備えあれば憂いなし、という言葉があります。普段準備がしてあれば、万一の時に患うことがない、という言葉です。この言葉は、今、受験を控えている受験生にはもっともぴったりの言葉ではないでしょうか。もちろん、人の人生の歩みにおいても、考えさせられる言葉です。ただ、物質的な食べ物や使うものを安いときに備えておくというようなことよりも、実りのある人生だったと、最後のときには言える、そのような人生の備え方です。
だけど、人の人生と言うのは、いつ、何が起きるか予測できないものですから、なかなか準備万端に生きることなどできはしません。逆に、準備しない方が冒険もできると言えばそうですが、しかし、辛すぎる苦しみは、死ぬより過酷に感じるときもあります。
その私たちが、今日、聖霊降臨後最終主日を迎え、昨年のアドベントから始まった一年の歩みを振り返り、その中で取れた実りを納める決算のときを迎えました。はたして、何を、どれだけ、主の前に差し出すものがありますでしょうか。「わたしは、自分に与えられた人生をこんなにまっすぐに歩みました」と、「これだけの実りがありました」と、みなさんは自身をもって言えますか。主のように、泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶような、主の道に沿った歩みをしてきましたと、私には言えません。
この一年間、皆さんにあっても、そしてわたしも、いろいろのことがありました。嬉しいこともありましたし、思い煩うことや病気、愛する者と別れる悲しみにも遭い、そして新しい出会いにも恵まれたりしたことでしょう。そういう歩みの中にあって、少しでも、ほんの少しでも、主の働きかけに応えられた、または主の働きかけを感じたという、小さな体験、小さな努力、または小さな幸せといいましょうか、そういうことが私たちにあったのだろうか。
もちろん、その体験がなかったから駄目な歩みだったということではありません。
ある人は、人生の歩みの中で一度も主はあってくださらなかったと言う人もいました。一度でもお会いしたいと願って祈ったけれど、夢の中にも、幻の中にも、祈りの中にも、その他のどんな方法によっても、自分の感覚で感じられるようなかたちでは会ってくださらなかったと言うのですね。しかし、その人は、最後にこう言うのでした。だけど、私、主のゆえに幸せな人生を送りました。あの方のゆえにわたしの人生は実り豊かな人生でした、と。この言葉を聞いて、人生最大の信仰告白と思いました。
さて、私たちはマルコ13章24~31節を通してみ言葉を聞きます。一年をおさめるときでありますので、今日の箇所は、終末が近づいたときのしるしを著しく述べます。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」(24-25)と言うのです。
ここで言う、「このような苦難の後」というのは、同じく13章1節から記されている大きな苦難予告がありますが、そのことを指して言う言葉です。このような大きな苦難が先にあって、その次に、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」というようなことが起きるのだというのです。それで、13章の最後の32節からでは、だから、目を覚ましていなさいと、警告がなされています。
太陽が暗くなるということは日食のことを思い出すことができますが、その現象を見て書いているのかもしれないけれど、しかし、伝えようとしていることはそういうことではないと思います。きっと、私たちが今まで見たことのないことを述べているのでしょう。月が光を放たないのも、星が天から落ちるのも、私たちの見解をはるかに越えたこと、理解できないような現象です。しかし、それらの日には、必ず、起きるということなのですね。
しかし、私たちは、これと似ていることを経験していることでしょう。愛する者を失ったとき、または、自分自身が病気を告げられたとき、東日本大震災においても、どうしてわたしが?どうして今?…どうして?という問いかけが、何度出てきたことか。それらの日に、暗闇の中に追いやられた思い、まさに、本日述べられている、あの、終末が近づいたときの著しいしるしと似ていた。人の見解では理解できないことを、確かに経験している、起きている、これからも起きるということ。
しかし、大切なことは、それでも、そこが世の終わりはこない、人生の最後ではないということ。そこが終わりではないばかりか、真っ暗闇のただ中に置かれたそのとき、人生の中で著しい出来事が起きているそのとき、主が、地の果てから天の果てまで、ご自分によって選ばれた人々を集められると述べておられるということ。苦難のただ中にいる者を呼び集めるというのです。どうやって?ご自分がその苦難の中に入ってこられることを通して。つまり、主は、ご自分の愛する者の苦難をそのまま放っておいたりはしない、愛する者が暗闇の中で、死に滅び行くまま放っておいたりはしない、ということ。理解できず、納得のいかないまま、わけ分からない暗闇に追いやられていく私たちのことを、主は、決して、見放したりはしないという強い約束の言葉。その時は、地の果てから天の果てまで、ご自分によって選ばれた者らを呼び集めると言う。
