人の一生には、かならず分水嶺的な事がどこかでおこります。それがまた箴言19章21の『人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する』という時と場になることを、みなさんもきっと体験されていると思います。この箴言19章21の『実現する』という原文は、立つ、という言葉です。人のいろいろな自分の計画や思いが危なくなっても、最終的にちゃんと立つものがある。それが主がわたしたちにたいして持っているみ計画である、というのです。これを信じる人、また体験した人は本当に幸いな人です。
今日は韓国のルーテル教会のリーダーだったDR.ジー・ウォン・ヨンやジー・ウォン・サンと個人的にも友人、また同僚として親しい交わりをしていただいた人間ですので、大変嬉しく思います。そのジ・ウォン・ヨン博士にA History of Lutheranism in Korea~a personal accountという著者があります。この著書はわたしにとり、お二人を思い出し、また韓国ルーテル教会を知る上の大変貴重な本となっております。A personal account~個人的な著述とことわっておりますように、この本はいろいろお二人の個人的な出来事にもふれていますので、それがわたしには、とても貴重なのです。冒頭で池博士は、16歳の時、家族と一緒に住んでいた町で、たまたま立ち寄った、「イエスの教えブックストア」という店で、手にとった一冊の本のことを書いています。「ルターの偉業」Great work of Lutherという翻訳書でした。博士はルターについては、学校の教科書でその名を知っている程度でしたが、その本の数ページを立ち読みし、たちまち大変な興味をもち、買う決心をし、なけなしの金をはたいてそれを買って読み、ルターとは大変な人だと感動し、家の人にも、友人たちにもその本の内容を話し、そして今の時代に必要とされている人間は、そのルターのような人だと思ったというのです。この偶然の一冊の本の出会いが、池博士兄弟の人生の分水嶺になっていきました。
しかし祖国は分断国家になるという不幸な状態になり、ご兄弟は北を脱出し、南に行きました。博士はあまりふれてはおりませんが、この激動の時代にいい知れぬ苦労をされたに違いありません。しかし、やがて博士に援助の手が差しのべられてアメリカに留学し、また偶然的な人との出会いから、ルーテル教会、LCMSの神学校に学ぶ決断をし、後にはドイツにも行かれて研究をつみ、世界ルーテル連盟のアジア地区の責任も7年以上も担い、さらにアメリカと韓国の神学大学の教授として、日本の徳善善和先生のような立場に立つ、ルーテル教会の指導者になりました。この博士の人生の分水嶺は、あの一冊の本であることはご本人が認めるところです。それが箴言19章21の先生の体験だったのです。
こうした分水嶺的出来事は、個人だけに起こることではありません。また外面的なことだけが分水嶺ではありません。ときに目には見えなくとも、内側からものが変わってくる、そういう出来事も分水嶺的出来事になりうるのです。今日与えられている日課にあるパウロとバルナバの宣言をわたしは、これこそ教会の歴史の分水嶺的な言葉と出来事、また箴言19章21の現実だと思うのです。まず全体から見てみましょう。よく注意して使徒言行録を読みますと、使徒言行録はこの13章から内容がまったく変わってくることに気がつく筈です。今までの中心はエルサレムであり、中心となった人物はヤコブやペテロでした。つまりエルサレムに生まれたキリスト教団とその活動が中心でした。ところが13章以降になりますと、中心は完全にパウロの活動へと移行し、たしかに15章で有名なエルサレム使徒会議が開かれて、エルサレム教団の人々が大勢それに出ていますが、そこでも主人公はだれか、と言ったら、やはりパウロでした。そしてその会議後の使徒言行録は、もうひたすらパウロを追って記録し、最後はローマに到着したパウロの行動で終わっております。あのエルサレム教団のその後については、もうほとんど言及もしません。事実この教団はなくなってしまうのです。一体なにがあって、流れが大きく変わったのか。それを語る一つの言葉が、これなのです、『わたしたちは異邦人の方へ行く』! これが初代キリスト教の分水嶺になったのです。流れがはっきり変わりました。
