イースターおめでとうございます。今日は、主イエスの復活の、素晴らしい意味につ
いて考えてみましょう。
主イエスは私達の身代わりとして、私達の罪を全て引き受けて罰を受けてくださいま
した。もし彼が復活しなかったら、罪が全て帳消しになったかどうか、私達は自信を持
てません。
イースターの簡単なイラストは次のようなものです。
悪いことをして刑務所に入れられた人は、罪の償いが終わらないうちは刑務所に閉じ
込められたままだけど、罪の償いが終われば刑務所を出ることができます。それと同じ
で、墓の中に閉じ込められたイエスが復活し、墓から出て来られたということは、イエ
スが罪の支払いを終えられたことを、つまり私達の罪は支払い済みになったことを意味
します。イエスが復活された今、イエスの贖いを信じる人の罪は完全に支払われたので
す。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と言われていますが、罪の支払いが
終わった人には死は何の力も持ちません。黙示録20:6に、「この第一の復活にあず
かる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、何の力も持っ
ていない」と書いてある通りです。キリストを信じる人は永遠の命を持っています。死
から解放されています。
さて天地の造り主、全世界の所有者、私達の命を支えてくださっている方、それは私達
の父なのですが、その方からの贈り物を、受け取ろうかどうかと、まだ迷っている人、
そして既に贈り物を受けた人にも、もう一つの素晴らしい事実をお話ししましょう。
まず先週お話したことに関連して、おさらいしてみます。
イスラエルの家族75人は神の御計画に従ってエジプトに移住しましたが、しばらく
すると、そこで奴隷にされてしまいました。奴隷として苦しめられて彼らは悲鳴を上
げ、神に助けを求めました。そして出エジプトという出来事が起きました。
一体、神は御自分の民を、そんなに苦しめられるものなのでしょうか。奴隷になって
苦しめられると分かっていて御自分の民をエジプトに行かされたのでしょうか。
実は、その通りなのです。そうなると分かっていて彼らをエジプトにやられたので
す。 創世記15:13〜14に次のような記録があります。
「アブラムに仰せがあった。『あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫
は、自分達のものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、400年の間、苦しめら
れよう。』」 ひどいと思われるでしょうか。そんな神は嫌だと思われるでしょうか。
しかし結論を出すのは少し待って下さい。
神は私達1人1人のためにも確かな御計画を持っていて下さいます。そして人類全体
のためにも御計画を持っておられます。その場合、多数の幸福のために少数が苦しむこ
とを許されることがあるのです。例えば歴史上最大の例として、主イエスは人類全部を
救うことを願って、私達のために苦しみを受け、十字架の上で死んで下さいました。イ
エス個人の苦しみが神の御計画であり、人類全体のためでした。
同じようにイスラエルの場合、彼らの苦しみは、人類全体のための苦しみでした。
神はお選びになった人あるいは人達に苦しみを強いられることがあります。 キリス
ト教は御利益宗教ではありません。その逆です。真剣にキリストに従おうとする人達に
は迫害があります。私は気休めは言いません。皆さんも迫害にあいます。
なぜキリストに従う人は迫害にあうのでしょうか。それは、この世は神に敵対する勢
力が支配しているからです。この世のしきたりや慣習は神の民の生き方に反します。そ
してキリストを信じた時、私達は、この世の敵になります。当然明らかな、あるいは目
に見えない攻撃が始まります。それが迫害です。
ですから、私達の苦しみは神の御計画の一部だと言えます。
それでは私達は何時まで苦しまなければならないのでしょうか。
私達の代わりに叫んでくれた人達がいます。黙示録6:10〜11です。
「彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまで裁きを行なわず、地
に住む者に私達の血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らの1人1人に白い衣
が与えられた。そして彼らは、『あなた方と同じしもべ、また兄弟達で、あなた方と同
じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』
と言い渡された。 」
神は、多くの人が救われるのを望んでおられます。少なくとも、これだけの人は救わ
れてほしいと願っておられる数があるのです。それはそうでしょう。愛する独り子を犠
牲にされたのです。無駄死にではやり切れませんから。
ですから私達は他の人達が救われるのを待つ間、苦しみに耐えなければなりません。
しかし、その苦しみは無駄にはなりません。なぜなら「殉教者の血はクリスチャンの
種」という言葉があるように、私達が苦しみに耐えることによって新しいクリスチャン
が生まれます。
ローマ帝国では殉教者が1人出るたびに5人がキリストを信じました。そして度重な