先週は、関東地区教職者会が開かれ、その中で、この箇所を黙想する時間が設けられました。黙想の中で、数人の先生方が、主が地の果てから天の果てまで集められる群れの中に、はたして自分が入っているかどうか確信がない、ということを話されました。確信がないというか、確信が弱いということでしょう。
このことは、私たちみんながもっている、弱い確信のようなものではないでしょうか。この呼び集められる群れに自分こそが入っていると、自身をもって言える人は、ほとんどいないと思います。いらっしゃるかもしれません。いらっしゃったら、それは素晴らしいことと思います。私自身は、やはり弱い確信の中にいます。けれど、信じるのですね。もし、わけ分からない暗闇の中にわたしが追いやられるとき、きっと、あの方は、わたしを知らないと見放したりはしない、必ず私の暗闇の中に入ってきて、真の光を灯して、歩むべき道を示してくださるに違いないと。
これは、最後のこの日を迎えるために、これだけ備えてきました、これだけの実りを実ってきましたと、具体的に、自身をもって差し出すものなどもっていないであろう、その人の、主にすがる姿なのかもしれません。この世的な見方からは、いい年をして、なんと惨めな姿なのだろう?と、もっとしっかりしてくださいと、見下された目線で見られる姿なのでしょう。弱点として掴まれて、後ろではあざ笑われたりもすることでしょう。
しかし、イエスさまご自身、十字架の上でその最後を向かえ、いのち絶えられるときに、神さまにこう叫んでおられました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と。この叫びは、死を超えたところにある永遠のいのちを勝ち取る方の叫びではありません。死に打ち勝つような姿は、この叫びの言葉のどこにもありません。とても弱い姿であります。弱い姿のままに主は息を引き取っていきます。しかし、その方を神さまは、永遠のいのちをつなぐ方として復活させてくださいました。神の力は、人が、何もかも失って、もはや自分の力では生きる術がないと思って、すべてを委ねるそのときに発揮されるものですね。というか、人は、そのとき初めて神さまがどれだけ自分に働きかけておられるのかを知るのでしょう。
私たちが迎える終末、最後の時は、まさに神さまの力が働かれるときでありましょう。大いなる力に包まれるときであります。一年間、どれだけの実りを出したの?と聞かれるとき、私たちは、大人であればなおさら、格好をつけようとして意地っ張りになったりして言うかもしれません。人のせいで実ることができなかったという弁明の言葉を。または逆に、その主の声を聞いていないふりをして、耳をふさいでしまうかもしれません。けれど、終わりというかの時は、だれでも、一回は、通らなければならない過程であります。そこで、聞かれるのです。どんな歩みだったの?自分の人生に誠実に歩んだのか?与えられた人生を愛し、尊び、大事に自分を愛して生きたのか?わたしが作ったあなたという作品を、傑作だと思って、自身を持って生きたのか?
どうですか?みなさん、自分のことに自身を持って歩んでこられましたでしょうか。もう少し背か高かったらよかったとか、もう少し美人だったらよかったとか、もう少しお金があったら、能力があって、もう少し頭がよかったらよかったのに…と、不満足な歩みをしていたりはしませんか。私たちみんなは神さまが造られた傑作なのです。欠けたところもたくさんあるかもしれないけれど、そこは神さまが働かれて満たされるところであって、わたしが欠けたのではありません。 私たちがやることは、そこを満たそうとするのではなく、欠けたまま、ありのまま、胸を張って、与えられた人生を一所懸命に生きること。愛しい人を愛し、やりたいことに躊躇しないで挑戦する。信仰を告白することも躊躇しない、大胆に告白して大胆に信じて、人生に介入して来られる主と共に生きる、そう生きようとする。そこから、その生き方の結果として実りはて出てくるものなのです。
本日の日課の後ろの方では、「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(29節)と述べています。
人の子とはイエスさまのこと。つまり、イエスさまは、すでに、苦難を経験し、著しいしるしを見てすごしてきた私たちのすぐ近くまで来ておられるということです。この方が、もう少し近づいてきて、きっと、私たちの心の戸をノックされることでしょう。そのときには、すぐ、心の戸を開けられる者でありたいです。主がノックする音を聞き分ける自分でありたいです。
まさに、アドベントは、その準備をするときであります。へりくだって、悔い改めて、弱さを抱えたままの姿を喜ぶような自分に変えられるとき。そう変えられることなしでは、主がどんなにノックされても、心の戸を開けることはできません。どうぞ、私の人生のただ中に入ってきてくださいと、素直に心の戸を開けられる、その準備ができる時として、主の来られる道を備えましょう。