片山進悟 牧師
神の招き
1.イエスの場面設定
今日はルカ5章に記録されている、主イエスがペテロを弟子として召された場面から学びます。もう一度、その様子を確認していきましょう。
「イエスが、ゲネサレト湖畔に立っておられると」と書いてあります。すると「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」そうです。
押し寄せてきたと聞くと、市民マラソンか何かのように、大勢の人が一斉に駆け寄ってくる様子を思い浮かべてしまうのですが、湖の岸辺だし、そんな感じではないだろうと思います。そこで、このギリシャ語のもう一つ可能性をとって、ここは「神の言葉を聞きたいとせがんだ」と訳した方が良さそうです。
いつもですとイエスの周りの群衆は病を癒して頂くために来た人達ですが、この時は神の言葉を聞かせてくださいとせがむような人達でした。病を癒して頂いた人達が、そのように変えられていたのかもしれません。その可能性は大いにあります。
そこでイエスは、大勢の人達に良く聞こえるようにと船に乗って話されました。
人の体は音のエネルギーを良く吸収するので、群衆に囲まれると声が遠くまでは届きません。そのことを良くご存知だったので、少し群衆から離れるために船に乗ってお話しになりました。それはペテロのためにも聞こえやすい位置でした。
ですから、これはペテロを弟子にするための場面設定なのです。湖を眺めておられたとか、たまたま来られたという訳ではありません。イエスがそういう状況を選ばれたのです。
ヨハネ4章にサマリアのシカルという町を通られた記事があります。あの時イエスは、あのサマリアの女性に御自身を表すために、その町に行かれました。それと同じように、この時もはっきりとした目的があってゲネサレト湖畔に来られました。
ペテロに人を獲る漁師にしようと言われたように、イエス御自身もペテロを獲るという目的があって、そこに来られたのです。すると広い場所に来たものですから従って来ていた群衆が、お話を聞くのに良い機会とばかりに、神の言葉を聞きたいとしきりにお願いしたのです。
そんな時イエスは決して、今日は、そのためにここに来たのではない、などとは言われません。私達が神の言葉を聞きたいと願うのを主は喜ばれます。そして、みんなに聞こえるようにと、そこにあった船に乗ってお話になることを選ばれたわけです。ですから、お話しになったこともペテロの心に響くことだったのでしょう。
次に「岸から少し漕ぎ出すように」という部分ですが、1986年1月にガリラヤ湖の底に埋まっていた漁船が発見されました。それはイエスの時代の船だと鑑定され、ペテロのボートと呼ばれています。もしペテロの船が、このような船だとすると、漕ぎ手が4人と舵取りが1人の5人乗りです。
そんな船ですから漕ぎ出すためには仲間が必要です。そして漕ぎ出してしまったら彼らは岸に戻れませんから、網を洗えません。そこでイエスが群衆に話しておられる間、彼らは黙って聞いているしかなく、徹夜の疲れで眠ってしまうでしょう。それは主が望まれたことではありませんでした。
そう考えると、ここは「少し沖に出すようにお頼みになった」という訳をとるのが適切でしょう。それならイエスが乗り込まれた後で、錨の長さを調整しておいて沖に向けて押し出せば、ペテロ達は引き続き網を洗うことができ、働き続けていますから居眠りをすることなく、イエスの話も身近で聞いているという形になります。
「話し終わった時」とありますが、むしろ漁師達の仕事が一段落するのを待って話を終わられ、ペテロに沖に漕ぎ出して漁をしなさいと言われたのです。1人では船は動きませんから、仲間も一緒に行く必要があります。
2.ペテロの場合
さて、これまでのペテロとイエスの関係はどんなものだったのでしょうか。
ペテロはヤコブやヨハネと同じべトサイダの漁師でした。今日の個所のすぐ前、4:31にカファルナウムでイエスが活動しておられたことや、そこの会堂で悪霊を追い出す権威を持っておられることを示されたことが記録されています。
カファルナウムとベトサイダは数キロしか離れていませんから、ペテロ達はイエスの噂は聞いていたはずです。それだけでなく4:38によるとイエスはベトサイダに行かれた時はペテロの家に泊まっておられた様子がうかがわれます。それほどの親しさでした。そして、ある日、熱を出していた姑をイエスが癒されたのをペテロは目撃しています。
元は大工と聞いて、自分と変わらない庶民だと思っていたかもしれません。ところが律法の専門家のように、あちらこちらの会堂で教えたりするだけでなく、病気を癒したり悪霊を追い出したりするのだから凄いと、親しみと敬意の混じった気持ちを持っていたのではないかと思います。
