「牧者の手紙」 (徳田 宣義牧師) 2006年8月13日 月報 第446号より 『ハイデルベルク信仰問答』について@ 真実の慰めに生きるために 一 1998年に翻訳され出版されたルドルフ・ボーレン著『天水桶の深 みにて―こころ病む者と共に生きて―』 という書物があります。 著者 は、『説教学T・U』 『聖霊論的思考と実践』 などによってよく知られ た神学者・説教者です。 『天水桶の深みにて』 という書物について訳者は、ある書物でこうい うことを記していました。 著者ボーレン教授の 「愛する妻がこころの病にかかり、 15年苦し んで、遂に自分で命を絶ちました。 その傍らにあって自分もまた病む ほどに労苦したボーレン先生が、その後 15年間祈り、聖書を読み直 し、他のキリスト者の言葉に耳を傾け、何が真実の慰めであるのか、 改めて語り出した、このすぐれた神学者の信仰と生活が凝縮して語ら れている名著です。 これを読んで私どもが驚くのは、この優れた神学 者が改めて提案している心の癒しの道が、ハイデルベルク信仰問答を 暗記しようということであるということです。そのようにして、教理を学び なおし、言ってみれば教理を生きることを始めようと訴えているのです。 ボーレン教授は、 自分の妻を捉えた重い心の病は、深く現代社会に 食い込んでいると見ておられます。・・・改めてキリストの恵みの支配の もとに立ち帰らないとどうしようもないのです。」 二 家庭で、職場で、学校で、この世の人間関係によって、体も、心も疲 れ果ててしまう私どもです。 成功と失敗というはざまで生きながら、他 人の評価に不安を抱えて生きています。不確かなこの地上にあって、 思いがけない不幸に出会い健康を崩すこと、心に傷を負うこと、家族 を失うことを恐れながら、私どもは必死になって生きているのです。 ですから、教会は、造り主を忘れてしまったこの地上へ向けて、福音 を発し続けています。私どもの目に見える、そして感じることのできる 現実に優る、神の救いの現実があることを、指し示し続けているので す。神から離れてしまった私ども人間は、「改めてキリストの恵みの支 配のもとに立ち帰らないとどうしようもない」からです。 三 ボーレン教授が、魂が慰められていく道として、ハイデルベルク信仰 問答を暗記しようと語っておられる。このことを読んで、私は、なるほど と思いました。 なぜならば、私どもには、一人で立ちすくんでしまうよう な人生の危機へ追い詰められることがあるからです。少しもよくなって いかない苦難の中で、神の恵みは自分を素通りしてしまっているので はないかという疑いに捕えられてしまうからです。日増しに弱くなってい く自分の体に、不安を覚えるからです。 どれほど心配し看病してもよく なっていかない家族に悲しい思いがするからです。そのような中で、私 どもが苦しんでつぶやく、不平をもらす、弱音を吐く、そのところで押し つぶされないために、今を生きている自分をも巻き込んでいる神の恵 みをしっかりと身につけることができるようになる、 その道をボーレン 教授は、ハイデルベルク信仰問答を体得することに見出し、 そこにこ そ新しい魂の癒しへの歩みがはじまっていくことを示しておられたから です。 主イエス・キリストの救いを告げる言葉によって、自分を覆う救いの 輪郭を捉えることができるようになる。自分のつぶやく声よりもはやく、 思わず自分の言葉として信仰の言葉が口をついて出てくるようになる までハイデルベルク信仰問答が身についていく。祈りが身についてい く。自分の全存在をもって、神を深く知るようになっていく。ハイデルベ ルク信仰問答は、私どもの信仰が、神の恵みへ向けて成熟していく、 その確かな手引きとなり得るのです。 四 聖書の語る救い、教会が拠って立つ救いの教えを確信をもって受け 入れ、実際にそこに生きることができるために、このような真理を獲得 するために、代々の教会はさまざまな努力を重ねてまいりました。そこ から生まれたのが、各信仰問答の言葉です。その中の一つハイデル ベルク信仰問答は、世界で最も広く読まれてきた信仰問答です。教理 的な骨格を持ち、福音の真理を的確に、信仰の言葉として言い表して います。ですからこういうことが言い得ると思います。