「牧者の手紙」 
(徳田 宣義牧師)

               
2006年12月10日 月報 第450号より

 『ハイデルベルク信仰問答 ― 第三主日 ― 』


     
  問6
  「それでは、神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさ
  ったのですか。」

   前回、人は神を愛し、人を愛するという神の律法を完全に行え
 ないことを学びました。 なぜなら人は生まれつき、神に背き、人を
 憎む方へと心が傾いているからです。 生まれつきとなりますと、私
 どもだけでは、もうどうにもなりません。 そういたしますと、 それは
 もともと神が、人間をそのように歪んだものとしてお造りになられた
 からではないか。 だから どこか中途半端な信仰しか持てないし、
 隣人のことも考えられないのだ、そう思わずにおれなくなるのです。
 しかし、そうやって 開き直ろうとする私どもに 信仰問答はこう答え
 ます。

     
  
答え
  「いいえ。 むしろ神は人を良いものに、またご自分にかたどって、
  すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。
    それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、
  永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美す
  るためでした。」

  問6 の答えの前半は 創世記一章31節の 「神はお造りになった
 すべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。」 と、
 創世記一章27節 の 「神はご自分にかたどって創造された。」 を
 基としています。 もともと 私どもは 神にかたどって造られ、神を愛
 し、人を愛する良い存在として造られていたということです。  この
 ことを 続く信仰問答は次のように説明しています。

  「まことの義と聖において創造なさいました。」

  「義」 と「聖」 という言葉は、本来神に対して用いられるものです。
 私どもが、神にかたどられ造られたということは、神に対応するよう
 に 造られたということです。 ですから、本来の私どもの姿は、神が
 そうであるように 「まことの義と聖において」 生きることに なるはず
 だったのです。

     


   信仰問答は、この 「義」と 「聖」について、さらに言い換えて説明
 をします。まず 「義」 について、こう記します。「それは人が 自らの
 造り主なる神を正しく知り、心から愛し、」。

  神は義なる方であるように、私どもも、それに似せて「正しいもの」
 として創造されました。この正しさは、神を 正しく知る正しさのことで
 す。「正しく知る」 というのは、単に知識があることではありません。
 聖書の中で 「知る」 という言葉が用いられる場合は、むしろ 「交わ
 り」 という意味が強いからです。 ある神学者は、「聖書が 『知る』 と
 いう場合、その人を愛しているということを意味するのだ」 と説明し
 ています。ですから、信仰問答は、神を正しく知ることは、神を心か
 ら愛する ようになることだというのです。

  次に 「聖」 という言葉を確認しましょう。 私どもは、聖なる者という
 ことを考えます時、知恵において、人格において 非の打ち所のない
 人をイメージすることが少なからずあることでしょう。 しかし、聖書の
 語る 「聖」 という言葉には、分離する、区別する という意味がありま
 す。 つまりこの世から分離されて、区別されて、神のものとされてい
 るということです。ですから、「聖」 というのは、神のものとされている
 か否か ということにあるのです。このことを 信仰問答は 次のように
 表現しています。

  「永遠の幸いのうちを 神と共に生き、そうして 神をほめ歌い 讃美
 するためでした。」

  神との交わりの中にある。神のものとされている。それは神をほめ
 歌い讃美するところに 生きる私どもの姿において、現れるということ
 なのです。

     

   私どもは、神から造られた。しかも神にかたどられて、義と聖にお
 いて、極めてよいものとして造られた と信仰問答は告げています。
 しかし、ここで改めて私どもは、もう一度、問6の「それでは、神は人
 をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか」という言葉
 を思い起こさざるをえません。私どもを歪ませる正体、それはどこか
 ら来たというのでしょうか。

     問7
  「それでは、人のこのような腐敗した性質は、何に由来するのです
  か。」

     
  答え
  「わたしたちの始祖アダムと エバの、楽園における堕落と 不従順
  からです。
   それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆、
  罪のうちにはらまれて生まれてくるのです。」

   私どもと 神との関係が歪んでしまった。私ども自身が、そして隣人
 との関係が歪んでしまった。その原因が 「アダムと エバの楽園に お
 ける堕落と不従順から」 きている。だから罪のうちに私どもは生まれ
 てくるのだというのです。

  私どもの歪み、その原因が創世記のアダムと エバにあるといわれ
 ても私どもは、戸惑ってしまいます。何か遠い話のようにしか 思えな
 いからです。

     

