説教


待降節第1主日

2012年12月2日
 
道を備える人の歩み
 

 適切なときに適切な話しをするということはとても難しいことです。わたし自身、大きな会議から小さな会議まで、数え切れないほど人たちと話し合う場をもっていますが、そして、いつも適切な話しをしたいと心がけていますが、なかなか難しいです。それは、きっと、弱い者だからです。自分自身の感情に流されたり、時には、いっしょに話し合う人の気持ちを優先するがあまり、本来の道から外れてしまうような、人間的な思いに振り回されたりするのです。これは、わたしだけの問題ではなく、誰でももっている弱さでありましょう。

 しかし、一足踏み入って考えるとき、やはり私たちは、聖書の言葉に聞き、聞いたものを伝える者として集められていますから、そこから逃げるわけには行かないと思うのですね。聖書が何を語り、何を伝えようとしているのか、それを適切にどう伝えるか。それは、牧師の仕事だと言うふうに片付けてしまうと、それはそこまでですが、しかし、やはり伝える役割が集められたものにはあるのです。私たちは、神の愛に応答する者なのですね。

 それにしても、聞いた言葉を伝えることはとても難しいことと思います。わたしが心賭けているところがそこでありますし、ですから、先ずは、話を伝えようとしたときには、その人の状況を時間をかけて聞くのですね。聞いて、どのような状況にいるか知らなければ、伝えようとしていることを伝えることができないからです。
 それに、間違った言い方をしていますと、場合によっては、聖書の言葉が武器にもなりかねない、相手に傷をつけてしまう場合もあります。ですから、伝える側にいる場合の程度、「適切さ」はとても大切になってきます。

 それでは、この適切さはどのようにして養われるものでしょうか。
 教会の暦の中では、今日から新しい年が始まります。今日は、その新年の始めの主日でありますから、少し今年のテーマについて振り返るときをもちたいと思います。

 今年のわたしたちの教会の宣教テーマは「祈り」でした。そして、1テサロニケ5:17の「絶えず祈りなさい」をテーマ聖句として選びました。
 わたしたちのほとんどは、祈りをテーマにして良かったと、来年も祈りをテーマにしていきたいと言う意見を出しています。それは、初めての体験であった「断食の祈り」や、またいつもより数多く開いた「テゼの祈り」の集会を通して得たものが多かったからだと思います。

 けれど、祈りの種類は、このほかにもいろいろあります。その代表的なものが「沈黙の祈り」です。もちろん、私たちは、テゼの祈りの中で沈黙する時間が設けられていましたから、沈黙で祈ることを経験しています。断食の祈りの中でも沈黙で祈っていたことでしょう。だけど、それはほんの一部分だけでした。そうではなく、祈り全体が沈黙の続きのなかで祈るのですね。

 声に出さないで祈る沈黙の祈りはかなりの訓練が必要なものです。
 人が、沈黙またはしんとした静けさの中にいるためには、力が必要であると言われます。おかしな話しに思えるかもしれませんが、ほとんどの人は、何でもないことをしゃべることを通して、今の、この時間を過去へ流そうとする癖があるそうです。それは、音のない静けさに耐えることができないから、どんなことでも音を出して、時を過ごそうとするのですね。実際、テゼの祈りのときに沈黙する時間を数分設けただけでも、その数分さえ耐えられなかったのではありませんか。やはり歌を歌ったり、人の声を聴いたりすることに、私たちは慣れてしまっているのでしょう。

 ですから、沈黙で祈るということは、ただ何も話さないでいる、と言うこととは違うことだということがわかります。
 ある人は、沈黙すること、または沈黙についてこのようなことに喩えて述べていました。
 「沈黙とは五線の上に書かれている音符のようなものだ。」と。
 楽譜の五線の上には、いろいろのものがあります。全音符、二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符、三十二部音符…これらは、演奏されなければ、聞こえないままのものですが、しかし、演奏者によって演奏されるとき、その音だけがもっている音を出します。
 しかし、音符が演奏されないからそれには音がないと言う風に音符を読む人はいないのです。

