「牧者の手紙」 
(徳田 宣義牧師)

               
2006年7月9日 月報 第445号より

 礼拝について

     

   集会室の二階にあります共有スペースは、日曜日には、長老会、
 教会学校教師会、求道者会と様々な役割を果たす部屋となっていま
 す。そして、平日には、この部屋が私の務めをする場所と変わります。
 この部屋の窓の高さは、隣にある礼拝堂の屋根と、ほぼ同じです。
 小さな鳥が、晴れた日には、必ずここへやってきます。鳥たちは、教
 会の礼拝堂で何をしたらよいのかをまるで知っているかのように、小
 さな羽根を休ませ、そしてさえずるのです。 鳥は鳥たちで、神さまへ
 の讃美をしているかのようです。

  鳥と同じように、私どもは、生まれてから、食べ、飲み、眠り、様々な
 営みをし、そして死んでいきます。私どもは、この鳥とどこが同じで、ど
 こがちがうのでしょうか。そして、違いがあるとしたら、それはどこにあ
 るのでしょうか。

  先日、道端で親のすずめが、子供のすずめに、飛ぶ練習をさせてい
 たのでしょうか。巣から落ちたのかもしれません。わかりません。しかし
 いずれにしましても、道端にいる子供のすずめはなかなか飛べないで
 います。 もう少しです。 親のすずめは、鳴きながら見守っています。
 「あなたも、すずめなのだから飛べるはずだ」。 もしかしたらそういう眼
 差しをもって、見守っていたのかもしれません。

  私どもは、何者なのでしょうか。すずめに増して、自分は本来どういう
 存在であるのかを私どもは知っているのでしょうか。 そのことを隣人に
 伝えることができる言葉を持っているのでしょうか。 そして、そのことを
 どこで、誰に教えてもらえばよいのでしょうか。

     

   聖書は、様々な箇所で、私どもがどういう存在であるのかを語って
 います。創世記 1章27には、私どもの由来が記されています。「神は
 ご自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。」

  ここには、いくつかのことが示されています。しかし語りうる一つのこ
 とは、神は、私たちを礼拝者として造られたということです。安息日の
 前日に人間が造られた。このことの指し示している意味は大きいので
 す。創造の最後に、神は被造物を見て、祝福してくださっている、これ
 は礼拝を意味しているといわれているのです。

     

   聖書を読むと、礼拝の姿をいくつも見つけることができます。ある神
 学者によりますと、ノアの礼拝、アブラハムの礼拝、ヤコブの礼拝があ
 ると言い、出エジプト記は、そもそも真実の礼拝を求める出来事であっ
 たこと。預言者エリヤの戦いは 「真実の礼拝」 を回復するためのもの
 であったこと。 詩篇は、そのほとんどが礼拝の歌であること。 ヨブの苦
 難を救ったのは、神との出会いであり、それはヨブの礼拝経験であった
 ろうこと。主イエスとサマリヤの女の会話はいつしか礼拝の話になった
 こと。聖書の最後のヨハネ黙示録の結末は、新しい天のエルサレムの
 礼拝であったこと。以上のこれらのことから、聖書は礼拝の書であると
 語るのです。

     

   「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主がご自分の業を喜び
 祝われるように。主が地を見渡されれば地は震え、山に触れられれば
 山は煙を上げる。 命ある限り、わたしは主に向かって歌い、長らえる
 限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。・・・私の魂よ、主をたたえよ」
 
(詩編104編31以下)。  私どもは、礼拝において、主の名を呼び、
 祈り、そして御名をほめたたえます。 私ども人間は、「霊で讃美し、理
 性でも讃美する」
(第一コリント14章15) とあるとおり、特にその言葉
 と知恵とを捧げて創造の神を讃美するように造られた存在であるので
 す。ですから、御言葉を聴かなくてはなりません。 御言葉を聴かなくて
 は、神を正しく讃美することはできないからです。御言葉を聴く、それは
 神の創造の業を尋ね、その意図と目的を知り、心からほめたたえるた
 めであるのです。

     

  創世記は、人は、神にかたどって造られたと語っている。このことで、
 もう一つ大切なことは、創造者なる神の語りかけを聴き、それに喜んで
 応答し服従する、神の自由な交わりの相手として私どもが、造られたと
 いうことです。神との交わりの中を自覚的に生きるように人間は、招か
 れ、そして創造者なる神の呼びかけに答えて、讃美の応答をする、 そ
 れが本来の姿であるということです。その時、「主を讃美するために民
 は創造された」
(詩編102篇19) という神の創造の目的が、私どもに
 実現することになります。神を讃美し、礼拝すること。 これが神に造ら
 れた人間の本来の姿となるのです。

