「牧者の手紙」 (徳田 宣義牧師) 2007年10月14日 月報 第459号より 『ハイデルベルク信仰問答 ― 第九主日 ― 』 【父なる神について】 六月に私どもの教会に加藤常昭先生が来てくださり、伝道礼拝 説教と講演会を してくださいました。 多くの方から、感銘を受けた こと、是非来年もという声をお聞きいたします。 今年度の伝道礼拝 もまた、私どもの教会にとって、大きな喜びの時となりました。 この伝道礼拝の日、午後の講演会が始まる前に、私は加藤先生 から、現在出席されておられる教会のことを伺いました。加藤先生 は、すでに教会の牧師職を引退されておられますが、しかし今でも 伝道礼拝のご奉仕のために、全国の教会で説教をされておられま す。しかし、何もご奉仕がないときは、東村山教会へ出席をされて おられるとのことでした。 この東村山教会の先生は、加藤先生もかつて教えておられた東 京神学大学の教授でもあられますが、この先生が お書きになられ た とても優れた書物の一つに、芳賀力著『大いなる物語の始まり』 (教文館 2001年)があります。 発行されてすぐのことでしたが、 私もこの本を、大変興味深く読みました。 その一部を、すでに説教 でも引用したことがありますが、とても豊かなイメージを伝える書物 です。この月報をお読みくださっている方々にも、是非手にとって読 んでいただきたい書物です。大きな信仰の養いとなる と思うからで す。 聖書の語るところをイメージ豊かに物語るこの書物の中に、例外 的に少し硬い文章で始まる章があります。 しかし、それだけに今で も、その手触りを私はよく覚えています。そこには、およそ、こういう ことが記されていました。 人間の生命科学は、驚くべき速さで生命の謎に迫ろうとしている。 1952年、二人の学者によって、生命体を決定する重要な要素が どうやら球状タンパク質のアミノ酸配列にあることがわかってきた。 そして2000年6月27日に人間の遺伝情報を解読した概要版が 全世界で同時に公表されるまでの様々な研究について、簡潔に紹 介がなされていきます。しかし、著者は、仮に人間の遺伝子情報が 明らかになり、人間の基本設計図がすべて解明されたとしても、そ れで人間という生命が成立するに至った必然的理由までは決して 説明できないと語ります。なぜ、この仕組みはこうなって、こうならな かったというほとんど偶然としか言いようのない選択を前にして、人 間の自然科学は、その仕組みや因果関係を指摘することはできて も、そうなった理由や 意味、目的までを述べることはできないから です。 そして、著者によって、生命の成り立ちを巡る問いは、宇宙 の成り立ちの議論へと入っていきます。 様々な科学者が宇宙について語る言葉を紹介しつつ、生命につ いて、宇宙について、人間の科学においては、偶然としか定位でき ないところがあると語り、このように言うのです。 「聖書は、それらすべての過程が全能なる神の創造の御業である という見方を提供します。 聖書は科学と競い合う書物ではありませ ん。 創造についての聖書的語りは、実は科学がたどりつく地点の、 常にその先を問題にしているのです。宇宙の背後にあって宇宙その ものを成り立たせる根拠へと向かう。 人間にとって偶然にすぎない ものを、神はご自身の御旨の現れる機会とされる。神がそれを欲し たのであれば、それは神によって選ばれた必然となるのです。」 (一部引用を省略しました。) そして、次のような印象的な言葉が綴られていきます。 「ブルックナーの音楽は、ただの音の集まりではなく、壮大な交響 詩である。 トーマス・マンの小説は、単なる言葉の羅列ではなく、 様々な人間模様を描いた意味のある一つの物語である。そこで私 どもは、そこに表現されている全体の流れ、その意味や 作品の意 図を理解しようと努める。 私どもの置かれたこの宇宙もまた同じで ある。そこにあるのは ただの原子や細胞の寄せ集めではなく、一 つの作品である。それゆえ、より高いレベルにおいて私どもはその 作者の意図を汲み取るようにと促されている。世界は、神の生きた 作品である。宇宙の歴史、生命の歴史は神の書かれた大いなる交 響詩、大いなる物語の一部であり、それを語り告げるものが聖書で ある。そこにはこのシナリオを書かれた創造者の意図と目的が示さ れている。進化論をむげに退ける必要はない。聖書もまた、創造の 秩序立ったプロセスを示している。 むしろ、大事なことは進化論の 教えることのできない、宇宙と生命についてのより高い情報を知る こと、すなわち世界とその中に満ちるものとは決して偶然に存在す るようになった意味のないものではなく、深い意図と願いを込めて それを造られた方がおられるということを知ることであり、そこに創 造者のよき意志を認めることである。」(一部引用を省略しました。) とてもわかりやすい表現の仕方があるのだと思いました。確かに そうなのです。私どもは、例えば、絵を見るときに、この絵には、ど のような色が何パーセント使われて、これらの絵の具の成分は な んであって、何度、筆でなぞられたとか。 筆が伝えた力はどれぐら いであったとか、そういうことを分析したりは、しないのです。 古い 絵を鑑定する場合には、画家を特定するために、詳しく調べること は、必要であるかもしれません。 しかし、そのようにして絵が扱わ れるというのは、本来の画家の意図ではないはずです。 画家は、 絵そのものを鑑賞して欲しい。絵が伝えるところを感じ取って欲し い。 そこから透けて見える画家の生き様を 知って欲しいのです。 神による創造はどこから、どのように始まったのか。一体どこから 由来し、どこにそのはじめを持つのか、世界創造の根拠はどこに あるのか。