「牧者の手紙」 
(徳田 宣義牧師)

               
2008年6月8日 月報 第466号より

 『ハイデルベルク信仰問答 ― 第十四主日 ― 』

 【子なる神について】


     問35
 「『主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ』 とは
  どういう意味ですか。」

  二重鍵カッコ内は、使徒信条の言葉です。ここでは、主イエスの
 お生まれについて記され、その意味が問われています。

  主イエスのお誕生について、マタイ福音書、ルカ福音書が それ
 ぞれ 伝えていますように、主イエスというお方は、聖霊によって、
 つまり、マリヤとヨセフの結婚によらないで、処女(おとめ) マリヤ
 より生まれ、人となられた ということです。不思議なことが記され
 ています。残念ながら私も科学的に説明をすることはできません。
 しかし、聖書もまた、そこに関心をもっていません。 そういうこと
 よりもむしろ、主イエスというお方について、そのように告白する、
 そこにどういう意味が込められているのか、いや この信仰問答を
 読むあなたとって、そこにはどういう意味があるのか ということを
 問うているのです。

   現在、私どもの教会の求道者会に、四名の方が出席をしてくだ
 さっています。先週の日曜日の礼拝後、お一人お一人のご都合を
 伺いまして、四人全員が揃って、求道者会を開くことは難しい とい
 うことがわかりました。 それぞれの方にあわせて、今後の 予定を
 組むことにいたしました。今週は、幸いなことに 三回求道者会を
 持つことができました。 そのうちのある求道者会では、富岡幸一
 郎著 『聖書をひらく』 (2004年・編書房) という書物を読むこと
 に致しました。私が、是非 教会の皆さんにも、読んでいただきた
 いと思っている書物の一つです。 富岡さんは、この月報が 発行
 される 6月8日の礼拝で、説教をしてくださる加藤常昭先生が導
 かれた文芸評論家の方と伺ったことがあります。 私も、これまで
 富岡さんの『使徒的人間カール・バルト』 『悦ばしき神学』 を興味
 深く読んだことがありましたので、その同じ著者が 記した 『聖書
 をひらく』 という書物にも、喜んで手を伸ばしました。 この書物を
 開くとすぐに、目にすることができる文章に こういうものがありま
 す。 「聖書は人間には語りえぬことを、神が 自らひらいて示して
 くださったものである。それは、われわれの指南役ではない。
 人間の側から とは異なる、別の面から、新しい大きな緊張に満
 ちた期待と希望を持ち込んでくるものである。」 「聖書の言葉は
 こちら側の人間に向かって問いただし、尋ねてくる。 そういう不
 思議な書物です」。私もやはり、聖書について同じような考えを
 持っています。 自分が神を問おうとして、聖書を読んだとしても、
 しかしいつの間にか、自分が神から問われている。自分の姿が
 映し出されていく。それが聖書を読むときに感じる思いだからで
 す。それだからこそ、著者は、聖書の言葉について「早く言葉を
 素通りしないで、むしろ 言葉の中にある輝きや力を発見するた
 めに、すこし 言葉に躓いたほうがいい」 というある哲学者の言
 葉を紹介していました。

   聖書の語る言葉一つ一つに立ち止まり、思い巡らしながら、
 その言葉が持つ、輝きをゆっくりと聞き取ることができるように
 導く、それが ハイデルベルク信仰問答の持つ、一つの特徴で
 あると、この原稿を準備しながら、私は改めて感じています。
 そして、今回の箇所で、この信仰問答が伝えよう としている大
 切なことは、主イエスの誕生は、人間的可能性を超えた 出来
 事であり、全能なる神が起こしてくださった出来事であるという
 ことです。そして、同時に、ここには一体どういう意味があるの
 か、ということが私どもに問われている ということです。そのこ
 とをご一緒に考えてみましょう。 信仰問答の答えはこう語って
 います。

    答え
   「永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、また
 あり続けるお方が、聖霊の働きによって、処女マリヤの 肉と
 血とから、まことの人間性をお取りになった、ということです。
 それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別に
 してはすべての点で 兄弟たちと同じようになるためでした。」

  問35の信仰問答には、いくつも注がつけられ、根拠となる聖
 書箇所が記されています。 ヨハネ福音書第1章1節には、「初
 めに言(ことば) があった。言は 神と共にあった。 言は神であ
 った」 とあり、同じくヨハネ福音書第1章14節には、「言は肉と
 なって、わたしたちの間に宿られた」 と記されています。ヨハネ
 の第一の手紙では、御子は派遣された といっています。またフ
 ィリピの信徒への手紙 第2章6節以下には、「キリストは、神の
 身分でありながら、神と等しい者であることに 固執しようとは思
 わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者
 になられました。」と記され、主イエスご自身も、その道を選ばれ
 たことが語られています。

  ここで語られる大切なことは、主イエスは、神の御子、まことの
 永遠の神であり続けつつ、同時にまことの人間性をおとりになっ
 たということです。 しかも、このように主イエスが真に神でありな
 がら、まことの人である道を 歩むとき、それは 父なる神の定め
 だけではなく、それはまた聖霊の働きでもあったということです。
 そのような父・子・聖霊の三位一体の神が、主イエスが人となる
 時に選ばれた方法が、「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生
 まれ」 ということなのです。

