説教


昇天主日説教

2013年5月12日
 
祝福しながら彼らをはなれ
 

 アスリート(運動選手)を対象にしたメンタルトレーニングしている人が、テニスボールを使って集中力をアップさせるトレーニングがあると聞きました。
  テニスボールを床に置き、その上にもう一個のテニスボールを積む。それができたら、さらにその上にボールを積む、テニスボールの三段積みです。これを某有名オリンピック選手は、瞬く間にこれをやってのけるそうです。そして、子どもたちも、極めて高い確率で成功させる、ところが、大人でこれをできる人はごくわずかだって言うんです。 違いは何なのでしょう。それは、「信じる心」だそうです。やる前から「無理だ」「できない」「意味がない」が先に立つからできない。違いはそれだけだそうです。
  私たちは何かをやる前に「無理だ」「できない」「意味がない」と思って多くの可能性を失っていたり、放棄したりしてはいないでしょうか。では、どうすれば「信じる心」を養い育てることができるのでしょう。それは、私たちの関わり合いの中から生れ育てられていく、愛され、信頼され、尊重されるこのような関わり合いが、人の信じる心を育てる。愛され、信頼され、尊重されるということが、人の信じるという心を育て養うことにとても大事なのです。もしも、あなたが愛されるのではなく憎まれ、信頼されるのではなく疑われ、尊重されるのではなく無視されていたらどうでしょう、そのような関わり合いの中では、人は信じることが難しい、否、信じることができないのではないでしょうか。
  神さまは、イエス・キリストを通して限りなく無条件の愛をしめしてくださいました。私たちは人を愛し、信じ、尊重することの大切さを主イエスが、ご自身のすべて、いのちをもって証されたことを、聖書のみことばを通して知らされる、気付かされるのです。

 あの十字架の死から復活されたイエスさまは、何度となく弟子たちの前に現れ、聖書の説明をされています。この聖書の説明は十字架にかけられる前から、イエスさまが弟子たちと共に過ごしていた時にも よくされていたということが44節の「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」という言葉からうかがい知ることができます。「まだあなたがたと一緒にいた時」、弟子たちはこのように言われ、おそらくイエスさまと共に過ごした思い出の日々が走馬灯のように浮かんできたのではないかと思うのです。差別や偏見に悩む人々、病と貧困に苦しむ人々、罪人だと言われ社会の周縁に追いやられる人々、主イエスはこれらの人々を分け隔てなく愛し、共に語らい、共に食事をし、共に生きた。このことは愛と信頼、尊重がなかったとしたら決してできることではありません。この事が容易ではないことは私たち自身がいちばんよく知っているはずです。差別され偏見を受けている少数の側に立ち差別する者たちへ抗議することができるでしょうか。病に苦しむ人や食事を得ることが困難な人を家に招き食卓を囲むことができるでしょうか。罪人だと言われている人を私たちの輪の中に受け入れることができるでしょうか。この事は私自身に問うと同時に、私たちの教会、キリストの体であるこの教会に問われていることだと思うのです。
 
  イエスは弟子たちに向かって言われます。46節「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と。
イエスさまが神の福音を宣べ伝え歩まれた姿、神さまの大きな愛を示された姿を、弟子たちは傍でつぶさに見てきた。それは、イエスさまが、ご自身のいのちを激しく燃やし輝かせた姿であったと思うのです。なぜなら、イエスさまに対する当時の政治宗教権力者からの圧力やいやがらせ、脅迫はそうとうのものであったからです。
揺るぎない神さまの愛と信頼、分け隔ての無い人格の尊重を示されたイエスさまの行動が目障りでしかたない政治宗教権力者や、イエスさまのことを受け入れることのできない人々に、イエスさまはいのちを狙われました。ルカ福音書では早くも4章で、人々はイエスさまを崖から突き落とそうとしますし、マルコ福音書では3章でファリサイ派とヘロデ派が、つまり当時の宗教と政治の権力をもつ者たちがイエスさまをどのように殺そうかと相談したことが記されているのです。
私は殺されそうになったことはありませんし、いのちを狙われたこともありません。ですからこの時のイエスさまの心境を計り知ることはとうていできません。もしも、私がそのようないのち狙われる状況に陥ったとしたら、私は恐怖におののき、食事ものどを通らない程の苦しみを味わい、逃げ、隠れし、恐怖で夜も眠れないと思うのです。まるで、イエスさまが捕えられた後の弟子たちのように、逃げ、隠れ、恐怖におののくのです。

