「葬儀説教」 (徳田 宣義牧師) 2008年3月9日 月報 第464号より 【T兄 葬儀】 前夜式 2008年2月26日 告別式 2008年2月27日 聖書 詩篇 23編 ローマの信徒への手紙第 8章31~39 主イエスのお守りのうちにありました Tさんは、2月24日の お昼前に、急性心不全によりまして、主にある眠り につかれま した。 川崎にお生まれになられて78年。 N放送局のアナウン サーとして、函館、静岡、京都、名古屋、広島へ着任後、東京 へ戻られ、そして慌しかった生活を離れて、静かな日々を過ご されながら、日本画を描かれ、お孫さんたちと共にいることを楽 しみとされ、そのご生涯を閉じられました。今や、その走るべき、 道のりを走り終え、神の定めに従って神の御元へ召されていか れたのです。 2月24日の日曜日の朝、ご子息の Aさんが、いつものように 朝食のために二階から降りてこられました。毎朝7時頃にTさん は、リビングで新聞を広げておられます。しかしこの日、Tさんの 姿はなく、食べかけのバナナだけがありました。 Tさんが起きて 来たことは確かです。ご子息のAさんは、外出の際に、今日まだ 会っていないTさんに聞こえるように 「行ってきます」 といわれま した。 しかし、返事はありません。 Aさんは様子を見に行かれま した。そして、捜された末に、のけぞっておられるTさんのお姿を 見ることになったのです。 Aさんは、救急車を呼ばれ、心肺の蘇生を試みながら、到着を 待たれました。救急隊員による様々な手がつくされましたけれど も、しかし、24日の午前11時47分、急性心不全と 病院で死亡 の宣告をお受けになられました。 この日曜日の礼拝後に、Aさんの奥様から、亡くなられたとの お電話を受け、私も、病院へ向かいました。検視が終るのを待っ てから、霊安室で、Aさん、葬儀社の方、そして 私とで、詩編23 編を読み、祈りました。 「主は羊飼い、わたしには 何も欠ける事がない。主はわたしを 青草の原に 休ませ 憩いの水のほとりに 伴い 魂を生き返らせ てくださる」。 羊をどこまでも導かれる主人、それをこの詩編は神である と指 し示します。羊飼いによって導かれて、羊が水や牧草が与えられ るように、あるいは羊飼いによって 様々な危険から守られるよう に、神は、私どもを導いてくださる。そういう導きを信じ、羊が羊飼 いの後に従って歩むように、私も神に従って歩みます。そういう信 仰が、この箇所で告白されています。そして、そのとおりの導きが、 Tさんにも臨んでいました。 Tさんの歩み。78年という年月。そのことだけを考えても、本当 に多くの出会いが重ねられてきたことでしょう。 しかし、そういう中 で、1987年4月19日にA教会で行われた洗礼式において、決定 的な出来事が起こりました。 Tさんが、主イエス・キリストとの出会 いを受け入れられ、その洗礼が神の前において、大きな意味を持 ったからです。 ご子息のAさんと、葬儀の備えを ご一緒にさせていただきなが ら、Tさんの思い出を、伺うことができました。そこで、Aさんが、葬 儀で皆さんにお伝えいただきたいことがあるといって、いろいろと お話してくださいました。 ご子息のAさんは、お仕事のために、普段帰宅されるのが遅い ために、Tさんと、なかなか、一緒に食事をすることができません。 そのことを、日頃から、とても気になさっておられました。 しかし、 たまたま2月17日に Aさんが、山形でコンサートがおありだという ことで、少し長いお休みを おとりになられました。珍しく 18日から 23日まで、つまり Tさんが亡くなられる前日まで、何度も 何度も 一緒に食事をすることができました。 ある時は、喫茶店で一緒に食事をした。 ある時は、おさしみで ご飯を食べた。そして、ある時には、Tさんの好きだった牛丼を作 って差し上げた。 この時は、珍しく 御代わりをされました。 2月9日と、少し前のことになりますけれども、Aさんは、山形へ コンサートへ行くために 暖かい服を買おうと思っておられました。 何気なく、Tさんのズボンを見ると、少しくたびれていた。 Tさんに も、新しく暖かいものをと思って、一緒にお店に行こう とお誘いさ れました。 Aさんにとって、服を父親と二人きりで買いに行くのは、 これが初めてのことでした。そして、最後の時となりました。 それからもう一つ、私が本当に印象深くお聞きしたことがありま す。2月に入られて、「Yの家」 という所へ、Tさんは週末通われる こととなりました。亡くなられる前日もこの 「Yの家」 に行かれまし た。Tさんは、そこで折り紙を習います。ひな人形を作られました。 そして、お家に帰られて、お孫さんたちに、その習ったばかりの人 形の作り方を教えてあげました。 お孫さんたちも、おじいちゃんに 自分の知っている折り紙を教えてあげました。昨晩の前夜式でも、 私は、説教の中で、この出来事をお伝えしながら、すぐそこに座っ ておられる小学校3年生のお孫さんと、目が合いました。 つい先 日の楽しかった時間を思い出しているかのように、一生懸命 頷き ながら、説教を聞いていました。前夜式の祝祷が終わり、お孫さん は、献花をする時に、涙を流して泣いていました。その姿を見て、 かけがえのない おじいちゃんを失った、その 悲しい心を、私は思 わずにおれませんでした。 