日本キリスト教団 仙台松陵教会



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                                  キリストにおける一致(201122)     コリント(一)1:10-17
約2000年前のコリントの教会がどのようなもの問題があったのかこのパウロの手紙を通して知ることが出来ます。1節から9節はこの手紙の導入部であり、差出人、宛先、挨拶からなるものですが、今日の10節からいよいよ本題に入ります。
 コリントの教会はパウロが創立に関わった教会ですが、その役目を終えると、パウロは教会が比較的良い状態の時、コリントを去っていました。今やパウロが驚いたように、争いが教会を分裂させている。この情報はクロエの家の人達からもたらされた。その人達の正確な身元は明らかではないですが、クロエというのは女性の名前でコリントかエフェソで商業をいとなんいた豊かな女主人であろうと思われ、そのクロエという女性に率いられた一家の奴隷か召使であったろうと言われます。
クロエがコリント、あるいはパウロが手紙を書いたエフェソどちらかに住んでいたかは分からないですが、しかし彼女の使者が仕事で2つの町を行き来しており、パウロにコリントの教会でおこりつつある騒動の情報をもたらしたと想像できます。
 10節でさて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結びあいなさい。
 この10節でコリントの教会にどのような問題があったのか、おおよそは知ることが出来ますが、パウロはコリントの人達に対して兄弟たちと、同じ信仰の仲間として呼びかけています。また主イエス・キリストの名によってということは、今キリストがここにおられる。呼びかけているのはパウロではなく、キリストである。この勧告はイエス・キリストがあなた方に呼びかけているものであることを言おうとしています。
 そのクロエの人達から聞いた争いの内容が、12節のあなたがたはめいめい、わたしはパウロにつく、わたしはアポロに、わたしはケファに、わたしはキリストになどといいあっているとのことです。ここでパウロ、アポロ、ケファという名前が出て来ますが、彼らに問題があるわけではなく、彼らの名前を旗印として、それぞれの主張をし、教会の一致がそこなわれていたということです。
コリントの教会の争いがどのようにしておこったのか、その内容がどのようなものであったかは、一致した見解は見られないですが、当時のコリントの町の特殊事情というのもあります。
コリントの教会の会員の多くが近代的都市に住むギリシャ人であったこと、その土地柄からか無節制で享楽的な、自己中心的な生活が行われていた。かれらは狭い都市空間の内部で、自己中心的な自由な生活をしているので、争いと分裂が常に彼らにつきまとっていた。
わたしはパウロにつくと主張する人は、これは主として異邦人から成る人たちでした。パウロは常にキリスト者の自由の福音と律法の終わりを説いていました。この人達は律法からの自由を、何をしてもよいとの自由とはき違えて、性的不道徳などの問題をおこしました。イエス・キリストの十字架によって罪赦されたのだから、後は何をしても良いと考える人もいました。
さらにわたしはアポロにつくと主張する人々がいました。アポロについては使徒言行録18章24節以下に記述がありますが、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来たとあります。アレクサンドリアと言えば、当時、聖書の研究の中心地でした。
私はアポロにと言う人たちは、パウロに続いてエファソからコリントにやってきたアレクサンドリア出身のアポロの雄弁にひきつけられて、その周囲に集まった人たちから出た合言葉でした。彼らは知識を重要視する、知識偏重(へんちょう)者たちでした。
これに対してパウロを重んじる人々の間に唱えられたのが、私はパウロに、です。彼らは律法からの自由、福音の自由を強調しますが、彼らはパウロの真意を誤解しました。
これに対してケファにというのは、ケファとは、ペトロのアラム語の名前です。ペトロが実際にコリントを訪ねたか、それとも初期教会で良く知られた指導者としてコリントまでその評判と影響が伝わっていたのに過ぎないのか明らかではないですが、それはコリント教会にも少数いたと思われるユダヤ人キリスト者が中心になって、ペトロの名の下に集まった人たちです。彼らの特徴は律法を重んじつつ、キリストを救い主と信じることにありました。
イエスの直弟子、復活の最初の証人、エルサレム教会の中心的指導者。ペトロがコリントの教会で重んじられ、彼に属することを光栄とした人々がいたと思われます。
最後に私はキリストにと主張する一派がいたということですが、私達キリスト者はすべてキリスト者に属する者です。これは解釈が分かれるのですが、このように主張する人達は、イエスに教えられたことを規範とするユダヤ人キリスト者が、使徒や教師たちによらないで直接霊のキリストに属することを誇る者たちだという解釈があります。
このようにコリントの教会の問題をいろいろと推察することはできるのですが、皆が様々な主張をして教会の一致が損なわれている。それぞれ自分たちの指導者たちの名前をかざして、自分の意見が正しいと主張する、そこにはキリストはいません。
人間3人集まれば派閥が出来ると言いますが、党派心的な思いが強く出て、それぞれ自分たちが正しいと主張していたと思われます。
それらに対してパウロは、キリストはどこに言ったのですかと問います。
13節でパウロは、キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなた方の為に十字架につけられたのですか。あなた方はパウロの名によって洗礼を受けたのですかと、皮肉を込めた調子で言います。
ここで分けられたとの言葉は、スキマタイといって衣服のほころびを指す時のことばです。コリントの教会はほころびのある衣服のようにみっともないものになりかけていると言います。
私達の為に十字架にかかったのはイエス・キリストです。また私達はイエス・キリストの名によって洗礼を受けます。彼らの分派争いはそのことを忘れていたとパウロには見えました。
ここでパウロは洗礼について語りますが、だれだれから洗礼を受けた、その洗礼を誇るような人がいたのではないかと思われます。そして洗礼を受けた人との関係が密接になり、それが党争の原因になっていたとも考えられます。
パウロは14節でクリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、私は神に感謝しています。
クリスポは元ユダヤ教の会堂司で、使徒言行録18章8節で会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになったとあります。ガイオはパウロがコリントで住んでいた家の主人で、この教会全体が世話になっていました。
この文章を読むとパウロが洗礼を軽んじていたように思えますが、そうではなく、自分の使命は福音を宣べ伝えることで、洗礼はその結果であることを言おうとしているのではないかと思います。イエス・キリストの福音を信じ、そのことによって多くの人が救われる。ですから誰が洗礼を授けたかは問題ではない。そして洗礼を本当に執行しているのはイエス・キリストであるということです。
17節でパウロは、なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵に依らないで告げ知らせるためだからです。と語ります。
福音をのべるつたえることこそ、パウロがキリストから直接与えられた使命であり、唯一の仕事、天職と言えるものです。そして、その伝道は知恵の言葉によってしてはならない。知恵の言葉とは、この世の人々をひきつける美辞と能弁とによる宣教をさします。当時の世界にはこのような方法で講演旅行する教師が多くありました。
しかし、パウロが語るのは十字架の言葉です。パウロが語る言葉の中心は十字架です。そのことを中心に置かないで、知恵を誇り、美辞麗句をならべても十字架の言葉が空しくなることを言います。キリストの十字架により一つになる、それは人間の知識や思いを越えた神の恵みの中に生きることです。そのことをパウロは言おうとしました。そのことを中心におくと人間の誇りや知恵や人間の思い、特に党派心的な思いは意味をなさなくなる。それは人間の罪の姿ですが、それは現在の教会にも言えることだと思います。イエス・キリストの十字架の下に一つになる。それがパウロの思いです。

 



キリストとの交わり(201115)    コリント(一)1:4-9
イエス・キリスト、今日の聖書ではキリスト・イエスと言ったりしますが、イエス・キリストと言うことは、そのことが一つの信仰告白といってもよいものです。イエスと言うのは当時よくある名前でしたが、キリストと言うのは旧約聖書におけるメシア、救い主ということです。
 ですからイエス・キリストと言った場合、それは単に名前ではなく、イエスと言う人は、私にとっての救い主であるとの信仰告白をしているということです。
ただ現実にはキリストと言って名前のように使うことも多いですが、本来、キリストと言った場合、それは救い主という意味があります。このコリントの信徒への手紙の冒頭には、そのイエス・キリストという言葉が多く出て来ます。
そのことが第一にあって、パウロはキリストに結ばれた信仰者の生活、イエス・キリストとの交わりとは何かをこのコリントの手紙を通して語ろうとします。
パウロはコリントへの手紙の冒頭において感謝の言葉で始めています。
4節わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつも私の神に感謝しています。この言葉は様々な問題を抱えていたコリントの教会に対して皮肉のようにも見えますが、パウロは本心からこの感謝の言葉を語っています。
コリントの教会は問題を抱えていましたが、そうであってもパウロは神に感謝することを忘れませんでした。それはイエス・キリストを通して与えられた神の恵みであるといいます。コリントの教会の問題。そのようなものがあるとしても、パウロはそれらのことを神の支配の中で見ようとします。
 パウロは様々な過ちを犯しているコリントの教会の人々も神の義、真実によって神に受け入れられている。そこで起こっているすべての問題を神の支配の中で、神は無駄なことはなさらない、すべての事には意味があるとの信仰に立って、人間の思いを越えて、そこに神の意志を見ようとしました。
ですからパウロはコリントの教会に様々な問題があっても神に感謝しますとの言葉が言えるのだと思います。様々な問題があってもここに教会があることが神の恵みであり、教会員一人一人にも神の恵み、人間の善行や功績によらない神の賜物が与えられていることを言います。
コリント教会の特徴というのは5節のあなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされていますとの言葉にあらわれています。前回コリントの町はアテネに近いところから哲学が盛んであったことを言いました。初期のコリントの教会の構成員は、奴隷など貧しい人が多かったのですが、だんだん豊かになる人が現れた。
その中で豊かになった人たちが、そうではない、貧しい知識の無い人を、軽んじたり、その知識において躓かせていた状態がありました。
あらゆる言葉には異言や預言、知恵の言葉、知識の言葉を含んでいます。パウロは、知識は人を誇らせ、愛がなければそれは人を躓かせるものであることをいいました。
 コリントの教会の一部の人は、自分たちは特権的に知識をもっていると考えました。また、霊に満たされ雄弁に語る能力をも与えられました。そのことを誇っていました。しかし、それらはすべて神から与えられたもので、神からの賜物です。
そのことによって自分を誇ることはできない。そのことをコリントの教会の人は忘れていました。自分で獲得したもののように誇ることを、キリストに結ばれた者として危ういことをパウロは強調しました。またコリントの人達が豊かになったことも、それも神によって豊かにされていると言うことです。
 パウロはコリント書一4章7節で、いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただなかったような顔をして高ぶるのですか、と批判します。すべてのものは神から戴いている、そのことにおいて自分を誇ることはできないことを言いました。
コリントの教会の人達は神様から多くの恵みを与えられている、7節であなたがたは賜物に何一つかける所がなく、私達の主イエス・キリストの表われを待ち望んでいます。教会における最終的な目標はイエス・キリストの再臨を待ち望むことです。
しかしコリントの教会のパウロの論敵は、終末はすでに来ている。賜物はカリスマと言いますが、コリントの教会の霊的熱狂主義、恍惚状態において異言を語ることと結びつき、このような状態はすでに復活の状態に入っているという理解もありました。
 しかし、パウロはカリスマの所有が終末の実現でもなく、それが復活と結びつくものでもないことを言いました。 コリントにおけるパウロの論敵は、終末はすでに来ていて将来に終末や復活はないと主張して、教会内にうわついた熱狂的な空気をもたらし、様々な問題が起こりました。
そのような問題が起こることは、パウロの時代、終末はすぐにも来ると言う理解があったからでした。パウロは、終末は将来に属するものであり、信仰者の完成にはまだしばらく間があり、最終的完成まで、主に支えられ、試されつつ歩み続けることを強調します。
主イエス・キリストの日はキリスト再臨の日、最後の審判の時を指します。8節の非のうちどころのない者にするとは倫理的意味ではなく、確固たる者とする、本物であることを証明するという意味で、最後の審判における保障です。
パウロは9節で神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、私達の主イエス・キリストとの交わりに招きいれたのです、と言います。
真実とは神の本質です。それが信徒の信頼の基礎に置かれるものです。真実とはピステスという言葉ですが、この言葉は人間が主語である場合、信仰と訳されます。神の真実、真理が人間を信仰に導くと言うことです。
そしてこの神によってあなたがたは神の子、私達の主イエス・キリストの交わりに招き入れられた。この交わりという言葉はコイノニアと言いますが、イエス・キリストとの霊的な関係、あるいはその関係に共に招かれた人の共同体、どちらにも当てはまるものです。
そして聖書においてキリストにあってとは教会に属すること、その交わりの中にあるということです。神の召しにおける共同体、教会の役割は宣教や教義に従うだけでなく、共同体が愛の共同体として、キリストにあって親密な相互理解の関係へと導かれることも重要なことでした。それがパウロの時代の初期キリスト教の特色でした。
育った環境、階級が違うなど通常なら共通の関係がない、出会うことのない他者との関係に招かれている。それはイエス・キリストを神の子、救い主と信じる信仰によって招かれている。
それは神の恵みによって作られた、新しい共同体であり、神の家族と言えるものです。ですからパウロが自分の教会の会員を兄弟、姉妹と呼ぶ理由です。
そして教会における交わりは、聖徒の交わりであって、神に因って罪赦された者の集まりです。そのことから、その交わりの中心にあるのはイエス・キリストであって、人間ではありません。イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださった神を賛美する礼拝共同体でもあります。主役は神であり、キリストです。
人間の思いが、その中心になると、その共同体はもろいものとなります。教会の中心、その交わりの中心にあるのはイエス・キリストです。パウロがコリントの手紙の冒頭でイエス・キリストと何度も言うことはそのことを念頭に置いたものであると思います。イエス・キリストの体なる教会、その中心にあるのはイエス・キリストです。罪赦された者の共同体、イエス・キリストの十字架を見上げて歩む共同体です。そこにイエス・キリストとの交わり、信徒どうしの交わりがあります。それは罪赦され神から愛された者として、その愛に答えて歩む共同体です。パウロはコリントの教会にあなたがたのキリストはどこに行ったのですか、と問いますが。そのことを忘れなければ教会の分裂など起きない。それは現在の教会にも言えることだと思います。