  しかし、ここで私どもは、聖書の語る罪ということについて、まず確
 認する必要があるでしょう。 聖書の語る罪は、法律を 破ることでも、
 不道徳な生き方をしていることでもないからです。  私どもをお造り
 くださった神に不従順なこと、それが罪なのです。

  問7 の答えが示す聖書箇所は詩篇五一編7です。
 「わたしは咎のうちに産み落とされ、母が わたしを身ごもったときも、
 わたしは罪のうちにあったのです。」

  詩篇が語っていますように罪というのは、何かをした、しない、とい
 う行為ではなく、私どもの存在と 結びついてしまっている、それほど
 どうしようもないものだということです。 罪というのは、「的外れ」 「正
 しい道を迷いでる」 という意味があります。 ですから、神との関係が
  的外れになっている。 神との関係において 正しい道から迷いでて
 いる。 それが私どもという存在であり、それが罪であると聖書は語
 るのです。

     

   私どもの住む世界の悲惨、また自分自身の悲惨、どうして もと
 もと 優れたものとして お造り下さったのに、こうなってしまっている
 のか。 ある人はこう語ります。
  
  それは、神が七日目に創造の業を離れ、安息されたこと。創造の
 業には 切れ目があるということと関係している。 もし切れ目がなけ
 れば、私ども人間は自由も感情もないロボットになってしまう。神は、
 ただ人間を自分のものとしようとはされない。 それは、真実の愛で
 はないからだ。人間は、神のために働くロボットではない。よいもの
 として 人間を造って、神が休まれた。そこで人間は自由を、主体性
 を、自立を、与えられた。 神から自由をプレゼント されたのだ と語
 るのです。

  それは神に背くこともできる自由です。 しかし、それが神の願いで
 あったはずはありません。 神を愛することもできる、そして背くことも
 できる、そういう自由。 そこで神は 神と共に生きる道を 選び取って
 もらいたいと願われた物語、それが 創世記のエデンの園の箇所で
 語られているのです。

  ある説教者は、こう語ります。「食べようと思えば食べられる。でも
 食べない。 これは 人間のすることです。 できるけれども しないで
 いられる、ということの中に、人間としての本来の姿があるのです。
  しかしアダムとエバにはそれができなかった。 ・・・ その結果、彼ら
 は神さまを恐れるようになりました。 同時にアダムは 責任をエバに
 なすりつけて、お互いの関係が壊れたのです。それまで当然の生き
 方だった、神と人とを愛することが、その時からできなくなってしまっ
 たのです。」

     

   創世記の物語は、人間にとって、造られたものとして限界を知る
 ことを語ります。 限界がない ということは、神のように振舞うという
 ことです。それはどういうことになるのでしょうか。

  道を走る車に 制限速度がなかったら、どんなに恐ろしいことかと
 思います。人間が、限界を超えてどこまでも経済を優先する、開発
 を優先する、それは家族を壊し、自分を壊し、そして 然を壊すよう
 な悲惨が作りだされてしまうことが少なくないのです。

  最近毎週のように、フィギュアスケートの国際大会をテレビで見る
 ことができます。 限られたリンク。様々な規定。 短い持ち時間。 し
 かし、優れた選手は、リンクを一杯に使いながら、 与えられた時間
 の中で、自在に演技をするのです。 限界がある。 しかしだからこそ
 形をもち、 秩序を持ち、 美しさを持ち、 力をもつのです。人間の力
 にも、命にも限界がある。 しかしだからこそ、 与えられた時を一杯
 に使って生きていくことができるのです。

     
     
問8
   「それでは、どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾い
   ているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」

     答え
   「そうです。わたしたちが神の霊によって再生されされない
    かぎりは。」

  信仰問答は、「楽園におけるアダムとエバの堕落の出来事」 を語
 りました。 そして全くの絶望を語った。 しかし ただ一つ希望が残さ
 れている というのです。それは 「神の霊によって再生される」。そし
 て 「主と同じ姿に造り変えられていきます」(Uコリント三章18) と
  いう導きがあるのだということです。

  聖書は、単なる昔話などではありません。 悲惨の中に生きる私ど
 もに、人間回復の希望を告げているのです。 自分だけの人生では、
 私どもの人生は完成しません。 だからこそ神に立ち帰り、神とあっ
 て生きる幸いがあることを 聖書は私どもに 向かって語るのです。



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