科学的な分析を超えて、神の御心を知ることができる。 それが聖書に記されている。 今回のハイデルベルク信仰問答も また大切な聖書の恵みを、私どもに指し示しているのです。 第九 主日の問いは、次のようなものとなっています。 問26 「『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と唱える時、あなた は何を信じているのですか。」 今回のハイデルベルク信仰問答の箇所より、使徒信条の言葉に 即しての学びが始まります。 分厚い聖書の大切なことを 簡潔に言 い表している、それが使徒信条です。 『 』 の中は、使徒信条の 言葉です。 この使徒信条は、最初に、神が天地の造り主だと語り ます。そして全能であり、父なる神だというのです。これらのことを 問26の答えに聞きながら、ご一緒に 思いを巡らして見ることにい たしましょう。 答え 「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを 永遠の熟慮と摂理によって、今も保ち支配しておられる、わたしたち の主イエス・キリストの 永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わた しの神またわたしの父であられる、ということです。 わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要 なものすべてを、わたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の 谷間へ、いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために 益としてくださることを、信じて疑わないのです。 なぜなら、この方は、全能の神として、そのことがおできになるば かりか、真実な父としてそれを望んでおられるからです。」 古代教会以来 「我は天地の造り主」と神へ信仰の告白をいたしま す時に、「無からの創造」 という表現をするようになりました。ハイデ ルベルク信仰問答も、それは同じです。「無からの創造」、それは神 の創造というのは、いかなる素材も前提としないということです。 私 どもは、素材がなくては、ものを造ることはできません。 どんなに科 学が進んでも、素材なしで、全くの無から、生命を誕生させることは できないのです。ですから、「無からの創造」 という場合、世界創造 の起源は神にのみあるという信仰を言い表していることになります。 そしてそのように始められた歴史の行程を神は「永遠の熟慮と摂 理によって今も保ち支配して」くださるというのです。この神の働き がないと、すべてのものが、無に帰してしまうというのです。空しいも のになってしまうというのです。そして、このことは、次の 「わたした ちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、 わたしの神またわたしの父であられる、ということです」 という箇 所と深く結びついてまいります。 父なる神、これはイエス・キリストの父なる神と言うことです。主イ エスは、「アッバ、父よ」 と、神に祈りをささげてこの地上を歩まれま した。「アッバ」 というのは、幼な子が父親を呼ぶ 「パパ」 とか 「父 ちゃん」 という意味です。ですから、主イエスは、この上ない親密な 祈りを父なる神にささげておられたことがわかります。そして神の御 心に従って、私どもを救うために十字架にいたる生涯を送られまし た。この主イエスによって、主イエスの父なる神を、私どももまた、 父なる神と呼ぶことができるようになりました。天地を造られた全能 の神は、私どもから遠く離れた神ではなく、「父」 と呼ばれるほどの 生きた関係をお与えくださる方であるのです。 神がいらっしゃらなかったら、すべてが存在しませんでした。神の 御心によってのみ、もともとこの世界は造られ、この私どもは造られ ました。しかし、私ども人間は神によって造られたにも関わらず、神 に背いてしまっている。従いきれずにいる。本来ならば、滅ぼされて 当然であったにも関わらず、神は、ご自分がお造りになられたもの に、最後まで責任を負われるのです。 神を忘れ、隣人を傷つけ、自分を傷つけ、神に罪を犯している私 どもの救いは、神の独り子イエス・キリストによって与えられました。 そして、この主イエス・キリストの故に、私どもにも、神を、私の父と 呼び得るほどの関係に生きる道を開いてくださったのです。 この父なる神 と私どもとの正しい関係、そのことを最後に、もう一 度ハイデルベルク信仰問答の言葉によって確認して、第九主日の 学びを終えることといたしましょう。 「この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくだ さること、また、たとえこの涙の谷間へ、いかなる災いを下され たとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信 じて疑わないのです。 なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになる ばかりか、真実な父としてそれを望んでおられるからです。」 【*本日の「牧者の手紙」は、芳賀力著『大いなる物語の始まり』 (教文館 2001年)より、多くの引用をいたしました。】 「牧者の手紙」のリストに戻る |
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