   ですから、ここで大切なことを簡潔にまとめてみますなら、神
 の子である 主イエスは、永遠の神であり、同時に、神であるこ
 とをやめることなく、私どもと同じまことの人間性をおとりになら
 れた。しかし、それは 「罪を別にして」 ということです。

  そして、それが今度は、私どもとどう関係するのか ということ
 が、次に問われることになります。

     問36
  「キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益
 を受けますか。」

   答え
   「この方が わたしたちの仲保者であられ、ご自身の無罪性と
 完全なきよさとによって、罪のうちにはらまれたわたしのその罪
 を 神の御前の前で覆ってくださる、ということです。」

   まことの神でありながら、同時にまことの人間であられる主イ
 エスの誕生の出来事は、神によって創造された人間に対して差
 し伸べられた神の愛の究極的な表現です。なぜかといいますと、
 神は 人間にとって 遠い観念的な存在に留まることをなされず、
 むしろ、肉を持って この世に来てくださり、私ども人間の罪を主
 イエスがお一人で担われ、私どもの身代わりとなり、私どものた
 めに十字架の上で死なれたからです。

   私どもは、被造物であり、神は創造者です。この理由で、私ど
 もは、神から隔てられているのではありません。 神と隔てられて
 いるのは、私どもが神に背くからです。不信仰の故です。この罪
 が、天と地、永遠と時間を隔ててしまっているのです。 改革者カ
 ルヴァンにとって、神と人との一致と交わりは信仰の目標である
 と言われています。しかし、神と人とを隔ててしまっているのが罪
 なのです。 神と人との間のこの質的な隔たり、罪に基づく隔たり
 は、間に立つ仲保者を必要といたします。そこで主イエスは、私
 どもにとってのインヌエル(マタイ第1章23節)、つまり 「神は 我
 々と共におられる」 という方になってくださるのです。

  ですから、ただ一人、まことの神であり、同時にまことの人であ
 るお方だけが、私どもの罪のために死に、復活して 私どもに救
 いをもたらす力を持っておられるのです。神は私どもを愛してお
 られます。この神の愛のゆえに、主イエスによって、私どもは神
 に立ち返ることが ゆるされ、神と 和解させていただくことが起こ
 るのです。

  神は、私どもを造られた創造者であり、私どもは、被造物です。
 しかし、主イエスの救いが 私どもに与えられるのは、主イエスが、
 聖霊によって、この世に人としてきてくださいましたように、私ども
 が救われるのは、聖霊による主イエスとの人格的関係が決定的
 に大切となる ということです。 私どもは、主イエスと聖霊によって
 結び合わされて 「神は我らと共におられる」 ということが起こるの
 です。そのために主イエスは、人となられたのです。ですから、主
 イエスの人間性なくして、私ども人間の救いはないのです。

   「人間の側からとは異なる、別の面から、新しい大きな緊張に
 満ちた期待と希望を持ち込んでくる」。(『聖書をひらく』)
 主イエスは、別の側から、つまり 人間の側からではなくて、神の
 側から、来てくださった方です。この向こう側に立つべきお方が、
 私どものために、そして私どもの身代わりに、こちら側に立たれ
 たのだ。しかも私どもの下に立たれたのだということ、そのことを
 伝えようと聖書は語るのです

  神の愛は、身代わりの愛として現れました。罪人の身代わりに
 なる神・主イエスが、罪を赦すために、人間の側からとは異なる、
 別の側から来てくださり、人間の側で私どもに代って十字架にか
 かってくださったのです。マタイ第1章21節によると主イエスの名
 前には、「自分の民を罪から救う」 という意味があると伝えていま
 す。 これが私どものために、十字架にかかられた方の名前の意
 味するところなのです。

  先日、富士霊園にある教会墓地で、納骨式がありました。逝去
 をされて、葬儀を終えて、納骨をするまでご遺族の方にとりまして
 は、病院、教会、葬儀社、区役所、霊園と手続きの連続です。私
 は傍らにいながら、ご遺族の方は、悲しんでいる暇などないので
 はないかということを思わずにおれませんでした。

  私どもは、病院や、葬儀社、区役所、霊園などで、葬りのために
 手続きはすることは確かにできます。しかし私どもは、神と共に生
 きるための、手続きをすることは一切できません。 しかし、主イエ
 スがすべてをしてくださいました。ですから、私どもがするべきこと
 は、このお方を信じることです。 このお方に従うことなのです。

  昨日は 加藤常昭先生によってつけられた教会の外にある伝道
 集会の講演題を読む大きな声が、この原稿を準備している 私の
 耳に聞こえてきました。

  『神にお会いするにはどうしたらよいのか』

  主イエスが、私どもに注いでくださった恵みは、どれほど 大きな
 ことでしょうか。 暗く冷たい墓の壁を越えていく 私どもの上にある
 神の導き、そして、私どもの礼拝において、主イエスは、御言葉を
 もって、私どもの魂を慰めるために訪れてくださる恵みに、心から
 の感謝をささげながら、もう明日に迫ってしまった 6月8日の伝道
 礼拝と伝道集会を 今から楽しみにしつつ、この原稿の筆を置こう
 と思います。

  皆さまの上に、主の祝福が豊かにありますように。
(*この原稿は6月7日に完成し、6月8日に月報として発行されました。)



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