             主であるキリスト(201108)     コリント(一)1:1−3
新約聖書にはパウロが書いたと言われる手紙が13あります。その中のいくつかがパウロが書いたどうか、真正が疑われるものもありますが、このコリントの信徒への手紙はパウロが書いたものであると認められるものです。
パウロの働きは異邦人伝道において特になされたものです。異邦人とはユダヤ人以外の人達をさしますが、パウロはコリントというギリシャの町の教会の創設にかかわりました。
 パウロの手紙の多くは、福音書より以前に書かれたもので、これらの手紙を読むことで、初代教会がどのようなものであったか、どのような問題があったかを知ることが出来ます。
 コリントの町がどのような町であったのか、聖書の巻末の地図を見ますと、今のギリシャの首都、アテネに近いところにある町です。
エーゲ海とイオニア海に挟まれた地峡部、地峡とは2つの広い陸地をつなぐ、細い陸地のことをいいますが。コリントはギリシャ本土とペロポンネーソス半島という2つの広い陸地をつなぐ、細い陸地にある町で、当時は交通の要所でした。
 パウロが初めてこの地に来たのは、紀元49年頃だと言われています。当時コリントはローマ帝国アカイア州の首都として、地方総督が住んでおり。同時に国際的な交通・通商の要地でした。ローマ人やギリシャ人、ユダヤ人など様々な人種民族が住み、少なくとも20万人の自由人と40万人以上の奴隷がいたと言われています。
 アテネに近いところから、学問的にはアテネに及ばないまでも、修辞学や哲学を学ぶものも多く、哲学者たちの行き交う文化都市でもありました。また運動競技も盛んでした。ギリシャのオリンピアでは古代オリンピックが4年に一度開かれていましたが、コリントでもオリンピック次ぐ大会である2年に一度の地峡競技会と言うものが開催され、人々の興奮を読んでいました。
 また宗教的にはコリントは女神アフロディーテの町と言われ、神殿があり
まつかぜにも書きましたが、そこには神殿娼婦がいたと言われています。
またギリシャの町ということで、様々な神々が祭られており、多くの神殿があり、多くの宗教行事が行われ、その喧噪のなかで、偶像礼拝が行われ、退廃的な町というイメージがありました。そしてコリント人のように生きると言うことはみだらな生活をすることを意味しました。
 この手紙のあて先とされているコリントの教会は使徒言行録18章1節によれば、パウロが第2伝道旅行の際、紀元49年頃アテネからコリントに来て、すでにローマからこの地に来ていたパウロと同業の天幕職人、テント造りのユダヤ人夫婦アキラとプリスキラに支えられて形成したものであると言われています。
 パウロは1年6か月にわたってコリントに滞在し、同労者シルワノやテモテに助けられて教会の基礎を作りました。
最初のコリントの教会の構成員はユダヤ人と共に、その大部分は異邦人で、しかもユダヤ教に改宗していなかった異教徒が大半を占めていました。彼らは当初知識ある者は少なく、権力のある人も、身分の高い人も多くなかった。むしろ社会的には弱者や、身分の低い、軽んじられている人、無きに等しい者、奴隷たちがその構成員でした。
 しかし、この手紙の中で、パウロが批判の対象とした人々は、すでに豊かになり富栄えていた。彼らは知識ある者として、知識の弱い兄弟を彼らの知識によって躓かせていた。また彼らの間には私はパウロにつく、私はアポロに、わたしはケファに、私はキリストにと言い合う党派心による分派の兆しが現れていました。
 さらにこの教会には性の在り方ついての問題と共に教会員同士の訴訟問題がありました。パウロは当時エフェソにいてこれらの問題をコリント在住の婦人信徒クロエの家の者たちから聞き、これに対する批判と警告と勧告とを与えるためにこの手紙を書き送りました。
また教会からパウロに寄せられたいくつかの質問に答えるためにも書かれました。そしてこの手紙が書かれたのは16章17節にある、この教会から3人の使者を受け入れた後の、紀元55年の春ごろと言われています。
パウロはコリントの教会の諸問題にたいして使徒としてのパウロが、キリストの福音に立ち返る事、そのことが問題に対して解決になることだと勧告します。
そのことは、律法的な批判でもなく、命令でもなく、また相手を異端者として決めつけたわけでもありません。彼らと共通の最も大切な福音に目を向けて、共に成長し、育てあいつつ神の教会を建てるためにこの手紙を書きました。
そのことは今日の聖句の1節から2節 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、いたるところで私達の主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人達と私達の主でありますとの言葉に表われています。
1節でパウロが神の御心によって召されてということは、キリスト教会の迫害者であったパウロが神から使徒とされたことは神から特別な召し、呼びかけがあったということです。それは使徒言行録9章にけるダマスコへの途上において神からの呼びかけ、それに答えて回心したことを言っています。召されてキリスト・イエスの使徒となったと、自らの使徒性を強調しています。これはパウロの使徒性を疑う者がいたからであると言われています。
パウロは12弟子のように生前のイエスと行動を共にした人物ではありません。
使徒はその資格として、イエスをみた者であり、復活のイエスを経験して、これらの証人であることが要求されました。
しかし、それは人となられた、生前のイエスと行動した12弟子だけでなく、パウロのように復活のキリストから直接に委任された者も実質的に使徒であることが認められていました。その意味でパウロも使徒であると言えます。
また兄弟ソステネとは使徒言行録18章17節に会堂長のソステネという名前がありますが、同じ人物であろうと言われています。ソステネはパウロの手紙の筆記者であり、連名で出すことにより手紙の公同性、公のものであることを示すものです。
また2節でコリントにある神の教会と呼びかけています。教会はコリントのような一定の地域に建てられます。たとえそこに問題があっても地上の教会を離れて神の教会はありません。教会はパウロのものでもアポロのものでもなく、ただ神のものであるということです。それはキリストの教会であると言うことでもあります。
そして、それはキリスト・イエスによって成就される。救いの約束された終末共同体です。神はキリストにあってユダヤ人だけでなく異邦人をも招き、きよめて聖なる者とされる。このような聖徒の集会が神の教会です。彼らは時と場所を越えて、同じ主の名を祈り、呼び求めている人と共に、聖徒として召された人々です。
聖徒、聖なる者は、この世から聖別、分かたれて神に属する者とされているすべてのキリスト者を指します。わたしたちもキリストを信じることによって神のものとされています。
そのことから教会は神によって建てられ、神に属するものであって、この世の様々な団体とは本質的に同じものではありません。この世の論理にすべてあてはめてしまうと、この世界にあって存在意義がなくなります。パウロはコリントの教会にそのことを言いました。それは、現在の教会にも言えることだと思います。
イエス・キリストを主であると言う時、旧約聖書において主とは創造主である神を主と呼んでいましたが、新約聖書においてはイエスに対する信仰告白としてイエスを主であると言うようになりました。そのことから新約聖書で主という時はイエス・キリストのことを指しています。イエス・キリストこそ神であり、救い主であるということです。
最後にパウロは3節で私達の父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように、との祝福の言葉で終わっています。恵みは人間の功績によらない無償の神の賜物です。平和は旧約のシャロームの伝統から、無秩序に対して神が与える秩序、祝福、完全を言います。それは単なる魂の平安ではなく、キリストによって与えられる神との新しい関係。神が共におられると言うことです。
その神との新しい関係に入ったコリントの教会ですが、時がたつにつれてそのことを忘れてしまった。そのことで様々な問題が起きた。人間の思いが優先され、自分を誇るようになり、教会内でも争いがおきた。キリストの体である教会、信仰共同体の原点が薄れてしまった。パウロはあなたがたの原点であるイエス・キリストを信じたとき、召された時のことを思い出しなさいと勧告します。そのことをコリントの手紙でパウロは言います。


イエスとペ トロ(201011)        ヨハネ21:15-19
ペトロはイエスの12弟子の代表といってもよい人物であり、12弟子でだれを最初に上げるかと聞くと、このペトロの名を上げる人は多いかと思います。しかし、ペトロはイエスを裏切った人物です。イエスを裏切った人物と言えばユダを思い出しますが、このペトロもイエスを裏切ったと言えると思います。
ペトロの裏切りは福音書すべてに記されています。ヨハネ福音書では、ペトロはイエスに対してあなたの為なら命を捨てますと言いますが、それに対してヨハネ福音書13章38節でイエスはペトロに対して私の為に命を捨てると言うのか、はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろうと。その後に起きることを預言しています。
事実ペトロはイエスが逮捕されると、大祭司の庭でイエスを三度知らないと言ってしまいます。ヨハネ福音書では三度知らないと否定した事実だけが記されていますが、他の福音書では、ペトロはイエスを三度知らないと言った後で激しく泣いたとあります。この泣いたと言うことは、あれほど強く、死んでもあなたのことを知らないと言わない。裏切らないと言いながら、イエスの言うとおりになった。
ペトロは自分の事を強い人間だと思っていた。イエスを裏切ることなどないと思っていた。その自信が、イエスが逮捕され、その身の危険が自分に及ぶようになると、もろくも崩れた。そのショックと後悔の念があると思います。
 人間誰でも、自分が一番かわいいでしょうし、自分のことが一番大切であると思います。そのことから、自分の身に危険が及ぶ、もしかしたら自分もイエスの仲間として逮捕されるかもしれない。そのなかで自分の身を守るために、イエスを知らないと言うことは、責めることはできないと思いますが、ペトロはイエスに対して死んでもあなたを裏切らないと言ったことで、イエスに対しての特に自責の念があったと思います。
 そのようなペトロの前にイエスは現れます。15節で食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、ヨハネの子シモン、この人達以上に私を愛しているかと問われます。ここで、この人達というのはペトロの周りにいる他の弟子達を指していると思いますが、ここでイエスは愛に、深い、浅いなどと優劣をつけているのではなく、ペトロのイエスに対する愛が問われているように思えます。
 それに対してペトロは、はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたが、ご存知ですと答えます。ここで何故ペトロが私はあなたを愛していますと、はっきりと答えることができないのかと疑問に思います。
 これはペトロがイエスを三度知らないといった、裏切りがあって、自分はイエスを愛していると、断言できない弱さがあったと思います。ここでイエスはペトロに三度、私を愛しているかと問います。それに対するペトロの答えは、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知ですという答えです。
 ここでイエスがペトロに三度私を愛しているかと問うことは、ペトロがイエスを三度知らないと言った事と、関係、対応があると思います。ここで三度イエスがペトロに私を愛しているかと問うことは、ペトロが三度イエスを知らないと言った事を責めているのではなく、そのことを思い起こして欲しいという、イエスの思いがあったと思います。
三度目にイエスに私を愛しているかと問われ、ペトロは悲しくなったとありますが、三度イエスがペトロに私を愛しているかと、問うことは三度知らないと言った、ペトロの赦しに通じる言葉です。
 ペトロはイエスの三度私を愛しているのかとの問いに対して、三度同じ答え、主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたは良く知っておられますと、答えます。
 これはペトロの信仰告白であり、主よ、あなたは、何もかもご存知ですとの言葉の中には、ペトロの心のうち、自分の弱さ故にイエスを裏切った、後悔、悲しみ、それは自分の罪であることを知ったこと。そのすべての事があなたは知っておられると言うことです。それはイエスの十字架において明らかにされるものです。それは罪人を赦す神の愛に根ざすものです。
 そして、このことは、ペトロをイエスが愛し、神が共にいて下さると言う、究極的な赦しに繋がります。そのことを、イエスを通して、ペトロは知り、信じたと言うことです。
 さらにここでイエスはペトロに対して2度アガペーという神が人間を愛する時に使う言葉を使いますが、それに対してペトロはイエスに対してフィレインという人間同士の友情などに使う愛という言葉を使います。しかし、三度目にはイエスはペトロに譲歩するかのように、フィレインという言葉を使い、ペトロもイエスに対してフィレインという言葉を使います。このことは、人間的な限界の中でしか愛することのできない次元まで、イエスが下りてきて、ペトロの愛を容認されたと取ることが出来ます。
 そうであるのでイエスはペトロに私の羊を飼いなさいと言います。羊と羊飼いの譬えは、ヨハネ福音書10章にありますが、10章11節には私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てるとありますが、イエス御自身が良い羊飼いとして、私達の為に命を捨てたことが、イエスの十字架によって明らかにされます。
 ここではイエスが羊飼いであり弟子たちが羊ですが、今度は弟子たちが良き羊飼いとしてイエスから派遣されると言うことです。その代表としてイエスはペトロに私の羊を飼いなさいといいます。羊の群れ、教会の指導者として、私の羊を飼いなさいとのイエスの命令です。これはペトロがイエスを裏切ったのもかかわらず、イエスはペトロを信頼し、愛しているということです。
 ペトロはその言葉に驚いたと思います。イエスを裏切った自分がイエスの宣教の使命を託される。私の羊を飼いなさいと言われる。その言葉によって、ペトロは生かされました。新しく生まれ変わりました。もうイエスを裏切ったあの弱いペトロではありませんでした。
 18節のはっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。
 これは表面的な意味は、若くて元気な時は自由に活動できるが、高齢になると人々の世話にならなければできなくなると言う意味ですが、ここではペトロの殉教を暗示していると言われます。両手を伸ばして、他の人に帯を締められ生きたくない所へ連れて行かれる、という言葉は他の人に縄を架けられとも訳せます。
 ここにはペトロが逮捕され、十字架の上に両手を伸ばして死刑にされるということが暗示されています。実際、ペトロの殉教は、紀元62年頃ローマ皇帝ネロの時代に起きたと言う伝説が残っています。
19節でペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。この言葉を、ヨハネ福音書記者はペトロの殉教を知っていて書いたと思われます。
 ペトロはイエスの一番弟子でありながら、その性格から失敗も多い人物でした。そのような人物にイエスは羊の群れ、教会を託された。それはイエスが人間の罪を知っており、そのような者であっても、そのような者であるからこそ、イエスは赦し、用いられた。そこに神の愛がある。そこにイエスとペトロの関係を見ることが出来ます。



