「牧者の手紙」 
(徳田 宣義牧師)

               
2006年6月11日 月報 第444号より

 最初に

  聖霊降臨日の礼拝で、洗礼式が執り行われました。神が今も生きて
 働いておられることを知ることのできた幸いな礼拝となりました。
  私どもは、洗礼によってキリスト者とされるのですが、洗礼式におい
 て、私どもの上に、一体何が起こっているのでしょうか。洗礼には、どう
 いう意味があるのでしょうか。簡単なことのようですが、その恵みは大
 きなものです。聖霊降臨日に洗礼式がありました。このことに深い感謝
 をしながら、よい機会ですので、洗礼の恵みについて、共に考えてみる
 ことに致しましょう。

 洗礼について

  まず主イエスの語られた言葉に聞いてみましょう。
  「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名に
 よって洗礼を授けなさい。」
(マタイ28章19)
 洗礼は、主イエスがお命じ下さったように、父と子と聖霊の御名によっ
 て、行われます。

  使徒言行録 2章では、聖霊降臨日に、ペトロが聖霊を受けて、最初
 の説教をしています。  ペトロの神の救いを語る説教が終わった時、
 人々は 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」 というの
 です。 するとペトロは、こう語ります。 「悔い改めなさい。めいめい、
 イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

  説教とは何かということを考えますとき、語り得ることは沢山あります
 が、その恵みの一つのことは、悔い改めを目指し、洗礼を目指してい
 るということです。悔い改めには、「心の向きを変える」 という意味があ
 ります。 ですから、聖書の言葉によって、説教によって、これまで神か
 ら離れていた生き方が悔い改めへと導かれ、本来、心が向くべき神へ
 心の位置を変える。そして洗礼へ。これが救いへ向かう筋道となること
 がわかるのです。

  洗礼には、水が使われます。私どもの教会では、牧師が手で水を受
 洗者の頭に注ぎます。これは頭まで水に浸かるということを意味してい
 ます。この水ということから洗礼の恵みに迫ってみましょう。
  主イエスがニコデモとの会話を通してこのように語っています。「だれ
 でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
 
(ヨハネ3章5)

  水からイメージしますことは、水の中で、私ども人間は呼吸ができない
 ということです。ローマ 6章3節以下には、こうあります。
  「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれ
 るために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために
 洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
 その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光に
 よって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きる
 ためなのです。」

  水の中で、私ども人間は、呼吸することができません。死んでしまい
 ます。つまり、洗礼において「キリストと共に葬られる」ということが起る
 ということです。キリストは、私どもの水の中で、私ども人間は、罪の贖
 いとして私どもの代わりに十字架に架かり死なれました。洗礼は、この
 キリストに結び付けられることです。ですから洗礼は、キリストともに死
 ぬことを意味するのです。

  そしてさらに水について言い得ることは、水なくして、私どもは生きる
 ことができないということです。つまり水は、命を意味しているということ
 です。ですから、洗礼においてキリストと共に死ぬということは、キリスト
 と共に新たに生きる命へ、という意味もまたあるということです。キリス
 トの復活は、私どもが新しい命に生きるための復活であったからです。

  テトスの手紙 3章には、こうあります。
  「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い
 を通して実現したのです。」

  このテトスの手紙には、新しく生まれるということが記されています。
 新しく生まれるということについて、ある神学者は、「洗礼を出産になぞ
 らえ…洗礼の水を母の胎の羊水のように」 イメージすることができると
 語ります。またペトロの手紙 2章では洗礼を受けたばかりの教会の人
 々を「生まれたばかりの乳飲み子」と表現しています。つまり、洗礼とい
 うのは、新たに生まれるということを示しているということです。神が私
 ども人間を創造された。しかし、与えられた自由を用いて人間は、神か
 ら離れ、神が本来造ってくださった姿を破壊してしまっている。 このよう
 な私どもが、洗礼によって、神が創造してくださった本来の姿へ新たに
 生まれるということが、洗礼に与えられている恵みなのです。

   洗礼を受ける前、私どもは、自分が誰であるのかを忘れて生きてい
 ました。 本当の故郷がどこにあるのかを忘れて知らずに生きていまし
 た。ですから、生活がどこかおかしくなっていたのです。 生き方が定ま
 らずにいたのです。しかし、本当に帰るべき神に立ち返ることを、神は、
 洗礼を通して実現してくださいます。洗礼によって、新しくされ、神の霊
 を受けて、もう自分の力だけで生きなくてよいことを知るのです。 そし
 て、この贖われた体を神にささげるような生き方へと押し出されていく
 ことになるのです。

  最後に

  この月報を記しながら、桜新町教会に着任いたしまして、はやいもの
 で2ヶ月が過ぎたことを思いました。 来てすぐに教会の近くに咲く桜並
 木を見に行きました。昨年の10月に長老会の方々と懇談会がありまし
 た際、大坊長老から教会のまわりは、桜がとても綺麗であることを聞
 いたからです。評判どおり、呑川の桜並木を沢山の人たちが、見に来
 ていました。カメラを持っている人が何人もいました。他にも、教会員
 の方々から、桜新町にあります評判のよいお店をいくつか教えていた
 だきました。お魚屋さん、バウムクーヘンのお店、パン屋さん・・・。
 実際に行ってみましたが、どこもお教えいただいたとおり、そこにわざ
 わざ行く理由がよくわかる思いが致しました。そこでしか見ることがで
 きない景色があり、そこでしか味わうことができない食べ物があったか
 らです。

  教会にも、ここに実際に来なくては知ることのできないもの、味わう
 ことのできないものがあります。その一つのことは、今回学びました
 洗礼です。洗礼をとおして、神から教会に与えられている主イエスの
 十字架と復活の救いが、私どもの救いになります。キリストと結び付
 けられ、神のものとされるのです。このような神の恵みが出来事とな
 る場所。それは教会だけなのです。

  洗礼は、キリストの弟子になる入り口です。ペトロの手紙は、洗礼を
 受けたばかりの人を乳飲み子と記します。 母の胎から生まれ出た赤
 ん坊が、生涯を通して成長していくように、私どももまた、洗礼によっ
 て、新たにされ、生涯を通して、日々悔い改めをしつつ、神に相応しく
 成長していくこととなるのです。

  以前、宗教改革者ルターについてのこういう文章に出会ったことが
 あります。「疑いにさいなまれ、暗闇に閉ざされた魂の格闘が幾夜も
 続くとき、マルティン・ルターは自分の額に手を当てて自分に言い聞
 かせたそうです。『静まれ、マルティン。お前は洗礼を受けているでは
 ないか。』」

  神によって造られた私ども人間が、神から離れてしまった。しかし神
 によって探し出され、導かれ、神の民と回復される。それが洗礼の恵
 みです。洗礼は焼印とも表現されることがあります。これは神の所有
 をあらわすしるしです。神は、神の子を十字架にかけるという途方も
 ない代価を支払われ、私どもをご自分のものとされました。ですから、
 洗礼を受けた私どもは、荒野のようなこの地上にあって、しかし神の
 国の先取りである教会に連なることによって、決して神から忘れられ
 ることなく、神の言葉と聖餐によって、永遠の命へと養われていくこと
 になるのです。

  最後にもう一度聖書の言葉に聞いて、この文章を閉じたいと思い
 ます。

  「信じて洗礼を受ける者は、救われる。」 
(マルコ16章16)


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