「説教断片」 (徳田 宣義牧師) 2008年1月13日 月報 第462号より 『 ルカ福音書 - 第六章20〜26 - 』 先週は、クリスマスの礼拝、子どもたちのクリスマス祝会、そし てクリスマス・イブ礼拝と続きました。私は、皆さんとお別れの挨 拶をしながら、 大人も、子どもも、新しく来た方も、クリスマスの 喜びに包まれて家に帰られた様子を感じることができました。 特に、日曜学校の先生がたにとりまして 12月24日は、子ども たちのクリスマス祝会の準備 から始まって、夜の礼拝と続きま したので、随分お疲れになられたと思うのです。しかし、皆さん、 本当によい表情をして帰られました。 「ああ、私どもの教会は、 神さまに豊かに祝福されているなぁ」と、クリスマスに関わるすべ ての礼拝を終えて、私はしみじみ思いました。救い主は、私ども のために お生まれになられたと、教会に集う 一人一人が、深く 思い巡らす時となったからです。 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」。 今日の 聖書はこのように始まります。主イエスと共に生きることを始め た弟子たちと、今もここで、神さまの祝福に豊かに包まれている 私どもを見つめるようにして、主イエスは、お語りになられます。 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。」 「貧しい」 という言葉がありました。皆さんは、どういうイメージを 持たれるしょうか。お金がなくて貧しいということを想像される方が、 きっとおありだろうと思います。 それもあると思います。 しかし、旧 約聖書では、貧しい人々とは、経済的な貧しさよりも、むしろイスラ エルの歴史がそうでありましたように、国家、富、身分などを剥ぎ 取られてしまい、神だけに頼って生きる他ない人々のことです。そ して、ここで用いられています貧しいという言葉は、程度の軽い貧 しさではなく、徹底した貧しさという意味があります。それは、物乞 いをして歩く他ないような貧しさです。物乞いをするというのは、他 の人の憐れみに、すがりつくようにして生きることです。自分で自 分の命を支えることができないということです。 このことを神との 関係で考えますと、物乞いのように神の憐れみにすがってしか生 きられない人、それが貧しい人々であるとわかるのです。 これが、神がご覧になった人間の現実の姿です。 主イエスは、 このことに気がつく人は、幸いだといわれるのです。ですから、私 どもは、物乞いのように、この主イエスにすがりついてよいのです。 神さまを信じるというのは、そういうことです。 主イエスに、すべて を預けてしまってよいこと、命を預けてしまってよいこと、死んだあ とのことも預けてしまってよいこと、そういう信仰に生きる人、それ は、幸いな人だと主イエスはいわれるのです。 そして、この反対のことが、24節にあります。 「しかし、富んで いる あなたがたは、不幸である、あなたがたは もう慰めを受け ている。」 ここで主イエスが、私どもに語られるのは、真実の幸いに生き る、それは、自分の力で手に入れることのできる、しかしいつか 失うことになるような世の富や力ではなく、神から来る恵み だけ だ、憐れみだけだということです。 私どもは、自分自身に必要だと思うことをいろいろ考えます。 健康のためにどういう食事をするのか。どういう服が 自分には 相応しいのか。どういう住まいで生活するのか。 将来のために 今何をするのか。いずれも大切なことです。しかし、神は、それ らを超えて、私どもに一番必要なことをご存知なのです。 一番 人生の土台とすべきことを知っておられるのです。 神が、私ど もを造られたからです。 私どもは人間関係で傷つき、深く悩みます。家族や、職場や、 学校、どうしても顔を合わせなくてはならない生活の場所で、我 慢して付き合わなくてはならないことがあります。 心かよわない 関係があります。 自分のことを大切に扱ってくれない隣人に囲 まれています。その中で、生き抜いていく。これは並大抵のこと ではありません。 もう自分を殺して生きていくしかないような息 苦しい思いをいたします。 しかし、それだけに、 人との関係に 血が通い、ユーモアがあり、信頼関係ができると、とても嬉しい 思いを私どもはいたします。 家族や友人、同僚、上司、部下、 近隣の人々、心のかよった家族や 仲間たちと過ごす時間の、 素晴らしさは、人の心を潤し、優しくしていきます。 ここで、私が、皆さんとご一緒に考えたい一つのことは、私ど もが最も大切にすべき、神との関係が壊れているとしたならば、 どういうことになるのかということです。 家族の関係が壊れる。 大切な仲間との関係が終る。私どもは、どれほど心痛める事で しょうか。いや時に、心病むほどに、私どもは苦しむのではない でしょうか。そうであれば、私ども一人一人を家族以上にご存知 で、私どもが 神と共に生きる命へ 救われるためになら、私ども に代わって神の子である主イエスを十字架におかけになるほど に、私どもを 大切にしてくださる神との関係が 壊れるということ は、本当に深刻なこととなるのです。