イエスと7人の弟子(201004)    ヨハネ21:1〜14節
今日の聖書はガリラヤ湖での復活されたイエスと7人の弟子の出会いが記されています。
21章は1章から20章までのヨハネ福音書が完成されたあとでの補遺、追加されたものであると言われていますが、内容的には重要な意味が含まれています。
 今日の聖書で復活されたイエスと弟子たちが出会ったのは、ティベリウス湖となっています。これはガリラヤ湖の別名ですが、湖の西岸の町テべリアに由来するものです。この町はヘロデ大王の死後、ガリラヤの領主となった息子のヘロデ・アンティパスが建設し、当時のローマ皇帝ティベリウスにちなんで命名したもので、ガリラヤの首都となりました。
 しかし、ユダヤ人は、この名を嫌ったので、このように呼ぶことはありませんでした。このことからヨハネ福音書がユダヤ的環境から離れた所で成立したことを暗示していると言われます。
7人の弟子とは、最初にペトロの名前が上げられています。次に疑い深いトマス。ナタナエルとは1章45節以降に出てくる友人フィリポにすすめられてイエスに紹介され、イエスを信じ、イエスから真のイスラエル人と言われ、褒められた人物です。
そしてゼベダイの子たち、ヨハネ以外の共観福音書ではゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネとして紹介されていますが、ここでは名前が記されていません。さらに他の2人の弟子が一緒にいたとあり、合計で7人です。このようにヨハネ福音書は共観福音書のように12弟子の名前が出てくることはありません。
 この中で、ゼベダイの子たちとあるヤコブとヨハネの名前がしるされていないことで、ヨハネ福音書ではゼベダイ子ヨハネの名が意図的に隠されているのではないかとの、推測を産み、そのことからゼベダイの子ヨハネがヨハネ福音書に出てくる、匿名のイエスの愛する弟子などではないのかとの推測が生まれました。
 しかし、それら弟子の中でも、ペトロは重要な人物であり、今日の聖書でも主人公であると言えます。そしてペトロとのかかわりの中で、イエスの愛しておられた弟子がヨハネ福音書でどのような位置、意味をもつのかも考えさせられるものです。
 ペトロはエルサレムで復活のイエスに出合っているはずですが、何人かの弟子達と共にガリラヤ湖にもどってきました。ペトロはもともとガリラヤ湖の漁師で、人間と獲る漁師にしようと言われイエスに従った人物でした。そのことから、復活のイエスに出合ったと言っても、自分がこれから何をしていいか分からないような状況で、故郷のガリラヤ湖に戻ってきたと考えることが出来ます。
そのような中で、することもない中で、漁をしたと考えることが出来ます。
3節でシモン・ペトロが、私は漁に行くと言うと、彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何も獲れなかった。
 このペトロの漁に行くとの言葉は、ペトロが漁をするため、漁師にまた戻るために、ガリラヤ湖に戻ってきたわけではないことを示しています。食べる物がないから、することがないから、漁をしたと考えることが出来ます。他の弟子達もペトロに従いました。
 しかし、彼らは夜通し漁をしたのに一匹も魚を獲ることが出来なかった。徒労に終わりました。そのように彼らが落胆と疲れのある中でイエスが現れました。彼らは、最初は岸に立っているのがイエスだとは分からなかった。
 イエスに言われた通り、右側に網を打つと大量の魚が取れた。その時それがイエスだと初めて分かった。右と言うのは幸運の側であり、ギリシャ語ではその言葉自体が幸運と言う意味にも使われるものですが、しかし、ここで重要なことはイエスに従う姿です。彼らは漁師として経験はあるはずですが、イエスの言葉に従います。イエスの言葉は神の言葉であり、道しるべであるからです。
7節でイエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、主だと言った。シモン・ペトロが主だと聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
このイエスの愛しておられた弟子が、ヨハネ福音書では重要な働きをします。
彼は最後の晩餐の席で、イエスの最も近くにいて、イエスを裏切る者が誰であるかを示され、イエスの十字架の時には、イエス亡き後の、母マリアの面倒を託されます。12弟子のうちで復活の知らせを最初に聞いたのはペトロと彼でしたが、墓に先に着いたのは彼の方でした。
 このイエスの愛する弟子がゼベダイの子ヨハネではないかという解釈がありますが、このようにこのイエスの愛する弟子が、ペトロや12弟子に対して優位を持って書かれていることから、ヨハネの教会はペトロや12弟子に権威をおく教会とは違ったグループの流れに属する教会にあるのではないかと想像されます。しかし、ペトロは重大な信仰告白をする人物であり、イエスを3度裏切ることになりますが、復権もされているので、対立、否定的な関係にあるものではありません。
 しかし、ガリラヤ湖でのペトロとイエスとの出会いにおいて、ペトロの性格が現れています。7節でイエスの愛しておられたあの弟子がペトロに主だと言った。シモン・ペトロは主だと聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ペトロは岸に立っているのがイエスだとわかると船からみずうみに飛び込んだ。イエスと早く会いたいという気持ちがあったと思いますが、ペトロの性格が現れています。
上着を纏って海に飛び込んだことはペトロのイエスに対する敬意の表われです。ペトロの性格は直情、直行といいますか、イエスを逮捕しにきた大祭司の手下の耳を切り落としたのは、ペトロでした。どちらかというと頭で考えるより、行動の人です。その性急、せっかちさから、失敗もします。代表的なものがイエスを死んでも知らないと言わないと言いながら、イエスを三度知らないと言ってしまうことです。強さと共に弱さをも抱える人間らしい、ある意味では愛すべき人間であると言えます。パウロのような思索の人であるより、行動の人です。ですから12弟子のリーダーとなったと思います。
 この大漁の出来事は、弟子たちの宣教を暗示していると言えます。ペトロは他の弟子たちに、私は漁に行くと言うと、弟子たちは私たちも一緒に行こうと言う。このことは使徒たちの宣教活動を表しており、宣教は一人ではできないことを言っています。みんなの協力なくしてはできないことを言っています。
 しかし、その夜は何も獲れなかった。しかし、イエスの言葉にしたがうと大量の魚が獲れた。これも弟子たちの宣教と同じことを言っています。ペトロを初めとする弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師でした。イエスの人間を獲る漁師にしようというイエスの言葉に従いました。そのことから宣教の業は使徒たちの人間的努力だけではだめで、イエスの言葉、命令と助けによって為されるものであること言おうとしています。イエスが天に上げられてからは、教会における聖霊の働きにおいて為されるものです。
 11節のシモン・ペトロが船に乗り込んで網を引き揚げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く獲れたのに、網は破れていなかった。これは聖餐を暗示していると言われます。
この153匹の魚は様々な解釈がありますが、一つは当時地中海に生息していた魚が153種類であったということです。そのことからすべての魚が獲れたと読むことが出来ます。それはイエス・キリスト十字架において裂かれた体においてすべての人が十字架の救い、伝道の網にいっぱいになると言う象徴的な意味があるのではないかということです。
 またそんなに多く獲れたのに網は破れていなかった。このことは、教会は様々な人たちから成り立っていますが、しかし一つであって分裂しないことを言っています。
 12節でイエスは、さあ来て、朝の食事をしなさいと言われた。弟子たちは誰も、あなたはどなたですかと問いただそうとしなかった。主であることを知っていたからである。キリストとはどなたですか、どのような方ですかとの問いは復活のイエスとの出会いにおいて答えは与えられています。
イエスにおいて神のおられることを知り、そのことによって大漁の奇跡がありえた。そして大漁の奇跡がパン裂き、イエスの十字架と結びつき、これらすべての事が復活のイエスとの出会いの内容として証言されています。
 私達は礼拝と聖礼典とを通して復活の主に出会います。14節でイエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。イエスが招いてくださるとき、私達は目が開けイエスを知る。食事は親しい交わりを表す。
 今、教会ではコロナで聖餐を取りやめていますが、聖餐は牧師によって執り行われますが、聖餐の真の執行者はイエス・キリストです。この糧を受ける時、今日の7人の弟子のようにイエスを尋ね求める必要がなくなる、イエスは共におられる、そのことを知った時、イエスは主である、救い主であると、告白し、宣教することが出来ます。