ここにあります Tさんのお写真。この元になる写真が、病院の霊 安室の ご遺体の脇に置いてあるのを、私は、ちらっと 見させてい ただきました。お孫さんたちと一緒に撮った 楽しそうな クリスマス の写真です。赤と黄色の紙製のとんがり帽子をお孫さんたちが被 っていたように覚えています。今ここにある この写真を見ながら、 お孫さんたちは、楽しかった思い出を、思いだしているのかもしれ ません。その悲しみは、本当に大きいことでしょう。 しかし、それだけに、私は、こう思っています。ここにいる お孫 さんたちにとって、そして お孫さんの元気な声を聞くことが、何より の幸せだった Tさんにとって、本当に幸いな時を、神さまは、別れ の時として用意してくださったということです。そして、一人息子の Aさんとのお別れの時間を、日頃から、一緒に食事をしたいと願っ ていた その思いを まるで神さまは、適えてしまわれたかのように ご用意してくださいました。私は、葬儀の前に、これらのお話を伺 いながら、神さまのお守りとお導きが、Tさんたちを 包み込んでし まっていると思いました。 前夜式の後、帰られる Tさんご一家を、 妻と息子と見送りながら、しみじみとそう思いました。 「主は私の 羊飼い」、そのとおりの導きが Tさんとご家族の方々の上にある からです。 ローマの信徒への手紙第8章35節には こうあります。 「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」。 ここにはキリスト者が生きるにあたり、キリストと引き離そうとす る力があると記しています。 しかし、続くローマの信徒への手紙 第8章38節には 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、 支配するものも、 現在のものも、未来のものも、 力あるものも、 高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被 造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛 から、わたしたちを引き離すことはできないのです」 とあります。 キリスト者と、キリストとの間を引き離そうとする あらゆる力が あります。憩いのみぎわへ、主イエスという羊飼いが私どもを導 こうとする、その導きから私どもを引き離そうとする力がこの世 界には沢山あるのです。私どもの恐れる死が最たるものである ことしょう。しかし、いかなるものも、私どもをキリストから引き離 すことはできない、そう聖書は語るのです。 そして、私は、今ここでこう語ることができます。 「わたしは確 信しています。 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のも のも、 未来のものも、 力あるものも、 高いところにいるものも、 低いところにいるものも、 他のどんな被造物も、 わたしたちの 主キリスト・イエスによって示された神の愛から、Tさんを引き離 すことはできないのです」。 なぜ、私はそう語り得るのか。それは、安らかな眠りの中で、 やがて神の国で主イエスによって、その名を呼ばれるための、 消えることのない印を、主イエスが1987年4月19日のA教会 での洗礼において、Tさんの魂に刻み込んでくださったからです。 牧師が、洗礼において、Tさんの上に、手を置く、あの手に 主イ エス・キリストの御手が重ねられ、Tさんは、主のものとされたか らです。ここに眠るキリスト者 Tさんのために、私どもの救い主 イエス・キリストは、十字架にかかられました。血を流されました。 ですから、今、私どもは、心を込めて、Tさんのすべてを、この主 イエ主イエス・キリストの御手にお委ねすることができるのです。 ご遺族の方々を、ここにおられるお一人お一人を、主イエスが 深く慰めてくださいますように。 祈りをいたします。 祈 り 主イエス。キリストの父なる神さま。 私どもには、苦しんでも苦しんでも、解決しないことが山ほど あります。人との関係に、傷ついています。心底疲れています。 日々の生活にどれほどの悩みを抱えていることでしょう。 そして、そのような私どもに、Tさんを失った悲しみが加わりま した。特に、ご遺族の方々の悲しみを思わずにおれません。 大切な人を失って、耐え難い悲しみに直面しておられます。 共に生活をされてこられたご遺族の方々は、今日もまた、ここ にいる人々と別れて、 寂しさを抱えて、 共に暮らした家に帰ら なくてはなりません。主(あるじ)を失った部屋。持ち主を失った 茶碗。 お孫さんとおった折り紙。食べかけのバナナ。 家の何も かもに、思い出が詰まっています。しかし、それだけに、どうか、 ご遺族の方々を、ここにおられる 一人一人を、あなたが深く慰 めてくださいますように。 そして 必要なお守りをお与えください ますように。 この祈り、 私どもの救い 主イエス・キリストの御名をとおして 御前におささげいたします。 アーメン 「牧者の手紙」のリストに戻る |
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