致命傷となるのです。です から、私どもには命の完成である永遠の命がないのです。世界 の完成である神の国で、神と共に生きる命を得ていないのです。 自分の身は、自分で養える という人間の心が、祝福への道を 塞ぎます。それを不幸であると今日の箇所で主イエスは私どもに 語っておられるのです。私どもの生き方を問うておられるのです。 聖書が私どもに語る信仰、それは、私どものすべてを神に委ね てよいということです。ですから、主イエスは、22節と23節でこう 語られます。「人々に憎まれるとき、 また、人の子のために追い 出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは 幸い である。」 「その日には、喜び踊りなさい。 天には大きな報いが ある。」 「人の子」 というのは、主イエスのことです。ルカ福音書が最初 に読まれた教会にいる人々は、主イエスを 信じる ことによって、 ユダヤ教の礼拝堂から、追放された人が多くありました。それが 23節の追い出され、ののしられ、汚名を 着せられ、と言う 言葉 からわかってまいります。 しかし、その日には、喜び踊りなさい。 天には大きな報いがある と主イエスはいわれます。 私ども人間 の中に、どのようなことがあっても、喜ぶことができる 理由は あ りません。あるのは、神から離れている貧しさだけです。 しかし、 貧しくても、飢えていても、泣いていても、ちゃんと 幸いがある、 神からの祝福が与えられる。導きがある。だから、喜ぶことがで きるようになると主イエスはおっしゃられるのです。たとえ今、泣 いているようなことがあったとしても神の祝福が、あなたを大きく 包んでいる。 このことをちゃんと 知っているかということをおっし ゃられるのです。 あらゆる持ち物を失って、しかし最後に残るのは、なんでしょう か。 仕事を失う。財産を失う。 健康を失う。友人を失う。家族を 失う。そういうあらゆるものを失ってなお残っているのは、自分と 言う存在です。生きている限りは、この自分と私どもは最後まで つきあっていかなくてはなりません。神が祝福してくださる貧しさ、 それは神に頼る他ない人のことです。ですから、私どもが、神の 言葉によって、打ち砕かれた状態、例えば、自分の思い ばかり にこだわり、自分中心の 生き方を造ろうとする 心が砕かれる、 それが神にある貧しさに生きるということです。そうやって、貧し くなっている状態、それが主イエスによって幸いであるといわれ るのです。こうなって初めて私どもの小さな思いや願いではなく、 主イエスの恵みが、私どもの心を豊かに満たしていくことになる のです。 私どもが、自分の心にこだわるとき、自分の思い通りにならな い他の人に対して、私どもと言うのは、怒りに捕らわれ、いらだ ちます。 そして私どもの心は残酷になります。そういう私ども人 間の心が、主イエスを 十字架にかけてしまいました。 主イエス は、ひたすらに神の御心に生きられた方です。 しかし、 私ども は、神のみ心を殺そうとする思いを心に抱いています。だから、 神に背き、主イエスの存在を十字架の上で、消そうとしたので す。それは今を生きる私どもの心であっても少しも違いません。 しかし、主イエスは、この人間の力に打ち勝たれた。死の力に 打ち勝って、およみがえりになられた。この神の力が私どもを 支配する。だから、主イエスに結び付けられた私どもは、確か に神に背くこの世界にあって、主イエスを苦しめた神から離れ る闇を抱える私ども自身と隣人との思いによって、悲しい思い をし、時に涙を流すような思いをし、悔しい思いをする、しかし、 神の幸いは、必ず人間の力を超えて与えられる。このことをど うか、あなたがたも知って欲しい、そう主イエスは、私どもにお っしゃってくださるのです。 人間が神のように振舞い生きるところには、救いはありませ ん。ですからどうしても、私どもは、神を神としなくてはならない。 そして 初めて人間は、神のようにではなく、人間らしく生きてい くことができるようになるのです。 神の祝福は永遠です。消えてなくなってしまうことはありません。 今、私どもが苦しんでいる、解決できないようにしか 見えない問 題、辛くてしかたのない人間関係、治る見込みのない病、これら は神の永遠の前では消え去るほかありません。 永遠に続くこと は、私どもの出会っている不幸ではない。 神は私どもを祝福す るためにお造りになられた。だからこそ、神と共に生きる永遠の 祝福に、あなたも招かれている、そう 主イエスは、おっしゃれる のです。この恵みが私どもの上に、もうすでに始まっています。 だから、クリスマスの礼拝を終えて、皆さんがよい表情をされて 帰っていかれたのだと私は確信しているのです。このように、私 どもの上にも、ちゃんと神の祝福は届いているのです。 (2007年12月30日聖日礼拝説教より) 「牧者の手紙」のリストに戻る |
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