、彼女が献げた、たったレプトン銅貨二枚が、「多い」というのです。聖書に通貨表がありますが、それを見てみますと、レプトン一つは一デナリオンの1/128と書いてあります。彼女は二枚をもっていましたから、一デナリオンの1/64を持っていることになります。当時、一デナリオンは労働者の一日の賃金と言われていました。今の感覚で申しますと、一日8千円くらいでしょうか。その8千円の1/64ですから、彼女が持っているレプトン銅貨二枚は、250円になります。250円が彼女の全財産であったと。 金持ちたちがいくら献金をしたのかその金額はわかりませんが、彼女の全財産の250円より少ない、価値のない額であると評価されたのです。神の国での人の評価はこれだけ異なると言うことですね。

 もちろん、彼女が、一つは取っておいて一つだけ献げても、誰も、彼女の信仰が弱いものだと指摘する人はいないと思います。しかし、彼女は両方とも献げています。レプトン一枚は明日のパン代のためにとって置くようなことはしないで、神さまに、自分の明日を委ねていくのです。ですから、明日の生活は、明日神さまからいただくものでもって営むか、神さまが仕事を用意してくださるかしなければ、彼女の手のうちには、もう何も手段がありません。自分の力には全く頼ることができないのです。

 これを、キリスト教の世界の中では終末的な生き方といいますが、私たちは、知らず知らずの内に今日の生活が明日に続くと考えます。ですから、人生を統計的に考えて、八十歳まで生きるには定年後何年分のものを準備しなければならないのか、年金をどれだけ得るためには政治的にどうこうせねばならないと考えます。

 しかし、今、私たちは、具体的に、人のいのちが瞬く間に失われて行くということを経験して知っています。東日本大震災であります。そして、他にも、戦争や環境汚染の問題、交通事故、またはガンやその他の病気…いのちを脅かすには事欠かさない材料がたくさんあります。人間の知恵で八十歳までの生活設計をしてみても、それは砂の上に家を建てていることと同じこと。その時がこれば、私たちは肉体の終わりをどうやって平安に迎えることができるでしょうか。

 しかし、これらのことは知っているつもりで、私たちは、自分の人生を丸きり神さまに委ねてしまうようなことはしません。できないのです。そして、イエスさまも、本日のやもめの献金を通して私たちにそれを勧めておられたりはしません。そうではなく、このやもめの献金をご覧になったイエスさまが感動されたことには、律法学者たちへの批判が同時に含まれている、このことに私たちは注目しなければなりません。

 つまり、神さまの言葉に自分を照らしてみないのか。自分が、神の前に罪人であること。それゆえ、悔い改めるために神の前に招かれているということ。み言葉は、目で見て理解するのではなく、心で受け止めて、受け止めたものがそっと、知らないうちに、自分の中で実を結んでいくようになる、力になっていく。神の言葉と人とはそういう関係で結ばれるのだと。けれど、そうあることを怠っているあなたはどこまで自己義認の中で生きますか?という問いかけがなされていると言うことです。

 そしてこの問いかけは、今、この教会に群がる私たちに対する警告でもあることを、私たちは考えなければなりません。
 私たちは、洗礼を受けている人はもちろん、洗礼を受けていなくても、神さまの恵みによってこの場に集められました。祝福を受けるに相応しい者として集められました。イエスさまのみ言葉の恵みに与るに相応しい者として、ここに招かれているのです。

 もっと言えば、私たちは、この世的なことを何より重んじ、この世の合理主義の中でしか人の価値や物事の安全性を考えられない者。傲慢で、富や社会的な地位や才能を、また学歴を誇り、それらがない者を軽んじる自分。さらには、教会の中にまでつまらない序列を持ち込んでしまう、そのような自分が、イエス・キリストの言葉の恵みに相応しいとして招かれているということであります。多くの献金を献げる金持ちの側に立ち、やもめのような人を蔑視する目で見つめ、決して居場所を共にしようとしない、そういう自分がここに、イエス・キリストの家に呼ばわれたということであります。

 ですから、招かれている私たちに対比してやもめの献金は、とても挑戦的なもの。つまり、貧しい中である物すべてをささげるやもめの姿から、私たちは、どこまでもへりくだって、十字架の上でそのいのちさえも献げてくださるイエス・キリストの姿を見出さずにはいられません。ありのままのすべてを、そっと神さまに委ねていく方。律法学者やファリサイ派の計らいに流されているようで、しかし、情熱的に自分を引き渡していく方。多くの金を持っている金持ちの前で、何一つ屈することなく、堂々と自分をみ手に委ねていく、力強い姿。

 けれど、この方は、ご自分がそうでありながらも、私たちに、このやもめのようになりなさいとは言われません。そういうことは言わずに、ただ、持っているものによって束縛された生き方はもうやめようと勧めておられます。社会的に弱い立場にいる人を偏見な心で図らなくてもいいのだと。お金がない人を自分から切り離して、金持ちや学識のある人側で物事を言うような、この世の価値観に縛られた貧しい生き方はもう変えてもいいのではないかと。性的に少数の立場に置かれている人を差別して、周縁に追いやらなくても、あなたはあなたのままでいられる。だから、あなたはそれらのすべてから自由になりなさい。そっと働く神さまの言葉によって、本当の自由を生きなさいと、主は、これを勧めておられるのです。

 私たちは持っているものをすべて捧げて信じることはできないものです。けれど、すべてをささげて、そっと寄り添い、一緒に歩んでくださるイエスさまの情熱的な愛と自由の中に自分を委ねることはできます。そこには、この世では味わうことのできない豊かさがあります。とても貧しく見えるけれど、しかし、この世にはないものがそこにはある。そこへおいで!と、イエスさまは、今日、私たちを招いておられます。この招きは、私たちの一年の歩みの実り、収穫ではないでしょうか。よく頑張ったと、疲れたでしょうと、その疲れを、私の中で癒して新しく回復されて生きなさいと招かれるのです。

 そして、子どもたちの成長もこの方の祝福の中にあるのです。この世にはない、神さまのものでもって祝福され、そっと養われる天の力をいただいて、自分たちの夢を積極的に追って生きる者であるように、導かれているのです。神さまの愛と自由の中に、子どもたちの心と体の成長を委ねて祈りましょう。






聖書


マルコによる福音書12章41~44節
41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」