そのイエスが、網を洗うという単調な作業をしている間、なかなかためになる話を聞かせてくれたのは良いのですが、網を洗い終わった時、先生の方も都合良く話しが終わったので、良かった、これで家に帰って眠れると思いきや、こともあろうに沖に漕ぎ出して漁をしろと言われたものですから、つい「センセー」と思わず口をついて出てしまいました。
ペテロは心の内で、「魚は夜は水面近くに上がってくるけど、日が上ってしまったら底の方に降りて寝てしまうんです。こんな時間に網を打っても、何もとれやしませんよ。せっかく網を洗って始末したばかりなのに、これ以上、むだ働きをさせないでくださいよ」と思いながら、むだです、分かってくださいという気持ちを込めて「私達は夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言いました。ところがイエスは左手で沖を指したまま、ペテロを見つめています。
無茶言わないでくださいよ。あなたは素人なんだから。船を出したら他の連中にもむだ働きをさせることになるんですよ、とペテロは恐らく思っていたでしょう。でも引下がらないイエスを見て、姑を治してもらった義理もあるし、仕方がない、格好だけでも言われるようにしてみようと決めました。その義理堅さが大事です。
しきりに誘われるから仕方がない、一度は教会に行ってみるかという気持ちが人生の転機をもたらすのです。私達の役割は、しつこく誘うことです。
3.ペテロの目が開かれる
ところが驚いたことに、言われた通りにすると、そんな時間にいるはずのない魚が水面にひしめき合うだけでなく、自分の方から網に入ってくる有様です。それを見てヤコブとヨハネを呼ぶと、彼らも船に乗り込んでやってきて2艘とも魚で一杯になり、沈みそうになるほどでした。
まさにイエスが「あなた方の網を獲物の中に降ろせ」と言われた通りの状況が起きたのです。新改訳も新共同訳も単に「網を降ろし」と訳していますが、そのまま訳すと「あなた方の網を獲物の中に降ろせ」とイエスは言っておられます。
漁師達は目の前の獲物を見て、本能的に、夜通し働いた疲れも忘れて大童で網を引き、魚を甲板に投出しては、また網を打つという動作を繰り返していました。しかし船が魚で一杯になって、これ以上獲れないという状態になったとき、それまでの疲れも出て座り込んでしまいました。そして、ふと我に返ったとき事の重大さに気が付いてたまげてしまいました。
そこで「センセー」が「主よ」に変わりました。恐ろしくなったのです。絶対に起きるはずのないこと、説明のつかないことが起きたからです。
主よ、という呼びかけは必ずしも特別なものではありません。あなた様というような感じです。しかし、この時「私から離れてください」と言ったことからも分かるように、明らかにイエスに対する意識が変わっていました。「罪深い者なのです」というのは、主イエスを聖なる方であると認識したということです。神だとは思わなかったとしても少なくとも天使か何か、そのような方であると理解したのです。
私は、あなたの御前にいることができるような人間ではありませんと、ペテロは告白しました。その告白に基づいて、イエスはペテロを御用に用いることを宣言されました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」つまり、今から神の国のために人の魂を漁どる働きに用いると言われたのです。こうしてイエスはペテロを獲るという目的を達成されました。
4.神の御招きと、それに伴う御約束
神の御約束は変わりません。誰に対しても同じです。神が一度約束してくださったことは変わりません。アブラハムに対する御約束も、ノアに対する御約束も、そして私達に対する御約束も変わりません。
ペテロに、神の国のために人の魂を漁どる働きに用いると言われた御約束は、ペテロがイエスを知らないと否認した後でも変わりませんでした。もちろん、悔い改めは必要でしたが、ペテロが悔い改めた後、主はもう一度「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:16)という別の表現で御約束を確認してくださいました。
神の御約束は御命令でもあります。そして神の御言葉は、そのまま事実となります。光あれと言われた時に光があったと書いてある通り、ペテロに対する宣言も直ちに実現しました。
「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と書いてあるのは、確かに彼らが主の御招きに応じた記録です。船をどうしたら良いかとか、将来の生活はどうなるのだろうとか、そんなことは考えずに、直ちにイエスに従ったと告げています。
