[説教断片]
説教:「しかし、お言葉ですから」
(2014年3月9日 徳田 宣義牧師)
聖書:ルカによる福音書5章1〜11
「イエスが、ゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群集がその周りに押し寄せてきた」。
今日の聖書は、このように始まります。神の言葉を聞こうとして、群集がその周りに押し寄せて来る場所、そこに主イエスが立っておられます。「神の言葉を聞こうとして」、今日この場に集まっている私たちのところにも、もちろん、主イエスが立っておられます。
シモンは漁師です。一晩、漁をして成果がありません。疲れています。家に帰って寝てしまいたいと思っています。そこへ、主イエスが来てくださり、シモンの舟の上で説教をしてくださいました。
シモンの舟と同じことが、私たちの礼拝にも起こっています。挫折した人のところに。辛いこと、落ち込むことを抱えて朝を迎えた人のところに。そういう私たちのところに、主イエスが、来てくださり、礼拝の中で声をかけてくださるのです。主イエスは、沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさいといわれます。シモンは何もとれなかったことを正直に伝え、こう言いました。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。主イエスのお言葉どおりにすると魚がかかり、網が破れそうになります。シモンは、足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」といいます。心の中で疑った自分から離れてくださいといったのです。
天と地を造られたお方の言葉の力を、シモンは主イエスに感じます。神の引き起こされた出来事に出会い、神の臨在を知ったのです。ですから、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という言葉が、思わずシモンの口をついて出たのです。自分の命をお創りになった方が、ここにいらっしゃる。自分の罪は、すべてこのお方に知られている。神の前に耐え得る存在ではない、「わたしから離れてください」そう言わざるを得なかったのです。
神と人間が共に生きることはできなくなったと創世記が、伝えています。しかし、主イエスが、シモンのところに来てくださり、私たちのところに来てくださいます。神の御子は、神と人間との壊れていた関係を回復してくださるために、この世に来てくださったのです。
随分前に、ある方がしてくださった証を、今でもよく覚えています。
かつて家族で所属していた教会に幼稚園があった。お子さんたちを通わせていた。ある日、お子さんが幼稚園で顔をひっかかれ、深い傷を負った。バイキンが入り、何日も、幼稚園に行くことができなくなった。幼稚園でも大事となった。焼け付く傷の痛みと高熱の中で、お子さんは、動揺しているご両親にこういったそうです。「あの子は、まだ神さまを知らないから、僕は幼稚園に行ったら赦してあげるんだ」。教会で聴いていたのです。自分が神さまに愛されて赦されていることを。今度は自分も赦してあげることを。だから、仕返しの言葉ではなく、憎しみの言葉でもなく、主イエスがいわれるように、「僕は赦してあげるんだ」。
大怪我の最中に「しかし、お言葉どおりに」、そう語り得たのです。それほど神さまのものとされたのです。この小さな男の子が・・・。
ご両親は、不信仰を深く恥じ、自分の子どもが、そこまで主イエスのものとされていることを神に感謝したといわれました。お子さんは、主イエスの言葉を運ぶ、小さな説教者とされたのですね。心からそう思いました。
シモンとこのお子さん同様、神の言葉の運び手となるために、私たちも招かれています。世界には、聴くべきものを聴くことができない飢えがあります。主イエスは、神の言葉を人々に届けよう、この世の中に舟を漕ぎ出そうと私たちに声をかけてくださるのです。
「しかし、お言葉ですから」、と神の言葉を口ずさみながら生きる。それが、神に造られた私たちらしい生き方です。お言葉ですから、祈ります。お言葉ですから、愛すべき人を大切にします。お言葉ですから、与えられた仕事に真剣に向き合います。私たちに、どんなことがあったとしても「しかし、お言葉ですから」。そうやって、私たちは神のものとされながら、生活の中へ神の言葉を運ぶ者とされているのです。
完
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