「牧者の手紙」 (徳田 宣義牧師) 2006年11月12日 月報 第449号より 『ハイデルベルク信仰問答 ― 第二主日 ― 』 一 問3 「何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか。」 答え 「神の律法によってです。」 問3の 「悲惨さ」 という言葉を、一つ古い翻訳では、「惨め」 とし ています。 私どもが惨めな思いをする、それはどういう時でしょうか。 いろい ろあると思います。 幼稚園の劇で、よい役がもらえなかった。学校 の成績が悪く叱られた。 失敗をして、大事な仕事を外された。ある いは主婦の方であれば腹が立つことがあって、 家族に八つ当たり をしてしまった。 私どもは、例えば こういうつらいことを思い出して は、 惨めな気持ちに捕らえられることがあると思うのです。 そして、 そのような私どもに、今日の信仰問答は、「何によって、あなたは自 分の悲惨さに気づきますか。」 と問うてまいります。 二 先日、教会から休暇をいただき、久しぶりに日曜日、他の教会の 礼拝に出席することができました。その日は、教会学校の子供たち との合同礼拝でした。説教者の先生は、子供たちにも、分かりやす い口調で語りかけておられた、その姿がとても印象に残っています。 この方は、「惨め」 ということについて、このようにお話くださった。 「惨め、という言葉は、もともと 『見じ目』 から来ていると言われま す。『見ていられない』 という意味です。 可哀想で、情けなくて、みっ ともなくて、見ていられない。それが 『惨め』 です。」 そして神さまは、 私どもをこのようにご覧になられているといわれたのです。 三 私どもが、自分自身を惨めに思う。それはイメージしていた姿と現 実の自分の姿が、かけ離れてしまっているからです。 例えば、部活 でレギュラーを外される。仕事を外される。 自分の願っていた 本来 のあるべき姿になっていない。 だから今の姿を見ていられない。情 けなくて、自分が可哀想で、見ていられない。そうやって惨めな気持 ちになるのです。 神から見て、私どもの姿は、神が願われた本来の姿になっていな い。 だから可哀想で、情けなくて、みっともなくて、見ていられない。 それが私どもの悲惨さ、惨めさです。 では私ども人間の悲惨さ、それはどこに由来しているのでしょうか。 この原因を 突き止めない限り、私どもの惨めさは、私どもの存在を 蝕み続けます。 病気の原因がわからなければ、見当外れの治療し か期待できません。 病は容赦なく続いていく、 これは罪においても 同様なのです。 四 しかし自分の姿が悲惨であるとか、惨めであるといわれて、「そん なことは、わざわざ人からいわれたくない」 と思われる方もあるかも しれません。 自分のことは自分が一番よく知っている、その言い分 もよくわかります。しかし、本当にそう言い切ってしまってよいでしょう か。私どもは、案外自分のことがわかっていないからです。 私どもは、 自分の後ろ姿を見ることはできない。表情や、歩く姿だっていつも見 ているわけにはいかない。自分の癖も指摘されるまでは気がつかな いことがある。自分の声も、テープなどで聞いてみると 想像していた もの とは 随分違って聞こえる。 こうやって数え上げたら きりがない、 それほどに 私どもは、自分について知らないことがある のではない でしょうか。 私はサッカーやボクシングが好きなのですが、これらのスポーツに よくいわれますことは、 地元が有利ということです。 地元の応援の力 強さも ありますが、試合会場に属しているチームや 選手に有利な判 定がなされることがしばしばあるからです。 審判は 選手たちと全くの 他人です。 特別の訓練を受けています。 しかし、そういう人でも際ど いところの判断となると どうしても、空気に飲まれてしまう のでしょう か、地元のチーム、地元の選手に無意識のうちに 有利な判定をして しまうことが少なくない。 全くの他人においても そのようなことが起こ り得る。 そうであれば、私どもは、自分自身については、随分と えこ ひいきした判断をするのは、当たり前なのではないでしょうか。 自分に甘い私どもが、自分の悲惨さを、全く客観的に見つめること などできないでしょう。確かな診断のないところに有効な解決策は 存 在しません。 ですから、私どもは、自分の姿を 「神の律法」 によって 教えてもらわなくてはならないのです。 