               神の子キリスト(20927)    ヨハネ20:31-31
本来ヨハネ福音書は20章で終わっていたと言います。そのことから言えば、今日の30節と31節はヨハネ福音書の結びの言葉です。
 29節のイエスのトマスへの私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであるとの言葉で本文は終わり、30節と31節の結びのことばでヨハネ福音書は終わっていました。 この結びの言葉でヨハネ福音書記者はヨハネ福音書の書かれた目的を明らかにしようとします。
30節で、この他にも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていないと言います。
このしるしは、奇跡と考えても良いと思いますが、それには病の癒しなど、癒しを中心とした奇跡、さらに自然の奇跡も含まれていました。それはイエスが人間以上の存在であることと結び付けられ、人を驚かすような奇跡を行うからメシア、神の子であるというしるしと考えられました。
 しかし、そのような奇跡はヨハネ福音書では否定的に扱われていました。
2章23節〜24節のイエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられたからである。
 また4章48節でイエスは役人に、あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じないと、言われました、とあるように人を驚かすような形でイエスをメシア、神の子であると信じることを否定的に捉えていました。
 しかし、30節では、しるし、奇跡は肯定的に捉えられています。このことは超自然的な奇跡の力をイエスの神性証明・メシア証明として用いる場合には、そのしるしは否定され、十字架と復活の下でイエスの存在、真実の姿を現しているしるしは肯定されていると言うことです。
 ここでヨハネ福音書記者は、イエスは弟子たちの前で多くのしるしを為さったが、それは、この書物、ヨハネ福音書には書かれていないと言います。
実際ヨハネ福音書においてはイエスがしるしとしての奇跡をおこなったのは、復活を除くと7つです。
 2章のカナの婚礼での水を葡萄酒に変えた奇跡、4章の役人の息子の癒し、5章のベドザトの池での病人の癒し、6章の5千人の給食の奇跡と湖の上を歩く奇跡、9章の生まれつきの盲人の癒し、11章のラザロの復活、の7つです。
 これは最初に書かれた福音書であるマルコ福音書に多くの奇跡があることを考えると、対照的です。そのような少ない奇跡の後に、長い話、講話があることがヨハネ福音書の特徴です。
 ヨハネ福音書においては、ヨハネ福音書記者は執筆においてしるし資料を用いたことが、だいたい定説になっています。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書と共に、しるし資料を用いてヨハネ福音書を書いたと言うことです。そのようなしるし資料、奇跡物語を用いてヨハネ福音書を完成しました。
そのことは多くのしるし資料の中から、ヨハネ福音書記者が選んだと考えることもできます。そして、その印と言われる奇跡は、当時多くいた奇跡行為者、自称メシアと言われる人の行ったものと違っていることで、あえてヨハネ福音書ではしるしという言葉を使っています。
その中で、当時のユダヤ人社会、ユダヤ教の伝統の中で伝道するなかで、ユダヤの人にも理解できるような高度なメシア理解、キリスト論が確立されていったと言われています。
31節には、ヨハネ福音書の書かれた目的が明らかにされています。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
ヨハネはこれがヨハネ福音書を書いた目的であると明らかにします。
 メシアとは油注がれた方の意味で、救い主をさします。キリストと同じ意味の言葉です。イエスを神の子であり、救い主キリストと信じることであるといいます。またイエスを信じることは、イエスの名により命を得ることであると言います。
そのことはヨハネ福音書のエピローグであるヨハネ福音書1章4節で言の内に命があった、命は人間を照らす光であった、で明らかにされます。言とはヨハネ福音書ではイエスを指します。
 また3章16節で神は、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるとの言葉でも明らかです。ヨハネ福音書全体がイエスを救い主、神の子であると証しているものですが、その中でのしるしの意味は大きいものです。その中でもイエスの十字架、そして復活の出来事が最大のしるしと言ってよいものです。
 福音書はイエスの伝記ではなく、イエスが神の子キリストであるとの証言であり、それは初代教会の宣教の中から生まれたものです。最初に書かれた福音書であるマルコ福音書においても、最初の書きだしが、神の子イエス・キリストの福音の初めとなっています。イエスが神の子キリストであるとの信仰がまずあって、そこからイエスの伝承がまとめられ、記されています。
しかし、ヨハネ福音書記者は、それを結びの言葉の中に記しています。そして今まで記してきたイエスの事柄は、そのことのしるしであると言います。福音書はまことにイエスは神の子キリストであるとの、しるしです。
 神の子キリストとしてのしるしであるイエス、それを知ることが信仰です。
ヨハネは福音書の最初において、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。いわゆるロゴスキリスト論を言うのも、イエスにおいて神の啓示があること。1章18節の未だかつて、神を見た者はいない。父の懐に居る一人子である神、この方が神を示されたのである。しかし、それは信仰の目で見る者であって、あくまでもしるしです。
 イエスは弟子たちの前で数々のしるしを行いましたが、弟子たちはそのしるしを理解することはできませんでした。それは十字架から復活の出来事において、弟子たちは初めて理解することになります。
 今日の30節と31節の短い2つの節、ヨハネ福音書の結論部分において、すべての福音書の執筆目的を言い表していると言えます。ヨハネ福音書の中心にあるのは命です。イエスは私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためであると言いました。サマリアの女には生ける水と言われました。ラザロが死んで悲しむマルタには、私は蘇りであり、命であると語られました。
 イエスはだれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないと言いました。ヨハネの証する命は、御国の到来とキリストの現臨によって、神の御心によって与えられる祝福であり、命は永遠の命としての新しい誕生です。神の国へ入れられる者は、新しい命へと生まれます。
 イエスのしるしを通して、この福音書により、イエスを神の子キリストと啓示によって、信じる者に与えられる命です。この命は泉となって、乾くことなく湧き上がる生ける命の水となります。
 このことのヨハネ自身の証の言葉は、17章3節の永遠の命とは唯一まことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることですと言います。イエスを遣わされた神を知る事、そこに永遠の命がある。命はキリストと共にあります。
命を受けた者、命を証する者は、キリストとつながっていなければならない。枝がブドウの木に繋がっていなければ、実を結ぶことはできないように、この世の試練や誘惑にあっても、命であるキリストとつながること、それはイエス・キリストの体である教会とつながっていくことです。
 イエスの復活を信じないトマスにたいして、イエスは信じない者ではなく、信じる者になりなさいと言いましたが、イエスは今も教会におられ命である私を信じなさいと語りかけて下さる方です。
イエスの復活(20823)      ヨハネ20:1-10
今年のイースター、イエス様の復活日は4月12日でした。その時はマタイによる福音書28章1節から10節で説教を致しました。
 松陵教会は新型コロナウイルス対策の為、4月12日から5月24日までは牧師一人で礼拝を捧げていました。皆さんと共にイースターのお祝いをすることが出来ませんでした。
 しかし、今、松陵教会はヨハネ福音書の講解説教を行なっていますので、時期は真夏の暑い時期になりましたが、こうしてヨハネ福音書でイースターの箇所を 愛する兄弟、姉妹と共に読むことが出来ることをうれしく思います。
今日の聖書でイエスは、マリアや弟子たちの前にまだ姿を現していません。墓にイエスの姿が無かったことだけが記されています。
ただ、この墓にイエスの姿がないということは、すべての福音書にありますが、そのことを見た者はすべて、信じられない、恐れたことが記されています。
1節で週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マクダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。とあります。
 週の始めの日とは、ユダヤ人にとって安息日は金曜日の夕方の日没と共に始まり、土曜日の夕方の日没までですから、だいたい土曜日といっても良いと思いますが、ここで週の初めの日とは日曜日になります。
そして、日曜日の朝まだ暗いうちに墓に行くとイエスの御姿、御遺体がなかったことで、イエスの復活は日曜の朝おこったという起源がここにあります。
 ヨハネ福音書は他の福音書との違いがあることを前回いいましたが、ここでも、その違いはありまして、イエスの墓を訪ねるのはマクダラのマリアだけになっています。他の福音書マタイ、マルコ、ルカの共観福音書と言われるものは、複数の女性がイエスの墓を訪ねています。
 このことはヨハネ福音書における信仰の個人化ということが言われると言います。ヨハネ福音書においては復活のイエスに最初に出合うのはマクダラのマリア一人であり、この後、疑い深いトマスの話があり、ペトロが復活のイエスの対話する記事があります。
 これはヨハネ福音書における終末の現在化という観点があるといわれます。一般的に終末は歴史の最後の日に、神の国、救いの共同体が完全に実現するということでしたが、ヨハネ福音書においては、イエス・キリストを信じる者はすでに永遠の命を得ているという形で個人化されている場合には、救いは終末の後に与えられるのではなくて、既に現在の歴史の中で与えられている。
これは神の支配、共同体に加わることで救いが得られると言うことよりも、個々に永遠の命を与えるという形で語られることになります。
 マクダラのマリア、トマス、ペトロはイエスとの一対一の出会いの中でイエスを信じるか信じないかが問われ、信じる者がその救いにあずかる。ヨハネ福音書では救いが個人の信仰になっていることで、マクダラのマリアのように一人でイエスの墓に向かう。またイエスと一対一で復活のイエスに出合うことになります。
 マクダラのマリアとは聖書の中でも有名な女性です。マクダラとは地名で、ガリラヤ湖の西岸の町マクダラ出身のマリアということです。
ルカ福音書8章1節にはイエスに7つの悪霊を追い出していただいたマクダラの女と呼ばれるマリアという女性として出て来ます。伝統的にルカ福音書7章36節〜50節に記されている罪深い女、この人は娼婦だと言われていますが、この女性がマクダラのマリアだと言われています。
 マリアはイエスの墓から石がとりのけてあるのを見ました。それを見てマリアはイエスの遺体が誰かに取り去られた。盗まれたのだと思いました。
2節でマリアは、そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人のところへ走って行って彼らに告げた。主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私達にはわかりません。
 ここでヨハネ福音書の復活においてマリア、マクダラのマリアが一人でイエスの墓に行くことと、マリアがイエスの姿が墓にないことを告げに行くペトロとイエスの愛しておられた2人の弟子の記述に特徴があります。
そして3節から8節にはこのペトロとイエスの愛していた弟子との関係性を垣間見ることが出来ます。
3節そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4節、二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより早く走って、先に墓に着いた。
 ここでは2人の弟子が、どちらが早くイエスの墓に着くかと競争しているように見えます。
このイエスの愛する弟子の方が先にイエスの墓に着くことは、この愛弟子の方が若かったから先に着いたという解釈がありますが、ここではイエスの愛弟子の方がペトロより勝っていると言う、愛弟子のペトロに対する優位性を暗示しています。
 しかし、5節から6節において身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。ここではペトロが到着して、先に墓穴に入り、その後、愛弟子も墓穴に入ります。
 そのことは恐らく、初代教会においては復活の証人としてペトロの名が筆頭に上げられると言う伝統があったのではないかと言われています。福音書以外にパウロの手紙であるコリントの信徒への手紙一15章3節から7節にキリストの復活の出来事が記されていますが、そこには復活のイエスは最初にペトロに現れたと記されています。
福音書よりも、このコリントの手紙の方が書かれた時代は古いので、復活されたイエスが最初にペトロに現れたことは定説になっていたと思われます。
最初にペトロが墓に入り、イエスの姿がないことを確認することは、そのことに従ったと考えられます。
しかし、信仰においては、このイエスの愛弟子がペトロよりも勝っていることが記されています。
 8節にそれから、先に墓に着いたもう一人の弟子、これはイエスの愛弟子ですが、入って来て、見て、信じたとあります。ヨハネ福音書において見るとは神学的意味があり、愛弟子は見て、信じたとはっきり記されています。
 この愛弟子はこの後出てくる、うたぐり深いトマスのように、甦りの主イエスの出現を待って、その手に十字架の釘跡を見たら信じようというのではなくて、墓穴が空であり、死体を包んであった亜麻布が残っているのを見ただけで信じたと言うことを、ヨハネ福音書記者は言おうとしています。
 さらに、墓にイエスの遺体をくるんだ亜麻布が墓に残されたと言うことは、イエスの遺体が盗まれたなら、墓泥棒は亜麻布をほどかなかったであろうから、このことからイエスの遺体は盗まれたものではないということを言おうとしています。このことはイエスが自分をくるんだ亜麻布を自らほどいて、自ら死を後にしたということです。
 イエスの復活において、最初、其の出来事をみた者は信じられない、恐れたとあります。人間の常識からすればそうであると思います。そのことを福音書はありのままに記しています。
 しかし、この空の墓の出来事とともに、この後でてくる弟子達、ペトロを始め、死んでもあなた、イエスを裏切らないといいながら、イエスが逮捕されると散り尻に逃げ出した弟子たちが、其の後、復活のイエスに出合い、殉教覚悟で宣教することになります。そのことは人間の知識では計り知ることのできない、何かが起きたと言えます。
 聖書を始めて読む人は、そのことをにわかに信じることはできないと思います。復活はキリスト教信仰の根幹でありながら、躓きの石にもなるものです。しかし、キリスト者にとって復活は最大の希望です、そのことをこの復活の出来事から知ることが出来ます。



              イエスの裁判(20726)      ヨハネ18:38b-19:16
ヨハネ福音書12章46節から49節において、イエスの民衆に対する宣教の終わりで、イエスは宣教における裁きの役割を次のように述べています。
 私を信じる者が誰も暗闇の中に留まることがないように私は光として世に来た。私の言葉を聴いてそれを守らない者がいても私はその者を裁かない。わたしは世を裁くためにではなく世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者には裁く者がある。私が語った言葉が終わりの日にその者を裁く。なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく私をお遣わしになった父が私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
 このイエスの言葉は、イエスの裁判において、本当に裁かれているのは誰かということが明らかにされるものです。
 総督ピラトはイエスの裁判には乗り気ではありませんでした。ユダヤの指導者たちがイエスをピラトに訴えたのは、イエスに対するユダヤの指導者たちの妬みもあり、宗教的問題だと考えたからでした。
 イエスがユダヤの王だと名乗れば、ローマ帝国の反逆罪として政治的な問題として取り上げることはできますが、その証拠はありません。ピラトはイエスを何とか死刑にしたいユダ人指導者たちと、イエスを釈放し面倒なことに関わりたくないと言う思い、で悩むことになります。
 ヨハネ福音書18章37節で、ピラトのそれではやはり王なのかという問いに対して、イエスが、私が王だとはあなたが言っていることだと答えています。このピラトとイエスの応答において、地上の王、ユダヤ人の王という政治的な王という意味からすればイエスの答えは、そうではないと言う答えになりますが、神の国の王、イスラエルの王、宗教的な王と言う意味からそればその通りと言う答えになるので、イエスはピラトに対してそれはあなたの言っていることですと明言は避けています。
 その後、イエスは、私は真理について証するために生まれ、其の為にこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。羊は良い羊飼いの声を聞き分ける。しかし、ピラトはこの良い羊飼いであるイエスの声を聞き分けることができない。
 ピラトは、良い羊飼いであり、真理であるかたが目の前にいるのに、そのことを気付くことができない。だから38節でピラトは、イエスに対して真理とは何かと聞きます。
 ピラトはイエスに対して罪を認めることができなかった。またユダヤの宗教問題にもかかわりたくなかった。また人に死刑の判決を下すことも望まなかったと言うことです。
 ピラトはイエスを何とか釈放したい、イエスに罪を認めることができない。ということからイエスを釈放しようと考えます。
29節でところで、過ぎ越し祭には誰か一人を釈放することが慣例になっている。これは現在の日本の恩赦と言ってよいもので、日本の天皇の代替わり、即位と皇族の結婚などの時に行うものですが、それと同じようなことが、ユダヤ民族の最大の祭り、過ぎ越し祭の時に行われていたと言うことです。
それを利用して、罪を認めることのできない、イエスを釈放しようと考えました。
 しかし、ユダヤ人たちは、イエスではなく、バラバをと大声で言い返した。バラバは強盗であったとあります。聖書にはバラバは強盗であったとしか書かれていませんが、実際は反ローマ運動の指導者、政治的革命家、そのためにテロをも行っていた。民族の独立運動の為には強盗、テロをも行っていた人物ではないかと言われています。マタイによる福音書にはバラバのことを評判の囚人と書いてありますが、そのことからもうかがい知ることが出来ます。
 ユダヤ人たちがイエスに対して政治的なメシア、ローマからの解放を求めるメシア、王としての期待があったのに、簡単に逮捕されたしまった、その落胆と失望が、バラバを釈放し、イエスを十字架に付けろとの叫びになったと考えることが出来ます。このイエスかバラバかの選択は良き羊飼いか、強盗かの選択であり、バラバを選ぶことによってユダヤ人たちは再び自分たちがイエスの羊に属さないことを明らかにします。
 それでも、ピラトはイエスの釈放を画策します。
ピラトはイエスを捕え、鞭で打ち、兵士たちはいばらで冠を編んで、イエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、ユダヤ人の王、万歳といって平手でうったとあります。
4節でピラトは、見よ、あの男をあなたたちの所に引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪もないことが分かるだろうと言います。
 このピラトの言葉は、イエスのみじめな姿をユダヤ人に見せつけることによって、イエスが無力で無害の存在であることを証明しようとしたということです。ピラトは出て来たイエスを指して、見よ、この男だと叫びますが、このような男に何の力があるだろうかと言う語りかけが、この見よ、この男だとの言葉に含まれています。
 本来、鞭打ちは体を弱らせるために、十字架刑の前に行うものでしたが、ヨハネ福音書では、ピラトがイエスを釈放するために惨めな姿をユダヤ人の前にさらけ出すために使われています。
 それでも祭司長達や下役たちは、イエスを見ると十字架に付けろ、十字架に付けろと叫んだ。それを見てピラトはあなたたちが引き取って、十字架に付けるがよい。私はこの男に罪を見出せない。
 ユダヤ人たちは、実際には、ピラトの言葉通りに実行することは不可能です。ユダヤ人には、死刑執行権がなく、十字架刑は、ローマ式の死刑方法でした。
 ピラトは、無罪を確信しているイエスに対する訴えを、何とか取り下げようと考えます。
 しかし、何とかイエスを死刑にしたいユダヤ人の指導者は7節で私達には律法があります。律法によれば、この男は死罪に当ります。神の子と自称したからです。
 ここでユダヤ人たちは、政治犯でなくて、宗教的な理由でイエスを生かしておけないと言う実情をさらけ出します。
 8節から9節ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、お前はどこから来たのかと、イエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。これは出身地を訪ねているのではなく、お前は果たして神の子であるのかという問いです。
イエスは、神によって派遣された啓示者であり、神から来たものです。しかし、イエスはピラトを問題にせず、イエスの答えはありません。政治的次元でしか物を考えることのできないピラトにたいして、神の子について今更説明しても、ピラトが理解するはずはない。ピラトはイエスに自分が十字架につける権限のあることを示し、イエスを威嚇しますが、イエスにとってすべては神の問題です。ピラトが自分で所有していると思っている政治的権力も、神から授かったものである。神の子に対しては、神の命令と支配以外には何ら服従すべきものはない。
 このことを知らないピラトには、これ以上答えることは、無駄な事であって、イエスの行動は宗教的以外にはありません。
 このことはイエスの受難における神の意志を語っているものです。イエスの十字架によって栄光を現わし、ご自分に属する者たちを引き寄せようとする神の意志の遂行の中で、ピラトは、単に一つの器に過ぎないと言うことです。ただ、イエスは、ピラトと同じように、器として用いられているユダヤ人の罪はもっと重い。彼らは、イエスの啓示の言葉を聞いたにもかかわらず、イエスを拒絶し、殺害しようとしたからである。
 ピラトは、ますますイエスの無実の確信深めて、ユダヤ人の所に戻って行き、イエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは、今度は律法ではなく、ローマ総督ピラトの弱点につけこもうとします。それは、王と自称する者は、ローマ皇帝に対して反逆する者であり、そういうものを釈放するとすれば、ピラトは皇帝の友ではないと言います。
 ピラトは自分の地位までも危うくされることを恐れて、公式の裁判の席に着くことを強いられます。
 ピラトのあなたたちの王を十字架に付けるのかというと、祭司長達は私達の他に王はありませんとうそぶきます。彼らは、自分たちの王としてローマ皇帝を承認することによって、イスラエルが神の支配にあると言うことを放棄したと言うことです。さらに自分たちのメシアへの希望と期待の全てを否定することになります。ユダヤ人の不信仰は、こうして決定的なものとなります。ピラトはこの声になすすべもなく、イエスを十字架に付けるために、ユダヤ人に引き渡すことになります。
 ピラトやユダヤの指導者たちはイエス十字架につけることになります。
イエスは14章6節で私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行くことができないと、言います。イエスを通して神に至る者は裁きを受けず、永遠の命に至る。イエスにある神の招きを拒否する者は裁きを受ける。王としてのイエスを拒否することによって、ユダヤ人指導者たちは同時に王としての神を拒否し、それ故に裁かれます。
 今日の裁判においてはイエスを裁いているように見えますが、ここで本当に裁かれているのは、光である救いであるイエスを受け入れないこの世です。イエスによってこの世の代表である、ユダヤの指導者たちは裁かれていると言えます。
 そのことが分かるのは、イエスの栄光である、十字架と復活の時です。ユダヤの指導者たちはイエスに勝利したと思っていますが、自分たちの罪が明らかにされる時です。また、その時はイエスを信じる者にとって救いの時です。
                                 
