「牧者の手紙」 
(徳田 宣義牧師)

               
2007年11月11日 月報 第460号より

 『ハイデルベルク信仰問答 ― 第十主日 ― 』

 【父なる神について】


     問27
 「神の摂理について、あなたは何を理解していますか。」

  毎月、この月報の原稿を準備するために、そして何より間違った
 ことを書かないために、時間のゆるす限り なるべく本を読むことを
 いたします。例えば、今回のハイデルベルク信仰問答ですと、鍵と
 なります言葉は 「摂理」 といえるでしょうから、そのことが扱われて
 います本を、引っ張りだしては、机に積んで、順番に 読んでいきま
 す。最近 気がついたことですけれども、どうやって原稿を書いたら
 よいのか と困っている思いと比例するように 机の上に、本が積み
 上がってゆくようです。あるいは、私の混乱と同じように、机の上も
 混乱しているともいえるでしょう。 しかし、いずれにしましても、そこ
 で何冊かのよい本と 出会えますと、大きな喜びを手にした思いが
 いたします。 原稿を書き終えることができるだろうという見通しが
 与えられる思いがするのです。

  この 「見通し」 という言葉を広辞苑で引いてみましたところ、いろ
 いろあります中に、こういう説明がありました。 「新しい事態、課題
 状況に当面したとき、試行錯誤的に解決を見出すのでなく、 問題
 の全体的構造を把握して解決を図ること」。

  「全体的構造を把握して解決を図る」。 とてもよい説明だと思い
 ました。このような小さな原稿であっても、「全的的構造を把握」 し
 ながらということには、変わりはないからです。 そして、もっと大き
 なことにも、つまり 私どもの存在についても、生き方についても、
 この世界についても、ということが 同じように言い得ると思うから
 です。

  今回学びます 「摂理」 という言葉は、「神の善い意志」 と説明さ
 れることがあります。神は私どもを善い思いをもって支配しておら
 れるということです。

  体の病がある。心の病がある。虐待された人がいる。悲劇的な
 事故がある。思いがけない不幸に悩んでいる人がある。どうして
 この人が、という優しい人が重く苦しんでいる。ある人は、こういう
 自分たちに起こる悲惨を数えながら、 「なぜ、それが私なのか、
 なぜ、わたしの子どもなのか。なぜ、わたしの父、また母なのか。
 なぜ、私の夫であり、妻であり、友であるのか。・・・問いは限りな
 く続くのである」 と記すのです。

  こういう現実の中で、私どもがつぶやく思い。それは、どうして、
 神は 世界に対して、何もしてくれないのか。 沈黙しておられるの
 か。力がないからなのか。それとも、正しいお方ではないからなの
 か、という思いであるのではないでしょうか。こうして、いたるところ
 からため息が聞こえてくるのです。

   しかし、同時に 私どもが考えなくてはならないのは、ではなぜそ
 れにも関わらず、この世界は、破滅しないのか。なぜ崩れてしまわ
 ないのか。もうとっくに終っていてもよさそうなのに、なぜ、この歴史
 は終らないのか。 そのこともまた、私どもが 問わなくてはならない
 大切な一つのことである と思うのです。

  ですから 「摂理」について、「神の善い意志」 と説明されることは、
 私どもにとって、とても大きな意味があるといえるでしょう。ある神
 学者は「摂理」について「見通し」と考えることをいたします。これも
 またよい理解であると私は思います。神の私どもに対する支配は、
 見通しのないようなものではなく、ちゃんと先まで見通しているとい
 うことであるからです。つまり、「新しい事態、課題状況に当面した
 とき、試行錯誤的に解決を見出すのでなく、問題の全体的構造を
 把握して解決を図ること」であるからです。ですから、神の支配は、
 行き当たりばったりではなく、しっかりとした見通しがあり、小手先
 の問題解決を図るのではなく、私どもの罪の構造を把握して救う
 (解決)ことをされるということです。それも神が私どもへの善き意
 志があるからなのです。

  教会の教えである教理を扱った割と小さな部類に入る、 しかし
 よくまとめられている書物に、伊藤忠彦著 『キリスト教教理入門』
 
(ヨルダン社1987年)があります。ここには、神の摂理(providence)
 
は、「備える」(provide)と語源が同じであり、創世記二二章一四節
 の「主の山に備えあり」に由来する言葉なのだと記されていました。
 私どもは 月報で、神の天地創造について学びましたが、このこと
 は、神は天地を造られただけではなく、造って放っておかれるので
 はなく、被造物のために、つまり私どものために必要な事をちゃん
 と備えてくださるということであるとわかるのです。

  ティリッヒという神学者は、摂理について 「にもかかわらず」という
 表現をいたします。この世界に暗い力がのさばり、暗い力によって
 支配されているように見えることをティリッヒは否定しません。しかし、
 にもかかわらず、神はこの世界を愛の御手によって支配している。
 目に見える悲惨な現実があるにも関わらず、そして 神が支配して
 いないように見える現実があるにも関わらず、神はこの世界を支配
 しておられることを信じる、それが 摂理を理解することだというので
 す。 もう少しいうならば、信仰というのは、この世界を単に明るいも
 のだと楽観しない。むしろ現実主義だといってよい。暗さを認める。
 人間の罪を深く認める。そういう人間の造りだす現実から目をそらす
 ことをしない。しかし、信仰は同時に、この世界は全くの暗黒であり、
 絶望的である、そのように見えるにもかかわらず、神の支配がすみ
 ずみにまであることを信じることであるのです。