る迫害にもかかわらずクリスチャンは、結局ローマ帝国に勝ちました。
私達の苦しみを、神は御存じです。そして殉教者の1人1人に白い衣が与えられたよ
うに私達も苦しみに耐えて、この世での務めを終えた時、天国に迎えられ、神の義の白
い衣が与えられます。
イスラエルがエジプトで奴隷として苦しんだのは神の御計画でした。私達の救いにつ
ながる神の大きな御計画の一部として彼らは奴隷の生活をしました。そして、神の時が
来た時、彼らは小羊の犠牲の血によって信仰を表し、エジプトから救い出されました。
そして荒野での四十年の訓練を経て約束の地、神がお選びになった土地に入って行きま
した。
さて、そこで神は、イスラエルの民を約束の地に導き入れられるに先立って、一つの
祭を与えられました。いよいよ試練の時が終わり、約束の地、非常に豊かに実りをもた
らす土地に導き入れるための準備として一つの祭を与えられました。
過越しの祭も同じですがイスラエルの祭には、それぞれ大切な意味があります。つま
り祭は、忘れてはいけないことを覚えておくようにするために神が命じられるもので
す。
約束の地に入る前に、約束の地で守るべきこととして与えられた祭。それは初穂の祭
です。次のように命じられました。
「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなた方に与えようとしている地に、あなた
方が入り収穫を刈り入れる時は、収穫の初穂の束を祭司の所に持って来る。祭司は、あ
なた方が受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌
日、それを揺り動かさなければならない。」
これはレビ23:10〜11です。モーセの律法の中の一つで、主イエスの十字架の
1200年くらい前に命じられた掟です。
出エジプトではイスラエルの民は、小羊の犠牲の血によって長男の死という災いを免
れ、奴隷の生活から解放されました。私達も私達の一番上の兄である主イエスの犠牲の
血によって永遠の滅びを免れ、罪の奴隷の生活から解放されました。神の家族に入れら
れたのです。そして今、イスラエルの民は約束の地を前にして神から一つの祭を与えら
れました。それは、どんな祭でしょうか。その祭では安息日の翌日、初穂の束を主の前
に持って行くように命じられています。
この安息日は、どの安息日でしょうか。レビ記23章を続けて読めば分かりますが、
この安息日は過越しの次の安息日です。その翌日の朝、初穂の束を主の前に持って行く
のです。
これを、あの年、主イエスが十字架にかかられた時にあてはめるとどうなるでしょう
か。過越しの次の安息日は、主イエスが十字架にかかられた後に来る最初の安息日で
す。そして、その安息日の翌日に初穂を持ってきなさいと神は言われるのです。安息日
の翌日は、聖書の中で週の初めの日と呼ばれている日です。
主イエスが十字架にかかられた時の過越しの次の安息日の翌日、すなわち週の初めの
日に何が起きたでしょうか。マタイ28:1に、こう書いてあります。「さて安息日が
終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、他のマリヤが墓を見に来
た。」
その時何が起きていたか、ご存知ですね。墓が空でした。イエスが復活されたからで
す。
約束の地に入ったら、定められた日に初穂を神様の所に持ってきなさいと命じられま
した。その日に主イエスは復活されたのです。
これは何を意味しているのでしょうか。
聖書に聞いてみましょう。Tコリン15:20に答えがあります。こう書いてありま
す。
「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
キリストは初穂でした。初穂をささげなさいと言われていた日にキリストは復活され
ました。眠った者の初穂として、復活されたのです。死からの最初の復活でした。
初穂というのは最初の収穫のことです。最初の収穫ということは、続いて収穫がある
ということです。つまり主イエスが初穂として復活されたということは、続いて復活す
る人達がいるということです。続いて復活する人達とは誰のことでしょう。誰がイエス
に続いて復活するのでしょうか。
それはキリストを信じる人です。キリストが、神の小羊として犠牲の血を流して下さ
ったのは自分のためであったと信じる人、その人がキリストが復活されたように復活す
るのです。
その人はサタンの支配下から、キリストの血によって買い戻されてキリストのものに
なりました。サタンのものであった人がキリストに買われたのですから、キリストの奴
隷です。キリストは御主人です。でもキリストは、御自分の血で買い取った奴隷である
私達に自由な身分を与えて下さいました。解放してくださったのです。 そこで、あな
たには2通りの道があります。解放され、自由になったのだから自由に生きるという生き
方と、もう一つは、解放されて自由になったのだから、改めてキリストの奴隷として一生
キリストに仕えるという生き方です。
クリスチャンになった人、教会に来ている人達の中にも、この二通りの生き方があり
ます。
自由になったのだから何をしても大丈夫。天国に行けるのが決まったから、毎日面白