 沈黙も同じだということなのです。つまり、沈黙は違った形での対話であると。音符が音楽の一部であるように、沈黙も対話の一部であるということです。
 考えて見ると、私たちが、沈黙の中で対話をしているものはたくさんあります。まず、自然と対話をするでしょう。この頃、寒くなってきましたが、紅葉が絶頂に達しています。外に出て、紅葉の美しさに見とれれば、人の言葉ではその自然の美しさを語りつくすことができないことを知らされます。あえて、言葉が必要ではないことを悟るのです。それは、絵を見るときや人が書いた詩を読むとき、または優れた何かの作品に出会う時も、言葉の要らない世界の中で、しかしそれらと語り合ったりする。

 それは、人同士も同じだと思います。
 人が誰かと親しくなりたいときに、心の中を空っぽになるまですべてを話したといって、その人と親しくなった、と思うのは錯覚なのです。人は、言葉数が多ければ多いほど距離感も伸びるものですね。人が、本当の意味で近づく、親しくなれるのは、自分自身から出てくるあらゆるものを沈黙させられたときであります。
 言語が夢見る最高の境地はここにあると言えるかもしれません。

 本日の福音書の中にこのような光景があります。
 この箇所は、イエスさまがロバに載ってエルサレムに入城されるところですが、私たちは、一年のうちに二回、この箇所からみ言葉を聞きます。一回は、今日、待降節第1主日に聞きます。もう一回は、受難週の前の主日の枝の主日に聞きます。それで、イエスさまがエルサレムへ入城される場面をよく読んでみますと、歓迎して叫ぶ人が、ルカ福音書だけ違います。マタイでは大勢の群集が服を敷いたり歌を歌ったりしています。マルコでも大勢人がそうしています。またヨハネでも大勢の群集と書いています。しかし、ルカだけは群集でも大勢の人たちでもありません。主の弟子たちです。弟子たちがイエスさまのエルサレム入城を歓迎して、こぞって、声をあげて歌っています。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(38節)

 ルカは、弟子たちの口に讃美の言葉を託しています。そして、それを見ていたファリサイ派の人が、弟子たちの口を黙らせてくださいと、イエスさまに願いました。するとイエスさまは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」(40節)と返事をなさって、ファリサイ派の人の口を黙らせます。

 語ることが赦されている者とそうではない者の差がここにあります。他の福音書では、弟子たちは、決して適切なところで適切なことを語る人たちとして描かれません。しかし、ルカは、特にこの箇所では、弟子たちの口を通してイエスさまを歓迎する讃美を歌わせています。イエスさまが、これから、十字架の道を歩まれる、その道にあって、適切な言葉を語る者として、弟子たちが用いられていると言うことです。

 これは、弟子たち自身の中にそうする力があるということではありません。そうではなく、もはや、イエスさまの十字架での死、その時まで、きっと沈黙なさるであろう神さまの沈黙。その中に預けられた者として、彼らは、今、語ることがゆるされていると言うことであります。もし、彼らが語らなければ、石ころに命じてまで語らせるという神の硬い意志が、その沈黙の力が、今、弟子たちの口に言葉を託して、語らせているということです。

 人は、このようにして、神の沈黙においてのみ語ることが許されたり、または、神の沈黙においてのみ、主の働きに参与することができるのであります。そのためには、沈黙を通して語りかけてくる神の声を、沈黙を通して聞く作業が必要なのですね。そうでなければ、主の歩まれる道にあって、用いられることは決してないと言ってもいいでしょう。私たちは、ただ、ロボットのように用いられるのではないからであります。

 さきほど、交読しました詩篇25編の記者も、彼自身、魂が渇いた状態の中で、深い孤独を感じた人のようです。ひたすら神さまにお願いをしています。「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」と。霊的に疲れ果てて、渇き果ててしまいますと、進むべき道が見えなくなるものですね。そうなりますと、どうやって生きればいいかさえわからなくなってきます。暗闇の中を歩いているかのように、生きることに希望を失ってしまうのです。

 この新しい年には、もう少し深い祈りができるように、神さまの沈黙の中に自分を委ねてみませんか。沈黙する時間を増やしていくのです。自分の言葉の数を減らして、沈黙において神さまと共感するときを持つ。そこで、はじめて、わたしたちは、主が示される道のりにて、適切な言葉を語りだすものとして用いられてゆくことでしょう。そして、足した地自身の人生の歩み、人々との関わりも、神の沈黙の中から来るまことの希望の中で、より確かなものとなって実りをもたらすのです。
 この新しい年には、より深い祈りをし、より霊的に満たされ、魂を潤して生きる、豊かな年でありますように祈ります。






聖書


ルカによる福音書19章28~40節
28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。 37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」 39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」