「牧者の手紙」 
(徳田 宣義牧師)

               
2006年10月8日 月報 第448号より

 『ハイデルベルク信仰問答 ― 第一主日 ― 』


     
  問1
  「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。

  この言葉によって、ハイデルベルク信仰問答は始まります。ここ
 で語られています 「慰め」 が、この 信仰問答を貫く主題 となって
 います。


  家族や友との語らいの中で 自分の心を重たくする悩みを確かに
 受け止めてもらえた時、 私どもの心は慰めを覚えます。 映画を見
 たり、音楽を聴いたり、本を読んだり、そういう中で、自分の心をな
 ぞるような、あるいは自分の心を映し出すような言葉や音楽に出会
 う時、慰められるような思いがいたします。 そしてそうやって、自分
 なりの心の慰め方が、日々の生活を繰り返しながら、私どもの体と
 心の習慣となっていくこととなるのでしょう。

   しかし、ここで私どもに問うてまいります信仰問答は、 「生きるに
 しても、死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」 ということ
 です。

  生きている間だけの慰めというのは、いくらでもあることでしょう。
 しかし、ここでの問いは、生きている間のことだけではありません。
 生きている間も、死を前にしても、 なおそこで慰められるただ一つ
 の慰めとは、なんですか。 あなたはそれを知っていますか、という
 ことです。

   どのような中にあろうとも 本当の慰めというのは、一時的な気休
 めとは違います。 現実から逃避することでもありません。 気を紛ら
 わせるものとは違うのです。ですから、私どもは、ここで語られてい
 る「死ぬにも」という言葉を無視することはできなくなってまいります。
 ここで 私どもが問われています 大切なことは、死に直面して なお、
 あなたには、真実の慰めがありますか、ということなのです。

     

  
自分の力によって、自分の描く人生の目標に向かうということは、
 強い意志があるなら、あるところまでは実現できるでしょう。 そうい
 う意味で、健康でいれば、ある程度自分の生活、仕事、生き方とい
 うのは、100%とはいかないまでも、願ったところへ近づけることが
 できるでしょう。 しかし、私どもは、自分の死について、自分の願い
 どおりにすることはできません。 瀕死の重体から、いつでも自由に
 健康になることはできない。 死んだところから、もう一度人生をやり
 直す力も持っていないのです。 それはなぜか。 簡単なことです。
 私どもは死を超える力を持っていないからです。ですから、死に心
 も体も支配されないために、 死を超える力を知る必要があるので
 す。 だからこそ、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰め
 は何ですか」 とハイデルベルク信仰問答は問うてくるのです。

     

  この問いにハイデルベルク信仰問答は、こう答えます。

   「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬ
 にも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
  この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に
 償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
   また、天にいますわたしの父の御旨(みむね) でなければ、髪の
 毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。
 そしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今か
 ら後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしく
 なるように、整えてもくださるのです」。


  私どもの存在というのは、それぞれ自分自身のものなのではなく、
 救い主イエス・キリストのものである、ということが記されています。
 これこそが、ただ一つの慰めであると信仰問答は語ります。

     

   私ども人間の生きる現実には、さまざまな苦しみと悩みが広がっ
 ています。 その理由を創世記は、最初の人アダムが神に背き、神
 に対して罪を犯した結果であると告げています。 創世記三章17節
 以下です。

   「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。
 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を
 得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。
 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。
 土に返るときまで。 お前がそこから取られた土に。 塵にすぎない
 お前は塵に返る。」

  労働がなぜ苦しいのか。 生きることになぜ厳しさがつきまとうの
 か。なぜ死ななくてはならないのか。 それは神に背く罪のせいだと
 聖書は語ります。

  しかし、Tヨハネ二章1には、こうあります。

   「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を
 犯さないようになるためです。 たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁
 護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」

   主イエスは、罪を犯した私どもの弁護者であると聖書は語ります。
 この主イエスというお方が、「ご自分の尊い血をもって、わたしのす
 べての罪を完全に償い、 悪魔のあらゆる力からわたしを解放して」
 くださる。 そのような仕方で主イエスは、私どもの身代わりとして、
 十字架におかかりになってくださった。 私どもの罪の値のすべてを
 支払ってくださった。 そうやって主イエスは、私どもの傍らに立つ弁
 護者となって、私どもを罪から救い出そうとしてくださるのです。です
 から、主イエスの命によって救い出される。それは、私どもの生き方
 を根底から揺るがすことになるはずです。 生き方を変えていくことと
 なるはずです。 このお方の為に、生きようとさせてくださるはずなの
 です。そのことが、問1の答えの最後にこう記されています。

   「主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、
 わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできる
 ように、してくださるのであります。」

     

  以上のように問1は、慰めについて教えています。問2は、この慰
 めの中に、生きて、そして死ぬことができるために私どもが、知って
 いなくてはならないことを記しています。

  問2
  「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはど
  れだけのことを知る必要がありますか。」

  答え
  「三つのことです。
   第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。
   第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、
   第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、という
   ことです。」

  以上のように問1は、慰めについて教えています。問2は、この慰
 この問2と答えは、この信仰問答がこれからどのように展開していく
 かを私どもに示す役割を果たしています。

     

  何か特別な能力を体得しようとする場合、例えば学問でも、楽器
 でも、 芸術でも、スポーツでも、 仕事でも、習い事でもそうですが、
 これらにおいて共通して大切なことは、基本的な技術や知識、ある
 いは基礎体力というものが必要となるということです。 この基本を
 おろそかに するところでは、残念ながら たいした成果は期待でき
 ません。

  信仰もまた同じです。筋道をしっかりと踏まえながら、信仰の基礎
 を養うこと、 それは生きている時にも、 死ぬ時にも本当の慰めに
 なるような信仰を身に付けることへと私どもを導いていきます。 神
 から離れた荒れ野という地上に生きる私どもが、信仰の足腰を強
 めること、それこそが神に救われた神の民としての私どもの歩みを、
 必ず健やかにし、確かなものとするのです。

  生きるにも死ぬにも、私どものただ一つの慰め、それは 「わたし
 がわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わた
 しの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

  ここに私どもの慰めがあるのです。


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