     

   「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れら
 れた。人はこうして生きる者となった」
(創世記 2章7)

  創世記は、私ども人間を、もともと土の塵であったと言い、命を吹き入
 れられて、生きる者となったと語ります。しかし、それはかつてそうであ
 った、という起源のことだけではありません。私どもは、神に背き、滅び
 へと向かっている。 それゆえに、主イエスはこう語られたとヨハネ福音
 書は伝えています。「イエスは、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊
 を受けなさい。』」
(ヨハネ 20章22)

  聖霊とは、神の交わりから離れて罪の力に捕えられて、死へと向かっ
 ている私どもを、再び命の源である神との交わりに生き帰らせる息吹で
 あるのです。

  「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわた
 したちに豊かに注いでくださいました。 こうしてわたしたちは、キリスト
 の恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたの
 です」
(テトス 3章5以下)。私ども一人ひとりがこの神によって捕えられ
 ているからこそ、神は私どもに命の風を送り、疲れ果てた者を新しく生
 まれ変わらせようと、聖霊を送ってくださるのです。

  そして教会も、聖霊によって、誕生したことをペンテコステの出来事は
 教えているのです。

  教会は、十字架と復活の福音を絶えず「新しい言葉」で
(マルコ 16
 章17)
語り続けるために建てられた、救いをもたらす地上の唯一の場
 所です。ですから、贖われた神の民は、絶えず新しい言葉で語られる
 神の言葉を聴き続けなくてはならないのです。

     

  ある神学者が、旧約聖書に記されている臨在の幕屋について、次の
 ように記していました。もともとの聖書の言葉では、臨在の幕屋は、「オ
 ーヘール・モーエーズ」といい、「オーヘール」はテント。 「モーエーズ」
 は、時を定めて会うという意味があるといいます。 つまり、時刻を定め
 て神と出会う天幕という意味があるというのです。

  出エジプト 33章には、こう記されています。
  「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、
 主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民
 は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。 主は人が
 友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

  モーセが臨在の幕屋に入ると、そこで神は、モーセと会われ、御言
 葉を語られます。このお方が、私どもに礼拝を求めておられるという
 感謝すべきことがヨハネ 4章23以下に記されています。 「まことの
 礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今
 がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておら
 れるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理を
 もって礼拝しなければならない。」

     

   神は、創造の一日目に光を造られ、二日目に海と陸を造られ、・・・
 七日目に、造ることを休まれ、 ご自分の造られたものを祝福すること
 に一日をきちんと割いておられることを、創世記は伝えています。こう
 いうお方が私どもと会おうとされておられるのです。 ですから、私ども
 も、主の日を神の礼拝のためにきちんと心を整えて、備えることが大
 切となるのです。

  神は、私ども人間を造られてすぐに、祝福をしてくださったと創世記
 は伝えています。ここに神の御心があります。私どもは、身近な者が、
 入学、就職、結婚した時に、祝福をします。祝福というのは、相手が
 望ましい状況になったときに、一緒に喜ぶということです。 そして、もう
 一つ大切なことは、望ましい状況を獲得した、その後の可能性が開か
 れていくことを期待し、祈り願うこと、それも祝福であるということです。
 神の祝福、それは私ども人間が造られたことを喜んでくださり、 そして
 これから この可能性に一人ひとりが与えられた賜物をもって生きるこ
 とを願っておられるということなのです。

   神から離れた地上に生きる私どもに、この祝福は、礼拝の最後に
 与えられます。 そしてこの恵みを受けて、与えられた場所へ派遣さ
 れ、そこにおいて粘り強く生きていくことへと 押押し出されていくので
 す。

     

  神の祝福。それは、私は、あなたの存在を喜んでいる、という祝福で
 す。 そして、これからの歩みが、「あなたも、キリストによって贖われた
 のだ、救われたのだ、 だから本来の姿を取り戻して、生きて御覧なさ
 い」 という祝福でもあるのです。 ですから、私どもは、神の眼差しに見
 守られている幸いを知って、歩みだすことができるのです。

     

  「こうして、時が満ちるに及んで、救いの御業が完成され、あらゆるも
 のが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。 天にあるもの
 も地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」
(エフェソ
  11章10)

  神の民は、聖霊が注がれることによって誕生したキリストの体なる教
 会に、一つになるために、招かれています。ここで、神が共にいてくだ
 さるということが起り、神の言葉が語られ、その恵みに応える感謝と讃
 美が、私どもによってなされるのです。主イエスの十字架の血による神
 との和解によって、神との交わりの中に生きることが、教会の礼拝にお
 いて、ゆるされているのです。
  「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」
(ネヘミヤ記 8章
  10)



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