                             総督ピラト(20719)    ヨハネ18:28-38a
大祭司カイアファの所からローマ総督ピラトの官邸に連れて来られたイエスは、十字架への道へ進むことになります。
 アンナス、カイアファの庭における尋問で夜は明け、朝になっていました。イエスを官邸に連れてきたユダヤ人は、入り口まで来てそれ以上中に入ろうとはしませんでした。それは過越しの祭りが近づいていて、過ぎ越しの食事、過ぎ越しの小羊を食べる習慣になっていた。をするには、身を清める必要があり、異邦人であるピラトの家に入ることは身を汚すことだと考えられたからです。
 ピラトは、紀元26年から36年までユダヤの総督であった人物です。新約聖書の記述からすると、優柔不断の人物という印象がありますが、その実像はかなり厳しくユダヤ人に当った人物であると言われています。
 ピラトのイエスの尋問において、イエスを官邸につれてきたユダヤ人は家の中に入らなかったので、ピラトは家の外にいるユダヤ人と家の中にいるイエスとの間を何度が出たり入ったりすることになります。このことは落ち着きのない、総督の権威から考えると少し滑稽なイメージもあります。
 今日のピラトのイエスの尋問においても、ピラトはイエスを訴えるユダヤ人とイエスとの間で板挟みになり、その中で、自分の保身を図ろうとする意図も見え隠れます。
 ピラトはイエスを連れてきたユダヤ人に対して、29節で、そこで、ピラトは彼らのところへ出てきて、どういう罪でこの男を訴えるのかといいます。
 それに対してユダヤ人は30節で、彼らは答えて、この男が悪いことをしていなかったなら、あなたに引き渡しはしなかったでしょうと、言ったとあります。
 そして31節でピラトが、あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁けと言うと、ユダヤ人たちは、私達には、人を死刑にする権限がありませんと、言います。
 ピラトがこの件は、ユダヤ人の間の宗教的反目から起こっていると考え、自分にとって直接関係ないこと、むしろかかわりになることの不利をしって、自分で判断、責任をとることの回避をしようと考えたことです。
 ユダヤ人にはサンヘドリンという議会があり、裁判をする権限がありました。だからピラトは自分たちの律法で裁けと言いました。しかし、サンヘドリンには死刑宣告の権限はありませんでした。
それでユダヤ人たちは、イエスを殺そうと狙っていたので、それ以外の刑では納得できなかった。ただ石で打つ権利は認められていましたが、これは必ずしも死刑を意味するものではありませんでした。彼らは、ピラトに死刑宣告を迫り、十字架に付けて殺すことを求めました。
こうしてイエスの死が議会の判決で終わらないで、当時世界を支配していたローマ皇帝の代理である総督ピラトの名によって死刑が決定し、ヨハネ福音書12章32節の私は地上から上げられる時、すべての人を自分の下へ引き寄せようと、いう預言が成就したということです。
 ここで上げられるということは、イエスの十字架に上ることと、天への高挙、天に上げられることとの2つの意味があり、イエスの死は、天から降って来たイエスが再び天へあがることの重要な出来事です。
 32節でそれは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであったということは、イエスの死が天への帰還、栄光として位置づけられていると言うことです。それは当時のユダヤの宗教権力、ローマの政治権力に対する勝利の出来事でもあります。
33節からピラトのイエスに対する尋問を始めます。ローマ人であり政治家であるピラトにとって重大なのは、ユダヤの宗教上の問題ではなく、イエスが自分は王であると主張してローマ国家に反抗し、反逆罪を犯してはいないかということでした。
 またイエスは、そのような政治的犯罪の理由で訴えられました。
ですから33節でそこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、お前はユダヤ人の王なのかと問うています。
それに対してイエスは34節でピラトにお答えになります。あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、他の者が私について、あなたにそう言ったのですか。
 ここでのピラトとイエスの問答は微妙な点を含んでいます。もしピラトが自らの判断によってこの問いを出したとすれば、それは政治的問題として考えられますが、もしユダヤ人がそう訴えたとすれば、それは宗教的問題で、霊的イスラエルの王であるメシアを意味しているので、直接政治とは関係がないといえます。
同じ王と言う言葉が、大きな相違をもってきます。イエスは、この点をはっきりさせる必要があるとして、ピラトにどこからその問いが出たかを問います。
しかし、ピラトにとってはそのような微妙な点が問題ではなく、彼はこの事件は自分が取り上げたのではなく、ユダヤ人にとって持ち出されたものであり、自分にとって迷惑な事であり、いったいどんな悪いことをしたのかと、イエスに尋ねます。
 それに対する答えが36節でイエスは私の国は、この世には属していない。若し、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦った事だろうと、言います。
 このイエスの言葉は、御自分の王国が、ローマの支配と対立するようなこの世的、世俗的王国でないことを言っています。しかし、私の国と言われるべき支配がこの世の中に厳然とあり、イエスはその王国の王であると言うことを明言します。
ですからピラトは、それでは、やはりお前は王なのかと言います。この世の政治権力は武力によって維持され、この世の支配は物理的力によって強制されますが、私の国はそのようなものではない。若し私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろうと言います。だから私の国は、その起源、性質においてこの世のものではない。 しかし、イエスがこの世に来られたことによって、この世に厳然と存在していると言えます。
イエスは37節でピラトのやはり王なのかとの問いに対して、私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証するために生まれ、其の為にこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聴くと言います。
 真理とはイエスの教えであり、生涯です。またイエスは真理そのものであるとも言えます。イエスの生涯そのものが真理についての証です。
真理は、イエスにおいて自らを啓示し、イエスにおいて明らかになる神の現実そのものです。
それはヨハネ福音書1章18節の、父のふところにいる一人子成る神だけが、神を現わしたのであり、したがって、イエスをみた者は父である神を見たといことです。
イエスが真理について証をするために生まれ、そのために罪と偽りの世界に来られる時、それは救いであるとともに、裁きの時でもあります。
イエスを裁くファリサイ派などの宗教指導者たちが、イエスの真の光によって、自己の偽善と悪がさらけ出されたように、ここでもまたイエスを裁くピラトが、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光であり、真理であるイエスの元に来ようとしない。
それは38節のピラトの真理とは何かという問いに現れています。真理であるイエスが目の前にいるのに、それを知ることができない霊的に盲目なものとして描かれています。
ヨハネ福音書8章31節で私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にすると言います。
それは道であり、真理であり、命である、イエスを知ることです。またそのことは、私たちこの世界を造られた創造主である神を知ることでもあります。それは被造物としての人間の限界を知ることであり、そのことは神でない物を神とする人間の愚かさを知ることであり、神の前における敬虔さと謙虚さを持つことでもあります。
ピラトなどの世俗的権力はイエスを否定しましたが、それは現在の世界でもあることです。真理であるものに盲目であり、神にイエスに背を向けることです。イエスによって知らされた神の中に真理があります。ピラトはそのことを信じることが出来ず、自分の保身の為にイエスを十字架に送ることになります。それは神の計画であるとしても、人間の弱さ、愚かさを表しています。
そのことを知るのはイエスの十字架と復活のあとであり、それはイエスにとって栄光の時であり、私たちにとって救いの時です

ユダの裏切り(20705)         ヨハネ18:1-11
今日の18章からイエスの逮捕と十字架への道に入ります。
福音書にはす  すべてイエスの逮捕と十字架の出来事が記されていますが、ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書、共観福音書と言われるものとの、違いがあります。
 具体的な違いというものは、多くありますが、それよりもこのヨハネ福音書におけるイエスの逮捕と十字架の出来事において中心的なことは、イエスの逮捕と十字架がイエスの意志において、イエスの主体性においてなされているということです。
 イエスはユダに率いられたイエスを逮捕しようして来た一隊の兵士と、祭司長達やファリサイ派の人々の遣わした下役たちに、自ら進んで姿を現わそうとされます。
 4節でイエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て誰を探しているのかと、言われたとあります。マタイ、マルコ、ルカ福音書においてはユダが接吻する人が、その人だと、それを合図にイエスが逮捕されますが、ヨハネ福音書にはそのようなことは記されていません。自ら私であると名乗っています。
 5節で彼らが捜しているのは、ナザレのイエスだと答えると、イエスは私であると言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。とあります。
 ここでイエスは私であると答えていますが、これは神顕現、自分は神であるとの自己啓示を現わしています。
 これは旧約聖書の出エジプト記3章14節の神とモーセとの出会いにおいて、神がモーセに対して、わたしはある。私はあると言う者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。わたしはあると言う方が私をあなたたちに遣わされたのだ、という神顕現、神がモーセに自分の存在を現わした言葉が、イエスによって使われていると言うことです。
 このあとイエスは6節でも、私である。8節でも私であると答えています。この私であるとの言葉はギリシャ語でエゴー、エイミーと言いますが、英語ではアイ,アムとなります。これでは意味が通じないように思いますが、このように言うことで、イエスは、私は永遠から永遠に私はある者だと言うことです。
あってある者すなわちかつてあり、今もあり、未来もある存在、すなわち、永遠に存在する神であると言っていると言うことです。
 すべての事は神の計画、神の子であるイエスが自分の意志によって、その計画をなされようとして、その中心的なことがイエスの逮捕と十字架です。イエスは逃げようと思えば、逃げることはできますが、神の計画に自ら従ったと言うことです。
その神の力は6節でイエスが、私であると言われた、彼らは後ずさりして、地に倒れたと、言うことでも明らかです。
 それはイエスの神としての権威、その絶対的力に圧倒されて、イエスを逮捕しに来たものは、後ずさりして、地に倒れます。
 イエスは神の子として、避けることもできる、逮捕と十字架への道を、自らの意志によって選ぶことになります。
 ヨハネ福音書10章18節には、だれも私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることが出来る。是は、私が父から受けた掟である、とのイエスの言葉にその事がすでに暗示されています。
 14章から16章までは、イエスの告別説教でした。イエスが神の元に帰る。残していく弟子たちの為に残した言葉です。そして17章がイエスの弟子達、この世の教会の為の執り成しの祈りです。
 今日の聖書は、そのイエスの執り成しの祈りが終わってからの出来事です。
1節で、こう話し終えると、イエスは弟子達と一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子達とその中に入られた。
 キドロンの谷とは、ヨハネ福音書にしか出てこないですが、キドロンの谷は、エルサレムの町とオリーブ山の間にあり、冬の雨季にだけ水が流れる峡谷です。その向こう側のオリーブ山の麓にある園を、マタイとマルコは、ゲッセマネと呼んでいます。そこでイエスは血の滴るような祈りを捧げたとありますが、ここで言われる園とはゲッセマネの園の事を言っていると考えられます。しかし
ヨハネ福音書にはゲッセマネの園の祈りはありません。
2節でイエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子達と共に度々ここに集まっておられたからであると、あります。イエスとその弟子たちは、昼間はエルサレムで活動し、夜はオリーブ山の麓にあるゲッセマネのあるあたりで休んでいましたから、ユダはイエスが、夜はこの辺に居ることを知っていたと思います。
 3節でそれでユダは、一隊の兵士と、祭司長達やファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。これはイエスを逮捕しに来た時間が夜であるということですが、ユダヤ教の一日は夕方から始まるので夕方と考えても良いと思います。
イエスの逮捕は過ぎ越しの時期なので、この過ぎ越しの時は満月であり、明るかったと言われています。その用意周到さがうかがわれます。イエスと弟子たちが暗闇にまみれて、しげみや岩壁にかくれるということも想定していたと思われますが、その必要はなく、イエスは自ら名乗り出ることになります。
このイエスの逮捕劇において、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書とちがうところは、イエスを逮捕しに向かったものの中に、ローマ兵とファリサイ派がいたということです。3節の一隊の兵士とはローマ兵のことをさします。一隊とは一レギオンの十分の一、600人の部隊を指す言葉ですが、時にはその三分の一、200人の編成をも意味しました。またファリサイ派もいたと言うことです。
 ここでローマ兵とファリサイ派が出てくることは、イエスが活動されたのは紀元後30年頃です。ヨハネ福音書の書かれた時代は、紀元後90年代の初めの頃と言われていますが、イエスの活動された頃、イエスの裁判を行なった最高法院、サンヘドリンは祭司長、律法学者、長老で占められていました。マタイ、マルコ福音書ではイエスの逮捕に向かったのもこの人達です。しかし紀元後70年エルサレムはローマによって滅ぼされ、その後エルサレムで力をもったのは、ファリサイ派の人達でした。
 ですからここでローマ兵とファリサイ派が出てくることは、ヨハネ福音書の書かれた時代背景があると言われています。そのころのヨハネの教会はファリサイ派を中心とするユダヤ人からは異端扱いをされ、ローマ帝国からの迫害もありました。
 そのような中で、イエスを逮捕しに来たローマ兵と律法学者たちへのイエスの力強い態度は迫害を受けていたヨハネの教会の人達への慰めと希望になっていたかもしれません。
またヨハネ福音書には大祭司の手下の耳を切り落としたのはペトロであり、その手下の名はマルコスであったと記されています。またイエスが逮捕されても他の福音書のように弟子たちは逃げ出しません。
 ヨハネ福音書においても、イエスの逮捕においはユダの裏切りにおいて為されるものですが、ヨハネ福音書17章12節で私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えて下さった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子の他は、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。とあります。
 ヨハネ福書において、今日の聖書はユダが最後に出てくる場面です。6章71節で12弟子の1人でありながらイエスを裏切ろうとしていた。
ユダはヨハネ福音書の中の3つの場面12章1節からのベタニアにおける香油、13章1節からの告別の食事、今日の逮捕の場面に出て来ます。そこで言われることは、ユダはイエスに最も近い者の一人であったが、イエスを裏切ったと言うことです。ユダはイエスと共に食事をし、イエスに足を洗ってもらったにもかかわらずイエスを裏切り、背を向けたと言うことです。
 その現実はユダの裏切りが神の計画だとしても、その現実は私たちに訴えかけてくるものがあります。ユダの裏切りには何ら秘められた動機はありません。 
 彼は単に悪の支配に身を委ねたと言うことです。3章19節の光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっているといいます。
 しかし、その現実からイエスの十字架と復活において、光は闇に勝利された。
神のこの世の悪魔的力からの勝利に終わっています。
 ユダは過ちをおかした、これも私達人間の姿であると、イエスの逮捕をとおして、私たちは知ることになります。そこからの救いは光であるイエスを信じることです。その選択がイエスの逮捕を通して、ユダの裏切りを通して私たちに求められていると言えます。