しかし、その時「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」といわれた主の宣言が直ちに実現したことにも注目し、そのことも忘れないようにしたいと思います。
5.私の場合
私は禅宗に、宇宙には究極の権威が存在し、その名は「真理」であるという教えがあることを知りました。そして後に神の御導きによって聖書を読むようになった時イエスの言葉から、この人はただの人間ではない、神に違いないと思いました。そして彼が「わたしが道であり、真理であり、命なのです」(ヨハネ14:6)と言われた個所に出合ってキリストこそ禅宗で教えていた宇宙の究極の権威であると信じました。
そして度重なる航空事故を生き延びたことを思い起こし、それは悪運の強さではなく、神が私の人生に目的を持っておられたためだと知り、その目的は何だろうかと探し始めました。すると、聖書を自分の言葉で読むことができない人達のために働くようにと示されました。
それは、まだ洗礼も受けていない時でした。そこで牧師に相談し、洗礼を受けました。その間に教会は教会で、私達を宣教師として送り出すように神様の召しを受けて、私たち家族を除くと10人そこそこの小さな教会でしたが、私達を宣教に送り出すことに決めたのです。
私は44歳で退職し宣教師になりました。海上自衛隊のパイロットという、子供の頃からの目標を達成し、空を飛ぶ人生を楽しんでいました。大好きなことをしてしかも良い給料をもらえる、最高の仕事でしたが、それを辞めて神様の仕事をするようになりました。
それができたのは、飛行機に乗るのは手段に過ぎないと思っていたからです。人生の目的は国のために死ぬことでした。それがイエスを主とした時、人生の目的は国ではなく神に命をささげることに替わりました。だから飛行機を降りて、この仕事をしなさいと神がおっしゃったとき、葛藤はありましたが従うことができたのです。
6.みなさんの場合
みなさんの場合はどうでしょうか。神はみなさんにも何かを言っておられるのではないでしょうか。何を言おうとしておられるのか、耳を傾けてください。まず教会に対しては、今年の初めにゼカリヤ書から示されたように、神は、この地域に神の国を再建するように命じておられます。そのために人々が一つの家族として助け合い、励まし合い、慰め合いながら暮らせるチャーチ・コミュニティーを作るように言われたと私は理解しています。
皆さん個人に対しても何か言っておられるのではないでしょうか。お隣の人に主イエスのことを話しなさいとか、趣味の何かを神にささげる、つまり止めるとか。仲違いしていた人との関係を回復しなさいとか。
静かに神の語り掛けに耳を傾けてください。
ただ神の御命令に従うとき、ほとんどの場合、何かを犠牲にしなければなりません。
今日の聖書個所では漁師達が仕事を辞めてイエスに従いました。生活の糧を得る大切な道具である船を置いて行きました。もう漁師に戻ることはできません。
私の場合、操縦免許がなくなったわけではありません。しかし神が与えてくださる仕事の喜びを味わい、それが飛行機に乗って得られる満足感などとは比べ物にならないことが分かって、もう神の御用以外はする気がしなくなりました。
ですから、この点を忘れてほしくないのですが、神は何かを手放すように言われますが、必ず私達が手放したものとは比べ物にならないほど素晴らしいものを与えてくださいます。永遠の命の他に、です。
永遠の命に加えて、神は私達が思ってもみなかったような素晴らしいものをくださいます。手放したものが少しも惜しいと思わないような、素晴らしいものを代りに与えてくださいます。
パウロも言っています。「わたしの主キリスト・イエスを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私は全てを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(ピリピ3:8)
ですから大丈夫です。神が何かを手放すように言われたら、しがみつかずに手放すことをお勧めします。神は必ず、もっと素晴らしいものをくださいます。安心して手放して、主に従いましょう。
教会学校で子供達が歌います。「神の国と神の義を、まず求めなさい。そうすれば皆与えられる。ハレルヤ」
ペテロ達は、すべてを捨てて主に従いました。彼らは後悔したでしょうか?
彼らは後悔したりはしませんでした。それどころか、彼らはイエスのゆえに命を捨てても惜しいと思わなくなりました。
皆さんも同じです。神様に従って行けば、必ず、良かったと思うようになること請け合いです。絶対に後悔するようなことにはなりません。安心して一歩を踏み出しましょう。
日本同盟基督教団
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