  これは主イエスの歩みをみたらよくわかると、私は思います。 この
 月報が発行され、皆さまのお手元に届けられる日の礼拝は、子供た
 ちとの合同礼拝です。 この礼拝では、ゲッセマネの祈りの聖書箇所
 を読む予定でいます。この聖書箇所で、主イエスは、十字架への歩
 みを避けられるものなら、避けたいと切に願っておられます。しかし、
 それにもかかわらず、主イエスは、私ども人間の救いのために、神
 の御心のままになさってくださいと祈られるのです。

   旧約聖書の詩篇の詩人は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ
 わたしをお見捨てになるのか」と記しました。そういう現実に詩人は
 生きていたからです。しかし、このような神の沈黙に対して、なぜで
 すかと問いながらも、しかし、イスラエルの過去に神が行ってくださっ
 た恵みを思い起こすのです。「わたしは主の御業を思い続け、いに
 しえに、あなたのなさった奇跡を思い続けます」。詩篇の中で、詩人
 は、神が臨在し、祈りに答え、導きと救いを与えられたときのイスラ
 エルの出エジプト記の物語を思い起こすのです。 そして、これまで
 そうであった神の導きが自分の上にもあることを確信したのです。

  主イエスは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨
 てになるのか」という叫びを犯罪者のかかるべき十字架の上で、私
 どもの代わりに叫んでくださいました。 神から捨てられる悲惨がど
 れほどの苦しみであるのかを主イエスは、十字架への歩み、そして
 十字架にかかられたその体で味わわれたのです。神の子が、神に
 見捨てられた。救い主が神に見捨てられた。しかしにもかかわらず、
 神は死者の中から 主イエスを復活させ、罪と死の力に勝利された
 神の力を、教会は、知っているのです。「わたしたちを闇の力から
 救い出して、その愛するみ子の支配下に移してくださり」
(コロサイ
 一・一三)
ということが現実となっていることを知っているのです。で
 すから、代々の教会に生きた人々も、目に見える辛い現実がある
 にもかかわらず、生きることができた。信じることが出来たのです。
 そして、桜新町教会につながる私どもも、様々なことがある。 にも
 かからわず、こうして信じることができるのです。

   「神の摂理について、あなたは何を理解していますか。」 という
 問27に対して、信仰問答は、こう答えています。

  答え
   「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべ
 ての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配して
 おられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も、不作の年
 も、食べ物も飲み物も、健康も病も、 富も貧困も、すべてが偶然に
 よることなく、 父親らしい御手によって、 わたしたちにもたらされる
 のです。」

  「主イエスの十字架の光にてらされる時、どうしようもない現実が
 透明となり、その背後にある神の愛がみえてくるのである。それは
 信仰の眼にとってのみ見えるリアリティである。」
(佐藤敏夫『忍耐に
 ついて』日本基督教団出版局)
ということが私どもの信仰者の現実で
 あるのです。神がそう導いてくださるのです。

     問28
  「神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益
 を受けますか。」

  
これは多くの人もまた語ることですが、私どもの祈りは、いつもか
 なうとは限りません。自分の愛する者の、安易な願いを聞いて甘や
 かすことを賢明な人はしないものです。 欲しいものを次々と与える
 ことなどしないのです。神もまたそのようなお方です。 神は長い目
 でみておられる。 私どもの救いについて、そして私どもが、人生の
 本当の目的にそって生きる ということについて、ちゃんと見通しを
 つけておられるのです。

  祈りは、神の御心を尋ねることです。祈りにおいて、神の思われる
 ことを問うてみる。 そうした神との対話のなかで、私どもは神との生
 きた人格的な交わり をもち、神の御心を知って、自分のあり方を知
 らされるところへと導かれて行くことになります。

  ラインホールド・ニーバーという神学者の詩にこういうものがありま
 す。

  「神よ、変え得ないことに対しては、これを安らかな心をもって受け
 入れることを得しめたまえ。
  変えるべきことに対しては勇気をもってこれを変えることを得しめ
 たまえ。しかしそのいずれであるかを見分ける知恵をあたえたまえ」

  安からな心と勇気、それは神の支配を確信しているところに与え
 られます。なぜなら私どもの現実は、問28の信仰問答の答えのと
 おりであるからです。

  答え
   「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、
 将来については、わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どん
 な被造物も、この方の愛からわたしたちを引き離すことはできない
 と確信できるようになる、ということです。
  なぜなら、あらゆる被造物は、この方の御手の中にあるので、御
 心によらないでは、動くことも、動かされることもできないからです。」

  見えるところが、たとえ暗くても、神が、この世界を支配しておられ
 る。私どもは主イエスにおいて、しっかりと神の愛に握り締められて
 いる。だから、にもかかわらず、現実を生きて生ける。勇気をもって、
 神を信じて生きて生けるのです。神が、私どもを救う見通しをたてて
 おられるからです。


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