すべての人を一つに(20628)    ヨハネ1720-26
 17章は大祭司としての、イエスの執り成しの祈りであることをいいました。
1節から5節は、子であるイエスが父である神に栄光を祈り求めたものでした。6節から18節は、イエスが弟子たちを地上に残して、父である神のもとに帰るイエスの弟子達の為の祈りです。彼らを守ってくださいとイエスは神に祈ります。
 そして今日の20節からは弟子達だけでなく、弟子の働きによってイエスを信じた者に対するイエスの祈りです。
 20節でイエスは、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々の為にも、お願いしますと、祈ります。ここで言う彼らとはイエスの最初の弟子、12弟子のことを言っています。そしてここでは、彼ら、弟子の言葉によってイエスを信じる者たちのためにお願いしますとイエスは祈ります。
 ここでは、直接イエスに出合い信じた弟子達。その弟子たちの言葉、宣教によって信じた者たちの為にお願いしますとイエスは祈ります。
 今日の聖書を読んでお気づきかと思いますが、イエスの祈りの中で一つという言葉が何度も出て来ます。21節のすべての人を一つに。22節の私達が一つであるように。彼らも一つになるため。23節の彼らが完全に一つになるためです。このように福音書記者が何度も、一つと言って一体性を強調するのには。その背景に何かがあったのではないかと推測する注解者もおります。
 ヨハネ福音書が書かれたのは、だいたい1世紀末と言われています。最近の研究では、キリスト教がユダヤ教から異端として迫害されたこと。その理由はイエスを神の子、神と告白したことによりますが、それが起こったのは恐らく80年代半頃であり、またローマ帝国のドミティアヌ帝による迫害、当時のローマ皇帝は神のような存在でしたから、ローマ帝国内にキリスト教が広まり、その中で、キリスト者が皇帝礼拝をしなかったことで、キリスト者は迫害を受けました。それは95年頃と言われています。
 福音書を読む場合、イエスの言葉、伝承、そこから知ることのできるイエスの生前の状況と福音書の書かれた時代における教会の状況を両方考えることが必要であると言われています。
 ヨハネ福音書の書かれた時代は、ヨハネの教会が異端としてユダヤ教から迫害を受け、追放された時代であると言われています。
それを読み解く手がかりはヨハネ福音書9章22節には両親がこう言ったのは、ユダヤ人を恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである、と16章2節の人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時がくるという言葉で推側することが出来ます。イエスをメシア、神と告白することで会堂から追放されると言う状況がありました。
 そのような状況があって、ヨハネ福音書記者は共同体の一体性を強調しているのではないかと言われています。そのような中で教会の一体性をそこなう何かがあったのではないかと言われています。
そこにはユダヤ教側の迫害や、さらにヨハネの教会の中に異端が入り込んでいたのではないかといわれています。原始キリスト教にはグノーシスというイエスの人間性を否定する、神の子が人間となって十字架に架かるなどあり得ない。十字架に架かったイエスは仮の姿であるという異端がヨハネの教会に入り込んでいたのではないかと言われています。ヨハネ福音書にはグノーシスの影響があると言われています。
 このような中でイエスは、この世にあって一つになることを言います。
21節でイエスは、父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私達の内に居るようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになりますと、言います。
伝道によってキリストを信じる人は増えました。ヨハネの教会は直接イエスの教えを受けた弟子から、その弟子の伝道、言葉によって信じた第2、第3世代の信者によって占められていました。
 その中ですべての人が父と子である神の一致にあずかって、一つとなることが祈られています。天において父と子が一つとなって栄光を現わしている。地上においては、弟子たちの共同体が一つとなって、神の栄光を現わしている。
神の栄光とはイエスの十字架と復活における私達の罪の贖いと死からの勝利です。そのことを信じる者は永遠の命が与えられる。そのことを世に伝えて行くことが重要なことです。
 ヨハネ福音書における世とはユダヤ人を指し、イエスと敵対しました。そしてイエスを十字架に送ることになります。
 しかし、ヨハネ福音書のおいてこの世はイエスと敵対しますが、また伝道の対象でもあります。ヨハネ福音書3章16節には、神は、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるとの言葉でも明らかです。
 今日の聖書で父と子、共同体の一致、一つになることを言います。その中心にあるのは愛であることがわかります。
 23節で私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世は知るようになるといいます。
 イエスをこの世に遣わされたのは、神がこの世を愛されたからです。
それはイエスの十字架に現れています。
 すべてのことは父の愛から出ています。ヨハネ福音書において愛は重要な言葉です。子に対する愛、弟子たちに対する愛、その愛を世に知ってもらいたいと言うことです。しかし、世はその愛を知らず、愛を拒否しています。
 そうであっても、神はこの世を愛されました。その愛によって一つになることで教会は存続しました。そして神の愛を、イエスの十字架を伝えていくこと教会の役目です。そのことにおいて教会は一つでありたいと思います。
 
                         御名を現わす(20621)     ヨハネ17:6-19
 6節からイエスの弟子達、これは現在で言えば私達の教会といっても良いものです。イエスは十字架と復活の後、神の元に帰りますが、そのことで弟子たちは地上に、この世界に残されることになります。そのために、イエスが地上に残る弟子達の為に、祈ったのが執り成しの祈りです。
1節から5節までは、イエスが神に対して、神の栄光を祈ったものですが、6節からはイエスが弟子たちの為に祈った執り成しの祈りに入ります。
6節でイエスは、世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくだいました。彼らは御言葉を守りました、と語ります。ここで、私は御名を現わしましたの、御名とは神の御名であり、それは神御自身です。
 旧約の時代は神の名をみだりに唱えることはできませんでした。神を見た者は死ぬと言われていました。出エジプト記3章の神とモーセとの出会いにおいてそのことが記されています。しかし、イエスが来られたことによって、イエスを通して、仲介により、神の名を唱えることができるようになりました。
イエスによって神がどのような方であるかが知ることが出来、そこから信仰が生まれます。
 6節の世から選び出したとは、神は人間を創造されましたが、人間はアダムとエバの創造の初めから神の教えを守ろうとはしなかった、神のようになろうとする人間の傲慢さ、人間の自分だけが良ければ良いと言う、自己中心的な生き方があります。
 そこからの悔い改め、救いのためにイエスは遣わされました。そのために最初に選ばれたのが12弟子です。イエスが12弟子の共同体に、神御自身を現わされ、それによって弟子たちが信仰に導かれます。そこには人間に信仰と知識を与える神の招き、主体性があります。人間が神を選んだのではなく、神が人間を選んだということです。
 私達は毎週、日曜日に礼拝を捧げます。自分の意志で来ているように思いますが、神から呼び集められているものです。イエスは神の御意志を実現する為に、この世界に遣わされました。神の子としてイエスは父である神に従順であり、それは神とイエスとの一体性にあります。それであるのでイエスの言葉は神の言葉です。
ヨハネ福音書1章18節にあるように。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐に居る一人子である神、イエス・キリストが神を示されたのであるとの言葉でも明らかです。
 7節から8節にはそのことが記されています。私に与えて下さったものはみな、あなたのものであることを、今彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしが御元から出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
 ここで弟子たちに与えられた御言葉、イエスはあなたから受けた御言葉を弟子たちに伝えたと言いますが、この御言葉とはイエスによって啓示されたすべての事柄であり、イエスの奇跡、イエスの語った言葉すべてが含まれています。弟子たちはその御言葉を守り、保持し、伝えていく役目があります。それは現在の教会の使命でもあります。
9節からはが、イエスがこの世に残して行く弟子たちの為の具体的な祈りです。彼らの為にお願いします。世の為ではなく、私に与えて下さった人々の為にお願いします。彼らはあなた方のものだからです。
 ここで言われる世とはイエスや弟子達と対立し迫害していたユダヤ人社会です。この世の為ではなく、という言葉でイエスの隣人愛、汝の敵を愛せよとの言葉と矛盾しているのではないかという指摘がでてきます。
しかし、ヨハネ福音書においてイエスは終始一貫して世を愛し、世を救うために来られたことに変わりありません。しかし、救いとは世が、父と子の関係を正しく知り、受け入れることです。また、父と子の関係を先に知り、受け入れた弟子たちの証言を受け入れることです。
それは父と子と弟子たちの関係を認めると言うことです。したがってこの祈りはイエスの教会に対する偏った、偏愛の祈りで世を排除すると言うことではなく、父と子と弟子たちが一つであることを祈り、それによって世が神とイエスとの関係を信じるための祈りです。
ヨハネ福音書3章16節には,神はその一人子をお与えになったほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであるとの言葉があることでも明らかで、イエスは神の一人子として、父によって与えられた使命を果たそうとされます。
 11節からはイエスははっきりとこの世から去ることを明らかにします。
11節でわたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしは御元に参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
 イエスによる神の名、神の独自性と性格の啓示はイエスの地上の務めの間に信仰共同体、教会の独自性を形づくりました。しかし、イエスが神の御元に帰る時が来たので、今、イエスは神がその名によって共同体の基礎を確保するように求めているものです。
 12節でイエスは、わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。ここで滅びの子とは12弟子の中でただ一人イエスを裏切ったイスカリオテのユダを指しています。そして聖書が実現するためであると言うことは、それが神の意志であり、神の計画であることを言おうとしています。
 14節でイエスは、私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、かれらも世に属していないのですと言います。世というのは当時のユダヤ人社会で、イエスを受け入れませんでした、イエスと弟子たちは一つであるので、イエスが弟子たちを愛すれば愛するほど、この世は弟子たちを迫害し、憎むと言うことです。
 また17節で真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理ですと言います。この聖なる者とする聖とは、宗教的に神の為に別にする。神の為に最もよいものを捧げるという意味があります。普通は人間が行うことですが、聖書において、神が御自身のために取っておかれるという意味に使われることがあります。
 真理とは神そのものであり、神は真理です。そのことから子であるイエスも真理そのものです。
 それは父がイエスを子とし、聖なるものとされたからです。それと同じようにイエスが神に弟子たちを聖なる者としてくださいと祈ります。神の言であるイエスは真理であり、人間となって十字架に架かり、すべての罪人を清め、救おうとされます。
 今でもイエスは聖霊によって現臨され、神と私たちを執り成してくださる方です。イエスによって私達は神を知ることが出来、神の救いに預かることが出来ます。そのことが私達の喜びです。
 
                             イエスの祈り(20614)   ヨハネ17:1-5

福音書を読みますと、イエスがよく祈っていたことを知ることが出来ます。代表的なものが、イエスが十字架を前にして祈ったゲッセマネの祈りです。十字架を前にして神にこの杯を取り除いてください、しかし、私の願いではなく御心のままにと、血のしたたるような祈りを捧げました。また弟子たちに教えた主の祈りがあります。
祈りは人間の本質的、根源的なものであると言われています。幼い子でもお祈りをします。人間は特定の宗教を信じていなくても祈り者であると思います。私達が病気や苦難に遭うと祈ることがあると思いますが、それは祈る対象があるからです。絶対的なもの、人間を超越しているものに対して祈ります。イエスもこのように、この地上にあって、人間として、共に苦悩し、神に祈りました。
 ヨハネ福音書には、ゲッセマネの祈りはありませんが、今日の17章はイエスが十字架を前にして祈ったもので、その意味ではヨハネ福音書におけるゲッセマネの祈りと言ってもよいものです。しかし、その内容は違いがあります。イエスは十字架を前にして、神の栄光と、残された弟子達ために祈る。それは教会といっても良いものですが、イエスの執り成しの祈りと言えるものです。
そのことから、この祈りは古代から大祭司の祈りと言われてきました。
イエスには3つの働きがあると言われています。王として預言者として大祭司としての働きです。イエスは残された弟子、教会のために神とこの世界のために大祭司として執り成しの祈りをしたということです。
 14章から16章まではイエスの告別説教で、イエスは父のもとに帰りますが、その代わりに弟子たちに助け主としての聖霊を送るという約束をしました。
 その告別説教が終わり、十字架を前にしたイエスの祈りが始まります。
1節でこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。これらのこととは14章から16章の告別説教と考えてよいと思います。そして天を仰いで祈ることは天におられる神との対話の姿勢であり、古代イスラエルでは、敬虔な人のしるしとされました。詩編121篇1節に目を上げて、私は山々を仰ぐ、という言葉がありますが、其の事からも知ることができます。
 1節でイエスは、父よ、時が来ましたと言います。この時とはイエスが今まで言ってきたように、十字架の時です。イエスの十字架、復活、神のもとに帰る昇天の時です。また、この時とは神が定めた時です。イエスは十字架の時まで、神に従順でした、それは神の独り子として、自分の使命を果たす時です。
そのことが神の栄光を現わす時です。人から見れば、敗北にしか見えない十字架がイエスの復活、昇天によって、神の勝利であり、栄光の時です。その神の栄光を現わすために、子に栄光を与えて下さいとイエスは祈ります。
さらに2節であなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることが出来るのです。ここで人を支配するとは専制君主のように人を支配することではなく、ご自分の命を犠牲にして人々に永遠の命を与えることであり、終末における救いの権能です。イエスを神から遣わされた神の子、神を啓示した者と信じる者は、永遠の命が与えられる。そして父から委ねられた人とは、イエスを神の独り子と信じる者です。その者は神の命に与り、神の子とされます。
さらに3節で永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエスを知ることであると言います。
 ここで知ると言うことが言われますが、普通知ると言うことは、知、情、意の一つとして頭脳的、知的な意味に理解されますが、しかし、聖書における知ると言うことは、もっと深い人格的な関係における知識を表します。
ヨハネ福音書における知ると言うことは、神またはキリストとの人格的な交わりであり、そのことで、父と子と弟子たちの間に知ると言う関係が出来上がります。そのことからそれは信じること、信仰と結びつくものです。そのことは今まで自分が生きてきた生き方に方向転換をもたらすものです。それは今まで自分中心に生きてきた人間が、神中心、キリストを中心に生き方を変え、他者の為にも生きることのできる人間へと変えられることです。それは隣人愛とつながります。
 4節でイエスは、私は、行うようにとあなたが与えて下さった業をなしとげて、地上であなたの栄光を現わしました。ここで言われる業とはイエスの行ったしるしとしての奇跡に限定されるものではなく、十字架をも含んだものであると思います。イエスはヨハネ福音書19章30節でイエスは、このブドウ酒を受け取ると、成し遂げられたと言い、頭を垂れて息を引き取られた、とあります。
 イエスの地上の生涯は、父である神の意志に服従することによってなされました。その最後には十字架の死が待ち受けていましたが、そして最後最大の業である十字架の死によってすべての業が成し遂げられることを言います。
そして最後の5節でイエスは父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて下さい。世界が造られる前に、私が御許で持っていた栄光を。ここではヨハネ福音書の冒頭の1章1節のロゴス賛歌、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。というロゴス・キリストの先在ということが言われます。
世界が造られる前とは、天地創造の以前の時で、時間もまた、創造によってこの世界と共に始まりました。そのことからイエスが創造以前から実在されていたと言うことは、イエスは永遠の実在者であり、永遠の存在であり、その本質に於いて御父と一つであり、その栄光を父と共にする存在であることが言われます。
 イエスが地上の生涯を終えるにあたって、ヨハネ福音書の記者は、永遠の存在者、ロゴス・キリストの先在の栄光に思いを馳せ、大祭司イエスの祈りの冒頭としています。