五 問4 「神の律法は、わたしたちに何を求めていますか。」 答え 「それについてキリストは、マタイによる福音書22章で次のように 要約して教えておられます。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽し て、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の 掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛し なさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 神がこのように生きてご覧といわれた律法の基本は十戒です。で すから、律法は、十戒が展開したものであると理解してよいでしょう。 主イエスは、問4の答えにありますように律法を2つに要約されまし た。神の律法は、当然私どもに完全に守られることを要求してまいり ます。ですから、主イエスによって、たった2つに要約された律法です けれども、果たして、これを私どもは守ることができるのでしょうか。 問5 「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。」 答え 「できません。 なぜなら、 わたしは 神と自分の隣人を憎む方へと 心が傾いているからです。」 「心が傾いている。」 これは、例えば、引力のことを考えてみますと わかりやすいかもしれません。 ピンポン玉を傾いた板にのせますと、 板にそってコロコロと転がり落ちていきます。これは 何度やっても同 じ結果になります。 私どもの心も やはりこれと 同じ法則にある。 神 から離れていく。自分の隣人を憎んでしまう。そういう法則に心がどう しても傾いてしまっている。 それは 何度やっても同じ結果に行き着く のです。 そしてここに、私どもの悲惨さ、惨めさの原因があります。 律法は このことを私どもに教えるのです。 六 罪には、的外れという意味があります。神との関係が的外れになっ ている、それが人間の罪です。 私どもの悲惨は、神との関係が正常 でないところから生じてまいります。 私どもが 自分自身に、世界に、 悲惨さを感じる。 それらはすべて、本来なら神と人を愛するように造 られた人間が、神に背いて、神も人も憎むように傾いてしまっている 罪に由来しています。世界の悲惨は、このような私どもの当然の結果 です。 律法が、この愛に生ききれない私どもの姿を、傾いてしまって いる私どもの姿を、浮き彫りにする役目を果たすのです。 ハイデルベルク信仰問答には、厳しさがあります。 それは 確かな ことです。 しかし、私どもが何度も立ち帰って思い起こさなくてはなら ないのは、私どものただ一つの慰めの中で、この厳しさもまた語られ ているということです。 私どもを 慰めのほとりに 導くためにこの信仰 問答は つくられています。 信仰問答が、厳しく私どもの罪を問う。 そ れは 人間の惨めさを知ることによってはじめて、罪の赦しであるキリ ストの恵みが分るためなのです。 罪から救われる、その恵みを知る には、その罪がどれほどに深く 私どもを蝕んでいるか を知る必要が あるのです。 七 神は私どもをもう見ていられないとご覧になられ、主イエスをおつか わしくださいました。 そして、主イエスを、私どもの代わりに、もう見て いられないようなお姿にして 十字架におつけになられました。 ここに 私どもへの神の愛があります。そして律法は、私どもに律法を果たす ことのできないあなたの代わりが、十字架の主イエスのお姿だ と指し 示しているのです。 水が与えられずに、ほったらかしにされている植物の姿は 惨めな ものです。 「神はご自分にかたどって人を創造された」 と創世記が伝 えていますように、神に応答するよう 創造された人間が、神の愛を知 らずに生きている、それもまた、見ていられないような 悲しさがあると 神はご覧になられています。 植物に水が 必要なように、私どもには、 どうしても神の愛が必要なのです。 救いの筋道を示す ハイデルベルク信仰問答を辿りながら、キリスト の恵みが 私どものためであること を知る幸いへと導かれたいと願い ます。 「牧者の手紙」のリストに戻る |
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