く、楽しいことをして暮らせばいいという生き方。これは決して祝福の人生、勝利の人
生とは言えない生き方です。なぜなら、相変わらず、聖霊ではなく肉に支配されている
からです。
もう一つの生き方は、自由にして頂いた感謝の気持ちで、主イエスのおっしゃること
なら何でもしますという姿勢の生き方です。こういう人が聖書の中に沢山の手紙を残し
ています。彼は例えばピリピ人への手紙の書き出しで次のように言っています。「キリ
スト・イエスのしもべであるパウロとテモテから。」
しもべとは奴隷ということです。自分達はキリストの奴隷ですとパウロは言うので
す。今日はこの点には深入りしませんが、彼らは完全な自由人です。完全な自由人であ
る彼らが自分達は奴隷だと言うのです。
この解放された後、改めてキリストの奴隷として生きる生き方も、あらかじめ旧約聖
書に書かれていました。 出エジプト記21:5〜6には、こうあります。
「もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子供達を愛しています。
自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神の
もとに連れて行き、戸または戸口の柱の所に連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなけ
ればならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
ですから男性がピアスの穴をあけているなら、当時であれば、それは自由奴隷の印で
す。解放されて自由にして頂きましたから私は自分の意思で、愛するご主人に一生仕え
てい きますという印です。
このような人を主イエスはどのように扱われるでしょうか。
こういう人を主イエスは御自分の体の一部にしてくださいます。御自分の血で買い取
り、自分のものとした私達を解放し、自由にしてくださいましたが、イエスの元を離れ
てどこにも行きたくない。一生イエスに仕えたいという私達をキリストの体の一部にし
てくださるのです。
Tコリント6:15は「あなた方の体はキリストの体の一部であることを、知らないの
ですか」と教えています。また エペソ5:30は「私達はキリストの体の部分だからで
す」と言っています。
ここでいう教会は、この桜が丘教会の建物のことではありません。建物を連想する教
会ではなく、信じる人達の集まりという意味です。もちろん皆さんを含んでいます。
キリストが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには
打ち勝てません」(マタイ16:18)と言われた教会。つまり時間と空間を超えた全
ての信者の集まりのことです。普遍的教会とか、見えない教会と呼ばれる教会のことで
す。
それがキリストの体であり、私達は、その一部なのです。
先ほどのTコリント15:20に、こう書いてありました。
「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
この世での務めを終える時、私達は死にません。眠るのです。世間で言う永眠する、
というのとは違います。私達は眠るのですが、よみがえります。ですから永眠ではあり
ません。一時的に眠るだけです。時が来ればよみがえって、キリストの体として、いわ
ゆる天国で過ごします。
キリストが初穂で、私達は、それに続く収穫として一つのものとして刈り入れられる
というのは私達がキリストの体の部分であり、キリストが頭であるという聖書の言葉の
イラストとして分かりやすくないでしょうか。次のように書いてあります。「御子はそ
の体である教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方で
す。」(コロサイ1:18)
さて、初穂の祭では、捧げられた初穂を主の前に差し出しました。何のためでしょう
か。
先ほどのレビ記に説明があり、そこには「あなた方が受け入れられるために 」と書い
てあります。初穂がささげられるのは私達が受け入れるためです。私達が受け入れられ
るように、初穂が神の前に差し出されるのです。
主イエスは復活された朝、マグダラのマリアに言われました。
「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないか
らです。わたしの兄弟達のところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなた
方の父、わたしの神またあなた方の神のもとに上る』と告げなさい。」(ヨハネ20:
17)
こうして主イエスは初穂として神の前に差し出され、神の所に上られました。そして
初穂である主イエスが神の前に差し出された今、私達はすでに神に受け入れられていま
す。
ですから地上の務めが終わった時、私達は眠りますが、時が来ると新しい体を与えら
れて復活し、永遠に生きるのです。今日は、その保証としてキリストが初穂として復活
されたことを喜ぶ記念の日です。
岡山県赤磐市桜が丘西1ー7ー9
日本同盟基督教団
片山 進悟 牧師
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2013年3月31日 礼拝
初穂として