しかし、勇気を出しなさい(20607) ヨハネ16:25-33
イエスは、十字架の死によって弟子たちのもとからいなくなりますが、そのことを見越して、イエスは弟子たちに別れの言葉を述べます。
 33節のこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。この聖句はヨハネ福音書でも有名な言葉であり、この言葉によって、慰められたり、励まされたりされた方は多いと思います。
33節のこの聖句は14章から始まったイエスの告別説教の結びであり、終わりであります。
 イエスの告別説教の最後の段落は25節の、私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時がくる、で始まります。ここでこれらのこととは14章から始まるイエスの告別説教だけでなく、イエスの全生涯における言葉ととらえても良いと思います。10章には羊の囲いのたとえがありました。15章にはぶどうの木のたとえがありました。
 しかし、弟子たちはそれを完全に理解することはできませんでした。弟子たちがイエスの言葉を完全に理解するのはイエスの十字架と復活、そしてイエスは父の元に帰ること。昇天され、助け主としての聖霊が降ってからです。
 その時はもはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来るとイエスは言います。
 先週の日曜日、私達はペンテコステの礼拝を捧げました。聖霊が弟子たちに降って、この世界に教会が誕生した出来事です。
 聖霊が降ったことでイエスの言葉を理解し、父である神をも知ることが出来ると言います。
 さらに26節には、その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは言わない。イエスが弟子達と共に活動していた時はイエスが直接神に弟子たちの為に祈ってあげていましたが、その日には弟子たちがイエスの名によって直接神に祈ることが出来ると言います。
ここでその日とは終末だけのことを言っているのではなく、聖霊降臨の日をも。指しています。これはヨハネ福音書の特徴である、イエスがこの世界に来られたことによって、救いはすでに始まっていると言う、現在的終末論と言えるものです。
さらに父である神とイエスと弟子たちの一体性が言われます。その中心にあるのは愛です。それは福音書のおける中心ですが、ヨハネ福音書はそのことを強く言います。27節で父御自身が、あなた方を愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神の元から出て来たことを信じたからである。
28節でイエスは弟子たちに、私は父の元から出て、世に来たが、今、世を去って父の元へ行く。イエスは創造の昔から神と共におり、神の子でしたが、父である神から遣わされてこの世に来ました。神の子が受肉して人間となり、そして、十字架と復活の後、世を去って、父の元に行き、栄光を現わしました。
それに対して弟子たちは29節、今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。30節であなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、私達は信じます。
これは弟子たちの信仰告白と言ってよいものです。しかし、まだ聖霊を受けていない弟子たちは、この後、イエスを見捨て裏切ることになります。そのことをイエスは御存知でした。
30節の弟子達の答えに対してイエスは、31節から32節で今ようやく信じることになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする時が来ると言います。
弟子達は自信をもって、イエスを神の元から来た方であると、告白しますが、その自信がもろくも崩れ去る時が来ます。
事実、イエスが逮捕されると弟子たちは散り散りに逃げてしまいます。
これは旧約聖書の預言、ゼカリア書13章7節の羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。との預言が成就した出来事であると言われています。
人間の自信は神という絶対者を前にすると当てにならないということです。
しかし、このような自分を裏切った弱い弟子たちを、イエスは見捨てず、赦すことになります。
イエスの告別説教の最後の言葉33節のこれらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。
この言葉はイエスの生きた時代の弟子達の苦難と、ヨハネ福音書の書かれた時代の苦難をも語っています。弟子たちはイエスが逮捕され十字架に架けられたことで、絶望のどん底に陥ることになります。またイエスを裏切ったことによる悔恨と罪の意識がありました。
またヨハネ福音書の書かれた時代は、イエスを神と告白することによって、ユダヤ教の会堂から追い出される事態がありました。またローマ帝国からの迫害もありました。
しかし、イエスは復活によってこの世の悪、罪から勝利された。この世はイエスを否定しましたが、復活によって弟子たちは力づけられ、生き返りました。また父の元に帰ったイエスは助け主であられる聖霊を送り弟子たちを励まし、この世界にイエスの体である教会が建てられました。
キリスト教会の2000年の歴史も順調であったわけではありません。イエスを力強く証した弟子達も多くが殉教しました。しかし、この世界から教会がなくなることはありませんでした。
イエスが語ったのは神と共にある平和です。それはイエスの十字架の勝利によってもたらされるものです。人間が罪赦され、イエスを遣わされた神を信じ、神と共に生きることです。
預言書のエレミヤ31章には新しい契約という言葉があります。エレミヤ書31章34節には、その時、人々は隣人同士、兄弟同士、主を知れと言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主はいわれる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
この預言が新しい契約として、イエスによって成就されました。それはイエスの十字架の勝利によってなされるものです。
今、世界中が新型コロナ・ウイルスで苦しんでいます。苦難であると言えます。教会も例外ではありません。そのような中で教会はどうあるべきなのか、しかし、イエスは苦難の先にある希望と平和を語ります。そこの中心にあるのか、神の愛と十字架の勝利です。それはイエスを信じることによってすべての人にももたらせられるものです。今コロナ・ウイルスの影響で社会の寛容さが失われ、息苦しいような状態であると思います。しかし、イエスの十字架を信じる私達はイエスに罪赦された者として歩んでいきたいと思います。。




5月31日「一人一人を活かす」 使徒2章1節〜13節
                      深田 寛牧師
今日は聖霊降臨日です。教会の誕生日と言われています。
使徒言行録2章に聖霊が与えられた時の様子が記されています。

使徒言行録の著者は一章に、弟子たちは聖霊が与えられるまで、2つのことをしたと記しています。一つは心を合わせて祈りをしていた。もう一つはユダの死によって欠員になった弟子を、補充したことです。
今日、注目したいのは彼らの行為よりは、彼らの心の状態です。

彼らはイエスが十字架で処刑され時、逃亡したので罪責の念があり、それと支えを失い、挫折と不安を抱えていました。
そこえ復活をされたイエスが来られました。彼らは驚きと希望を得ました。
しかし、それも束の間、イエスは昇天され、彼らはイエスの姿を見ることが出来なくなりました。彼らはこれでイエスとの関係は終結したと思い、虚しく天を見上げたのです。
そんな彼らに、ユダが自死ともとれる謎の死が伝えられ、この不祥事はエルサレムの人に知れ渡りました。
彼らはイエスを失い、人々から懐疑の目で見られ、孤立していきました。
彼らは確かに弟子の補充もし、熱心に祈りもしました。しかし不安と孤立感をぬぐえなかったと思います。
彼らに残された道は祈ることしかなかったのです。彼らがどんな祈りをしたのか分かりませんが、「この虚しさから救ってください、これからの生きる目的を示してください」と祈ったと思います。
そんな彼らに聖霊が与えられたのです。
弟子の側の準備が整ったので聖霊が与えられたのではなく「救ってください」と祈りしかできない彼らに聖霊が与えられたのです。

使徒言行録の著者は、聖霊は風と炎を伴って、彼ら「一人一人の上にとどまった」と記述しています。
「皆に」とか「全員に」ではなく、「一人一人」です。唯一無二の一人一人です。不必要な人はひとりもいないことです。
聖霊は「救ってください、助けてください」と祈る、そのあなたがたが、神が必要とされていると語るのです。無価値な者が、神が必要とされる者と私たちの心に語リ掛けるのです。

この語りかけは弟子たちの意識を変えます。「神は私に何を与えてくれるか」から「私は神に何が出来るか」に変わります。聖霊はこのような変化を与える力です。
童謡詩人の金子みすずの作品に、「星とたんぽぽ」があります。                
青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、昼のお星は目にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ
彼女は自分に言い聞かせるように「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」と繰り返します。
役に立つようなことは何もないと思うのは間違いで、私たちには出来るものを秘めているのです。それを掘り起こしてくれるのが聖霊です。

聖霊降臨日の今日、私たちは自らの存在が、教会の働きに欠くことのできない存在でることを自覚したいと思います。聖霊は組織の充実、一定の規模の拡大などによって与えられるのではなく、「祈りしかできない存在である」ことを自覚した時に与えられ、私たちは変わるのです。




           悲しみが喜びに変わる(20524)    ヨハネ16:16-24
今日、久しぶりに、役員だけですが、試験的に共に礼拝を捧げることができることを感謝したいと思います。
新型コロナ・ウイルスの影響で、東京の教会などは、教会は閉じていますが、少数の長老、役員、奏楽者だけの少人数で礼拝を捧げているところが多いと言うことです。中には礼拝を行なわない教会、普通に礼拝を行なっている教会もあります。
それは、それぞれの教会で様々な考えがあると思います。私は、礼拝は神様に捧げるものですから、会衆がいなくても、牧師は、一人でも、礼拝は行うべきものであると思います。
 私達の属する、宮城北地区の教会は殆んどが、新型コロナ・ウイルスで非常事態宣言の出ている間は、礼拝時間を短くするなどして、礼拝を行なっていました。
 仙台松陵教会も、そのような形で礼拝が出来たと思いますが、仙台松陵教会の会堂は、元々、礼拝堂として建てられたものではなく、天上が低い、あまり広くないなどを考慮して、しばらくは私一人で礼拝を行なうことにしました。
その間、教会員の方々が、がまんしてくださったことにも感謝いたします。
 今日、試験的に4月5日の役員会で決まった事、また役員の提案をうけた形で、礼拝を行いますが、礼拝の後の役員会で、皆様の意見をお聞きしたいと思います。
 今、日本、全世界を襲っている新型コロナ・ウイルスは未曽有の出来事であると思います。ただ100年前のスペインかぜで、世界中で、日本でも多くの人が亡くなったと言われていますが、そのことを知っている人は殆んどいないと思います。当時の写真を見ますと、マスクをしている人が多くいたと言うことが分かります。当時の教会がどのような礼拝をしていたのか、記録があれば見てみたいと思います。
 今日、与えられた聖句は悲しみが喜びに変わる時という小見出しがついています。説教題も同じものにしました。今の私達の状況というのは、不安と恐れと閉塞感の中で生活していると思います。悲しみというより、怒り、誰に怒りをぶつけてよいかわからない、やるせない状態の中にあると思います。
 しかし、そのような中でも、今は、だんだん暗闇の中から光が、希望がすこしずつ見えてきた状況であると思います。
 今日の聖句はイエスが弟子たちに、自分が弟子たちのもとからいなくなる。別れが近づいていることを弟子たちに教えようとしたものです。しかし、弟子達にはイエスの真意がわかりません。
 今日の聖書で皆さんお気づきになったかもしれませんが、イエスの弟子達への言葉にしばらくすると、という言葉が何度も出て来ます。
16節でしばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。このしばらくはギリシャ語でミクロンといいます。今でもミクロいう言葉を使いますが、これは、小さいと言う意味です。ここでは、ほんの短い期間を指しています。
 ここでイエスが言われようとしていることは、この後、イエスはユダヤの指導者にとらえられて、十字架にかかり、命を奪われますが、3日後に復活する、そのことを言っています。
 しかし、弟子たちはその意味がわからずに、17節でそこで、弟子たちのある者は互いに言った。しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるか、またしばらくすると、私を見るようになる、とか。父のもとに行くとか言っておられるとは、何のことだろうと、言ったとあります。
 弟子たちがイエスのこの言葉の真意を知るのは、イエスの十字架と復活の後です。
 さらに20節でイエスははっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わると言います。弟子たちは、自分たちの師であり、また救い主と信じていたイエスが、逮捕され、十字架につけられたことで、悲嘆に暮れ、どうしたら良いか分からなかったと思います。また、イエスを裏切ったと言う罪悪感をもつことになります。
 またイエスの死はユダヤの指導者にとっては、表面的には勝利であり、喜びであったかもしれません。しかし、本当に勝利したのは、十字架から復活されたイエスであり、人間の罪、そのことによって定められた、死から勝利したということです。
 弟子たちの喜びとは、イエスが死から復活されたことだけでなく、復活されたイエスは天に上られますが、助け主、弁護者であられる聖霊を送ってくださる、聖霊による到来の意味もあります。
そのことが22節でところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と合い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
 ここで言われていることも、復活における出会いと共に、聖霊における到来です。聖霊における到来によって弟子たちは力づけられ、生前のイエスの言われていたことを、全て理解することになります。
 聖霊の到来によってイエスの啓示の出来事がすべて明らかになります。
23節で、その日には、あなたがたはもはや、私に何もたずねない。はっきり言っておく。あなたがたはわたしのなによって何かを父に願うならば、父はお与えになると言います。
イエスは今までは弟子達と一緒に行動していたので、イエスと神は一体であり、イエスの名によって願う必要はありませんでしたが、イエスが天におられることにより、イエスの名によって願うことが出来ると言うことです。
イエスは聖霊を私たちに送ってくださり、イエスの名によって願うことによって、与えられ、私達は喜びで満たされると言います。
 弟子たちがこの言葉によって、勇気づけられるのはイエスの死と復活の後ですが、この言葉を弟子たちは思い出して勇気づけられたと思います。
 私達の今の状況は、試練ですが、今まで当たり前のように捧げることのできた礼拝が、いかに尊いものであったかが今知ることが出来ると思います。
 悲しみが喜びに変わる。開けない夜はない。止まない雨はないといいますが。
次週の礼拝はペンテコステ、聖霊によって、この世界に教会が誕生した出来事です。聖霊は今も私たちを助けて下さる。悲しみが喜びに変わる。私たちを一人にはしておかない。その事を信じたいと思います。