しかしなぜパウロとユダヤ人の間に、確執が起こったのでしょうか。それを正確にとられることは初代キリスト教会を理解する上にきわめて重要なことです。パウロにしてもバルナバにしても、ましてやヤコブ、ペトロにしても、みんなユダヤ人です。彼らは、モーセの法律を中心とした社会、家庭、そして自分の人生を築いてきた人々です。しかしイエスに出会って、パウロはそれまでのものすべてを失っても、キリストを知ったことでそれを損だとは思わなくなっていました。だが、キリストを中心とした生き方へと転換することができず、まだまだユダヤ教を引き摺って生きている人々がまだ大勢いたのです。「ダビデに約束された救い主は、この人イエスである」とパウロがいくら宣言しても、今日のこの日課にように、「ねたみ、口汚くののしって」パウロの話しに反対し、妨害する人々が大勢いたのです。またイエスを救い主として信じても、その救いはあくまでもユダヤ人のための救い主でなければならない、という人々です。こうした人々は異邦人の救いについてどう考えていたか、というと、洗礼だけでなく、ユダヤ人のしるしであるあの割礼を彼らもまず受けなくてはならない、と主張していたのです。これがいわゆるユダヤ教的キリスト者と言われる人々ですが、パウロはそれに反対して、一歩も譲りませんでした。どんなに迫害されても反対でした。このパウロの信仰が流れを変えたのです。
しかしイエスはユダヤ人として生き、生活されましたし、パウロはもうユダヤ人の中のユダヤ人といってよいファイサイ派出身の人間です。どんなにこうしたユダヤ人の考えにパウロは反対しても、それはキリスト教徒になることで、ユダヤ人やユダヤ教を捨てるのではありあせん。そうならキリスト教は旧約聖書を否定することになります。それではなく、イエスの救済は、ユダヤ人とユダヤ教を捨てるのではなく、それを越えるのです。ひとつの民族、ひとつの国、そういうところを越えて、どこへいくかというと、すべての人間というところへいくのです。
ウィングレンという神学者は、わたしたちはイエスにあって、創世記の1章から11章へ帰っていくのだ、と言います。創世記は神による人類の創造の記述ですが、1章から11章ではまだ、どんな種族も民族も国も生まれていません。あるのはただ神対人です。アブラハムが登場してはじめていろいろな部族、民族が発生します。イエスにあってユダヤ教が越えられる、ということはそういう神と人というもっとも基本に帰ることなのです。その意味で、ユダヤ教の役割は完成したのです。それは決してユダヤ教がだめになったということではない。だから『異邦人』の方へいく、と宣言したパウロはすぐそのあとで「主がわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光と定めた。あなたが、地の果てまでも救いをもたらすために』」というイザヤ書42章や49章を総括し、これは私の勝手ですることではなく、旧約聖書の神の約束の成就、神のみ計画だ、と宣言したのです。わたしは異邦人の方へ行くというこの宣言は、人の心にある多くの計画ではなく、神の計画のみが立つ、という宣言です。旧約の世界がエルサレム中心思想で動いてきたのは確かなことですが、今や地の果てに住む人々まで神の恵みの中にいれられるのです。わたしたちはここ日本にいて、あるいは韓国にいて神に出会い、神の救いに預かるのです。それが地の果てということの積極的意味でしょう。そういう時代が、イエスとともに具体的に始まったのです。
こう考えてくると、パウロがガラテヤの手紙の3章26で宣言していることこそ、キリスト教のマグナカルタ、大憲章だとわかってきます。『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。…そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです』。それが新しい創世記1章なのです。福音はけちな、ちっぽけなものではありません。それなのに、わたしたちがこういうものにするなら、それこそ教会はこの世にとびらを閉ざした教会になってしまいます。先にあげた著書の最後に、韓国ルーテル教会の将来について池博士の言葉がありますが、それはそのまま、日本の教会、その国の教会にも言える言葉です。教会の将来は、まさに主の言葉に動かされ、主の石と導きに従おうと努力する指導者にかかっている。The future of the LCK indeed depends upon a leadership which is motivated by the word of the Lord and tries to follow His will and guidance.そのとおりです。そのような教会に祝福がありますように。アーメン。 |