目を覆いたくなるような、イエスさまが苦しみを受ける光景が聖書には記されています。主イエス・キリストが、捕えられ人々に罵られ蔑まれ、唾を吐きかけられ、殴られ、茨の冠と体に打ちつけられた釘の痛み苦しみは想像を絶します。そして、どうでしょう、弟子に裏切られ、すべての弟子たちに見捨てられたことはイエスさまにとって苦しみではなかったのでしょうか。私だったら苦しい、悲しい、くやしいと思うと同時に怒りが込み上げてくると思います。
しかし、イエスさまは決して弟子たちを見捨てませんでした。復活しイエスさまが弟子たちの前に現れ示されたのは以前と変わりない深い愛情、否、イエスさまを見捨てた弟子たちにとっては今まで以上の、言葉では言い表せない大きな愛を感じたのではないでしょうか。イエスさまは怒るのではなく、愛情と信頼と尊重をしめし、優しく丁寧に聖書を教え、疑わないでほしいと、傷ついた手足を見せ触ってみなさいと言われました。イエスさまの手足に触れた時の弟子たちの思いはどのようであったでしょう。イエスさまの痛みを自分たちのもののようにし、また、イエスさまを見捨てたことを悲しみ、それでも自分たちを尊重し信頼してくださる主イエスの愛で、自分の犯した罪、過ちを赦していただきたいという思いが 激しく湧き起こったのではないでしょうか。

私たちにできるでしょうか、裏切る人、見捨てる人、疑う人を尊重する、信頼する、愛することが。本当に難しいことです。もし、自分が尊重され、信頼され、愛してもらえたら信じる心は大きなものになります。
私自身がそうでした。勝手気まま、我儘、自己中心に過ごし、家族には沢山の迷惑と心配をかけました。中学生のころは心が大きく揺らぎ、荒れる時期であります。私が中学生の頃1980年代は社会問題でもあった校内暴力の渦の中に自分もいました。私もいろんな事に反抗し、いろんな人を裏切り、逃げ、疑いました。両親には本当に迷惑をかけたのです。いろんな問題を起こし、警察にもお世話になりました。警察にはいつも父が迎えに来てくれました。父は物静かな人で、決して頭ごなしに怒ることはなく、その時は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。しかし、そんな中学生がすぐに更生しまともになるはずもなく自分勝手で破天荒な人生を送りました。学校や世間では落ちこぼれ、不良品といわれる息子、しかし、いつでも両親は私を尊重し、信頼し、愛していてくれた、絶えず私のために祈ってくれていたんです、この事が私の信じる心を確かなものとしてくれました。もし、両親が「どうせ駄目だ」「無理だ」「意味がない」と思っていたら、今こうして主イエス・キリストを信じて、神さまに仕え、人々に仕えて神さまの愛、喜びの知らせである福音をみんなに伝えたい、届けたい、分かち合いたいと思うことは決してなかったと思います。

罪を赦され、変わらぬ愛を豊かに注がれた弟子たちは今までとはまるで別人の様です。もう、逃げることも、隠れることも、疑うこともありません。信仰と希望と愛を胸に、イエス・キリストの証し人として立ち上がるのです。彼らの心に、無理だ、できない、意味がないという思いは一片もありません。大喜びでエルサレムへ帰るのです。イエスさまを捕え、苦しみを与えたあの政治と宗教の中心地へ。そして彼らはイエスさまに代わってそれぞれのいのちを激しく燃やし輝かせるのです。
イエスさまが天にあげられる時、手をあげて弟子たちを祝福されています。そして、祝福しながら彼らを離れていくのです。この時も主イエスは彼らに背を向けることをしませんでした。主イエスはみ顔を彼らに向け心から恵みと平安を祈りながら天にあげられるのです。
キリストの体である教会は、神さまから注がれる限りの無い愛によって、愛し合い、信じあい、尊重し合うことで成長し、そして、今日もここから神さまの祝福を受け、主は決して私たちを見捨てず、背を向けず、絶えずみ顔を向け、心から私たちの恵みと平安を祈っておられることを信じ、私たちが生きていくそれぞれの場で、信仰と希望と愛のうちに私たちのすべてを通し、神さまの愛、喜びの福音を証ししていきたいのです。そして、感謝と喜びをもって、また、この教会に帰ってきましょう。






聖書


使徒言行録1章1~11節
1 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 2 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 3 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 4 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 5 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 6 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 7 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 8 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 9 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 10 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 11 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。


エフェソの信徒への手紙1章15~23節
15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。


ルカによる福音書24章44~53節
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。