それはキリストを 信じることは、信仰問答の言葉をよく知っていること、そしてそこだけ に留まらず、自分のものにしてしまっている、このように表現することも また、可能であるように思うのです。 五 古代教会における信仰教育は、紙が普及していませんので口頭で 行われていました。言ってみたら、信仰を口移しに教えるということが 行われていたのです。 その時に用いられていたのは、使徒信条など の信仰告白でした。特に使徒信条は、もともと洗礼のために整えられ ていったという歴史を持っています。 ですから信仰告白の文章は、何 よりも洗礼を志願する人がこれに同意し、 福音の真理を受け入れる ために用意され、整えられたものであったのです。 教会の信仰告白 の言葉によって、信仰の解説がなされたのです。 今日の教会では、洗礼を受けておられない方のことを求道者と呼び ます。教会は、この求道者の方が、信仰へ導かれることを切に願い、 その努力をいたします。私どもの教会の言葉に直しますなら、Q&Aと いわれる会が、その役割を担っています。 求道者の方には、信仰の 決意に至るまでに、ためらいが少なからずあります。ですから、教える 者も、切実な思いを込めて、福音の真理を、教会の言葉として語るた めに、使徒信条の解説を中心とするハイデルベルク信仰問答が用い られることが少なくないのです。 六 申命記 6章4節以下にこう記されています。 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心 を尽くし、魂を尽くし、力を尽して、あなたの神、主を愛しなさい。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し 教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きている ときも、これを語り聞かせなさい。」 宗教改革者ルターは、信仰告白、主の祈り、十戒について、次のよう に語っています。 「私は、ただ言葉を早口に唱えまくるというようなこと をするのではなく、個々の言葉が何を言おうとしているかを、よく考える のである。なぜならば、御言葉は、申命記 6章7節が言うように、われ われが肝に銘じて、自分のものにし、それに習熟するためにこそ、神 から与えられたものだからである。この日ごとの修練なくしては、いわ ば、われわれのこころはさびついてしまい、自分で自分をだめにしてし まうことになるのである。」 ボーレン教授はルターのこの言葉を受け、こう記していました。「その ような習練こそ、近づきつつある神の国に向かう回帰(悔い改め)を実 践するものだからである。福音の言葉、我々にとって外国語のように 異質であったその言葉が、われわれのこころの言葉になるのである。 古いアダムが、その間にも、いつも、あらゆる馬鹿げたことを、おしゃ べりを続けたとしても、そうなのである。ここでいう回帰とは、向きを変 えて自分自身から離れることである。向きを変えて真実の自己にほか ならぬキリストの方に赴くことである。」 信仰は学びうる、このことが示されている思いがいたします。信仰 は、 古代教会から、そして今日に至るまでそうであるように、信仰問 答の言葉を口で真似てみることによって、外国語を学ぶように体得し ていくことになるのです。 七 ハイデルベルク信仰問答が記されました 16世紀以来、多くの者 たちが、この信仰問答をなぞるようにして、信仰へと導かれていきまし た。そして天に本国があるという約束の下、この地上での旅を終えて いったのです。 この天へと向かう旅の行列の最後尾に、私どもも、加 わりたいと思います。 まだこの地上が知らない神の恵みが詰め込ま れているハイデルベルク信仰問答から、 真実の、そしてただ一つの 慰めを知って、 幸いな救われたキリスト者としての養いを受けたいと 思うのです。 次回は、ハイデルベルク信仰問答の構成を確認し、その後、実際に 学びを共に重ねてまいりたいと思います。Q&Aでは、この学びを一 足早くはじめています。お祈りください。 (『ハイデルベルク信仰問答』は、新教出版社から出版されています。) 「牧者の手紙」のリストに戻る |
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