[説教断片]

 説教:ここに深い慰めが
    
(2008年4月13日 徳田 宣義牧師)

 聖書:ルカによる福音書8章40〜56

  会堂長ヤイロの娘に、命の危険があります。ヤイロは、助けて
 欲しいと主イエスに願います。家に急ぐ途中、もう一つの出来事
 が起ります。12年間、女性特有の病気の中にあった人があった。
 この病の人は、レビ記の定めによって、汚れている、触れてはな
 らないとみなされていました。 当然、人々からもはじきだされて生
 きざるを得ません。 しかも医者に全財産を使い果たし、誰からも
 治してもらえなかった と伝えられていますから、貧しさに耐えなが
 ら、耐え難い孤独の中で、悲しい思いを重ねてきました。 しかし、
 その12年間の重みと悲しみを、すべて預けてしまうかのようにして、
 この女性は手を伸ばし、主イエスの服に触れるのです。そうしたら、
 病が癒えてしまいました。不思議なことです。しかし、私は、ここに
 もっと大切なことがある と思っています。それは主イエスが、群衆
 の中で、この女性の手を見つけてくださった ということです。 その
 背後にある悲しみに気づいてくださったということです。

   私どもも、どうにもならない現実の中で、打ちのめされて、何を
 祈ったらよいのかわからなくなるときがあります。自分の周りには、
 沢山の人がいるにも関わらず、たった一人で、誰からも理解され
 ずに、突き放されてしまったかのような 気持ちを抱えています。
 しかし そこで、這いつくばるようにしてでも、主イエスに触れようと
 する私どもの思いを、主イエスは、病にあった女性をそうなさった
 ように、きちんと受け止めてくださるのです。 そして、その確かな
 しるしの一つが、今日も こうして皆さんが、この礼拝堂にいる と
 いうことなのです。主イエスは、あなたを見捨てない、それがすで
 にこの礼拝において、皆さんが、ここに招かれていることにあらわ
 れているのです。

  主イエスは女性に 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心
 して行きなさい」 といわれます。女性の信仰は、決して模範的なも
 のではありませんでした。しかし主イエスは、なぜでしょうか 「あな
 たの信仰があなたを救った」 とまで言って下さいました。主イエス
 に向かって、すべてを預けてしまうような関係を求めるとき、そして
 そこに生きるとき、信仰は成り立つということです。 ですから、同じ
 ように自らを省みるとき、決して胸を張ることの出来ない未熟 とし
 か思えないような私どもの信仰もまた、主イエスに命を預けて共に
 歩むとき、まことの信仰へと変えられるということです。 主イエスと
 共にある、それが、私どもにとって決定的なこと となるのです。

  これは、会堂長ヤイロの場合もやっぱり同じだと思うのです。ヤ
 イロが模範的な信仰者だった ということではないのです。自分の
 娘が死にそうな という時に、主イエスの足元にひれ伏し、その絶
 望を主イエスに預けたのです。 しかも、先ほど癒された女性との
 やり取りのために、主イエスは、ヤイロの娘 のところに間に合う
 ことができませんでした。愛する 一人娘を失ったヤイロを支えた
 のは、彼の信仰ではありません。 主イエスが、ただ一言、「恐れ
 ることはない、ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」 と言っ
 てくださった。まるでヤイロの代わりに、信仰を言い表しておられ
 るかのような主イエスの言葉に運ばれるようにして、 ヤイロは自
 分の娘の死体が置かれている、その家にどうにか辿りついたの
 です。家につくと、主イエスは、その死の悲しみに対して、娘は眠
 っているだけだといわれます。 そして、主イエスがヤイロの娘の
 手を取って、「娘よ、起きなさい」 と言ってくださいました。その時、
 死んだ娘は生き返りました。 奇跡が起りました。 しかし、これは、
 洗礼を受けられた皆さんにも起こっている奇跡です。すでにここ
 におられる皆さんも、主イエスに手を触れていただいて、新しい命
 を頂いています。キリスト者は、洗礼を授けられることで誕生する
 からです。 洗礼によって、罪人である古い自分が死んで、神と共
 に生きる、そういう新しい人へと甦るということが神の前で起るの
 です。

  私どもは、絶対に死にます。どんな癒しが、私どもの体において
 起こるとしても、必ず死ぬのです。その時、主イエスの 「あなたの
 信仰があなたを救った。安心して行きなさい」 という祝福の声も、
 小さくかすれて、やがては消えてしまうのでしょうか。 私は申し上
 げます。そうではありません。主イエスの十字架の死と甦りによっ
 て、洗礼によって主イエスに結び付けられた私どもも、やがて死ぬ
 のですけれども、「起きなさい」という主イエスの言葉が、救いの日
 に響くとき、私どもも神の御許で、眠りから呼び起こされるのです。
 主イエスに、ここにおられる皆さん 一人一人が、その名を呼ばれ
 て、目を覚ます時がやってくるのです。主イエスが、牧師の手に重
 ねて触れてくださった洗礼の恵みは、ここまで深く届くのです。 「あ
 なたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい」。 この祝福が
 私どもをすっかりと包み込んでしまっています。 この祝福に守られ
 て安心して、私どもは、どこへでも出て行くことができます。 そうで
 す。 死の中までもです。

                                 完


 説教断片のリストに戻る


※ ここは、桜新町教会のサイトです。コンテンツの著作権は桜新町教会に帰属します。