           聖霊の働き(20517)    ヨハネ16:b-15
前回、15章18節から27節で、イエスは弟子たちに、この世から迫害を受けることを告げました。それは弟子たちがイエスを受け入れ、信じたことが理由でした。弟子たちがイエスを信じたことで、彼らはこの世に属していない。イエスの仲間であるから、イエスが迫害されるように、弟子達も迫害されると言うことです。この世とはイエスを信じない者、受け入れない者、またイエスを迫害する者であり、それはユダヤ社会そのものを表しています。
 イエスがこのように、弟子たちが迫害を受けることを語ることは、イエスが父のもとである神のところに帰る時が近づいたことによるものと、もう一つはそのような迫害がおきても、それが何故おきるかを説明し、迫害に耐えるように心づもりをし、弟子たちが躓かないようにするためでした。
 イエスが父である神の元にかえる。その時が近づいたことで、イエスは弟子達と別れる。弟子のそばにイエスはいなくなる。イエスが弟子達と共にいれば、そのような事を語る必要はありませんが、弟子達だけになって、どのように行動すればよいかを教える必要があったということです。
そのことを16章4節bで初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである、という言葉で語っています。ここで初めからとは、ヨハネ福音書の初めからであり、イエスが公生涯を開始し、弟子達と出会った時からです。その時から受難前に至るまで、弟子たちはイエスと一緒にいました。
 一緒にいる間、イエスは、人の子が上げられることについて語りました。それは、イエスの栄光を預言するものでした。しかし、その栄光が十字架という形をとることについては、弟子達は、予想もしなかったことです。しかし、イエスはここで初めて真実を語ることになります。そして、弟子達もイエスと同じ道をたどることを明らかにします。
 5節で今わたしは、わたしをお遣わしになった方の向こうに行こうとしているが、あなた方はだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。弟子たちは、イエスが御自身を派遣した方、父のもとに帰って行くことを理解したので、もはやだれも、尋ねようとはしないと言うことです。 弟子たちは、イエスのこの言葉を聞いて悲しんだと思いますが、イエスは、このことが弟子の為になるといいます。
そのことは7節で、しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者はあなたがたのところに送る。ここで弁護者と言われるものは聖霊を指しています。また助け主と言われるものです。ここではイエスが父のもとに帰る、去って行けば、そのことによって弁護者、助け主としての聖霊が弟子たちの所に来る。そのことを言っています。
 弁護者としての聖霊の働きによって3つの事が明らかにされると言います。
8節のその方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにすると言います。ここで弁護者という法廷用語が出て来ます。ここでは法廷の意味があります。それは、この世、人間における法廷ではなく、神の法廷です。神が裁くと言うことです。そこで、弁護者である聖霊は何が罪であり、義であり、裁きであるかをはっきりさせるといいます。それはまた世の誤りをも明らかにするものです。
 罪とは神から派遣されたイエスを信じないことであり、またヨハネの教会が宣教し、イエスを証しているのに、そのことを信じないことです。義とは、イエスが父のもとに帰り、弟子たちがイエスを見なくなることです。イエスは父のもとに帰ることによって、地上の弟子達の目に見えなくなりますが、弁護者、助け主である聖霊によって、その栄光が明らかにされます。弟子たちは、その父と子の栄光に与ることができます。
この世、ユダヤ人は、十字架につけられたイエスを神に呪われた者と考え、その弟子達、ヨハネの教会をも異端とみなします。しかし、聖霊によってイエスと弟子達、さらにヨハネの教会をも正しいものであることを明らかにされます。イエスの死は、世が思っているのとは違って、敗北ではない。イエスの死は神の正しさを証明するものです。そのことはイエスの業によって明らかにされます。
 裁きとは、この世の支配者が断罪されることです。この世の支配者とは、ユダヤの指導者を指していると考えられます。事実、イエスは十字架において、彼らに裁かれました。しかし、弁護者である聖霊は、彼らこそが裁かれる者であることを明らかにします。イエスの天への帰還による栄光の啓示は、この世の策略を打ち砕くものです。
 ヨハネの教会も、福音書の書かれた時代、敵対するユダヤ教会から迫害を受けますが、神の法廷においてイエスとイエスに属する者が勝利することを明らかにします。
 地上のイエスの時点で、弟子たちの無理解が指摘された後、12節から15節では、弟子達の共同体、ヨハネの教会を真の理解に導く聖霊の働きが、再び取り上げられることになります。真理の霊は、弟子達を導いて真理をことごとく悟らせる。それは同時に、世の虚偽を暴露することでもあります。そして、真理の霊はイエスにおける神の啓示に新しいことを付け加えることではなく、あくまでも、イエスの栄光の出来事、十字架の受難、復活、天に上げられることを告知するものです。
弁護者である聖霊をどのように理解するのか、それは復活後のイエスが父のもとに帰る。弟子たちはイエスという指導者を失い、彼らはどのように生きて行けば良いのか。そのような中で、助け主としての聖霊を送ってくださると言います。聖霊はイエス亡き後、イエスの言葉を語り、思い起こさせるものとして描かれます。
 福音書記者はイエスの死、復活、昇天を終わりではなく、信仰共同体の新しい生の始まりでもあります。イエスの死は弟子たちを孤児にするものではありません。イエスと神は聖霊を信仰共同体である教会に送ります。イエスは世を去りますが、聖霊はイエスを信じる者を永遠に支え続けます。
 聖霊の働きの中心は、イエスの人格と出来事の意味を正しく理解し、その意味を告知することにあるとしています。福音書記者自身、その聖霊に導かれて、この福音書を執筆しました。
 12節の言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方は理解できない。この言葉はイエスの地上の間の教えが弟子達には理解できないことを言っています。聖霊は、イエスの地上での生涯の間、隠されていた事実を啓示するものです。イエスの栄光が完全に明らかにされるためには聖霊が必要であると言うことです。
 15節では、父と子の一体性を述べています。それこそが、聖霊がイエスのものを受けて弟子たちに告げることによって、イエスに栄光を与えることの根拠になります。このような父と子の聖霊の一致は、後の三位一体論に繋がっていくものです。
 聖霊は、現在もわたしたちの教会において働いています。それはイエスを知り、まだイエスを知らない人に、信仰に導く働きです。これはイエスが復活されて父のもとに帰った後、今も、2000年の間、働いているものです。
 5月31日は聖霊降臨日、ペンテコステですが、聖霊の働きによってこの世に教会が建てられました。今、わたしたちはその教会に集うことはできませんが、教会員の一人、一人に弁護者、助け主としての聖霊が働いてくださることを覚えたいと思います。

         
       迫害の予告(20510)        ヨハネ15:18-16:4a
イエスはこれまで、弟子たちに愛について語ってきました。ぶどうの木の譬を通して、その中心にあるものはイエスとつながること。それはイエスの愛に留まることであり、それが私の掟であるとイエスは弟子たちに語りました。愛することがすべてのものに優ることを語ってきました。
 しかし今日の聖書でイエスが語ることは、その反対である、憎しみです。今まで、愛を弟子たちに語っていたイエスが憎しみを語ることは、そのことが逃れることのできない現実であり、そのことが、これから起こることを、イエスは予め弟子たちに伝えておくことが必要であると考えたからでした。
 初代キリスト教会の伝道が最初から順調に行ったわけではなく、聖書を読みますと、それは苦難や迫害の連続であったことが分かります。その苦難や迫害の根底にあるものは無理解と憎しみです。では、だれが、だれを憎むのかというと、憎まれるのはイエスや弟子たちであり、憎むのはこの世であるとされています。
 この世とは、ヨハネ福音書において多く用いられる言葉です。この世は一般的に被造物世界を指すと見られる場合もありますが、ヨハネ福音書において大多数は、神あるいはイエスに敵体、反抗する世界、力、勢力を指しています。
 このように神、イエスに敵対する勢力は、イエスが弟子たちと愛において一体性にあるなら、イエスがこの世に憎まれたように、弟子たちもこの世に憎まれるといいます。
 そのことが18節で、世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさいという言う言葉です。ここで世と言われているのは、イエスに敵対する勢力ですが、一般的にはユダヤ人を指しています。具体的には福音書の登場する群衆、ファリサイは、長老、律法学者、祭司長、下役、役人などすべてののユダヤ人を指していると考えられます。
 ユダヤ人たちは、イエスを理解することができなかった。それは彼らがこの世に属する者であったということです。ですからイエスを迫害し、十字架に架けることをしました。そのイエスと同じように弟子たちも迫害を受ける。それは弟子たちがイエスと同じようにこの世に属していなかったからです。
 そのことが19節で、あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのであるとの言葉です。
 このとはヨハネ福音書においては、伝道の対象ですが、またイエスを拒むものであることが言われます。イエスはこの世を愛されましたが、この世はイエスを受け入れることができなかっイエスを受け入れることができないということは、イエスをお遣わしになった方を知ろうとしない。受け入れることができないということです。そのことがイエスと弟子たちとの一体性において、弟子たちへの迫害へとつながっていきます。21節で、しかし人々は、私の名の故に、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。
 イエスはユダヤ人に御自分が神から遣わされたものであることを、数々の奇跡、しるしというものを多く示されました。イエスはカナでの婚礼における水をぶどう酒に変える奇跡から、病人の癒し、5千人給食の奇跡、ラザロの復活など、多くの奇跡を行いました。しかし、その業を見ても信じない。この世といわれるユダヤ人の罪は重いと言います。
 そのことが24節で、だれも行ったことのない業を、私が彼らの間で行ったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見た上で、私と私の父を憎んでいる。この業とはイエスの奇跡と共に、イエスの十字架と復活も含まれています。そして、そのことが25にあるように律法で預言されていたことの成就であるといいます。それは、『人々は理由もなく、私を憎んだ』と、かれらの律法に書いてあることが実現するためであると言います。
 これは詩編35編19節、69編5節からの引用です。
 このことは、世、ユダヤ人の憎しみが定められた出来事、神の計画であるということです。救いは旧約聖書において完成されたものとはいえず。救いはイエス・キリストまで待たねばなりません。旧約聖書はそのイエスを証ししているものです。そのようにイエスの弟子というだけで、迫害を受けるものたちに、イエスは救いの手を差し伸べるといいます。
 それは真理の霊といわれるもので、26節で言われる、私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとからでる、真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなされるはずであるといいます。ここではイエスは真理の霊、聖霊を送ってくださる。この世において先に選ばれたものは聖霊に力づけられ、証をされる。今や、弟子たちは証人として立つことが述べられています。
 また16章1節で、初めからこれらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないようにするためであると言います。今日の聖書で言われる迫害とは、イエスの生きた時代の迫害と共に、ヨハネ福音書の書かれた時代の迫害をも述べているものです。
 16章2節には、人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺すものが皆、自分は奉仕していると考える時が来る、といいます。迫害の予告躓くものを出さないためでした。ここで会堂追放ということが言われます。これは紀元90年頃のヨハネ福音書の書かれた時代教団と、ユダヤ教会堂との対立をのべているものです。
 イエスを神、あるいは神と等しい者であることを告白することによって、それがユダヤ教の唯一神信仰と対立することで、ユダヤ教会堂を追われ現実を語っているものです。イエス亡き後、弟子たちは聖霊づけられ、困難の中、伝道していきました。その中で多くの者が殉教しました。ペトロやヤコブなどの直弟子、パウロも殉教したと言われています。
 さらに、ヨハネ福音書の書かれた時代も、ユダヤ教会堂との対立において、ヨハネ教団を離れ者があった。そのような歴事実、さらに現在の困難な状況を踏まえて、動揺する信徒に、このような迫害が起こるのは、キリストを信じる者であるならば当然のことであると、力づけ、励ましているものであると思います。
 現在の教会の状況も困難な状況です。コロナウイルスという見えない敵と戦っています。教会員が共に礼拝を捧げることのできない状況です。しかし、このような状況であるからこそ、ぶどうの木の枝のように、イエスとしっかり繋がっている者でありたいと思います。このような時こそ、教会の力が試される時であると思います。今も、聖霊においてイエス・キリストは教会におられます。私たちの為に聖霊を送ってくださいます。そのことを信じて、私たちの為に十字架にかかってくださった、イエス・キリストの愛とつながり、その愛の中に留まるものでありたいと思います。

イエスはまことのぶどうの木(20503)       ヨハネ15:1-17
旧約聖書においてイスラエルは、よく、ぶどうの木に譬えられました。それはパレスチナにおいてはオリーブと共にぶどうは昔から多く栽培されており、そのような譬えの方が聞く者が理解しやすいと考えたからであると思います。
イザヤ書5章2節では、神はぶどうの手入れを良くし、良いぶどうが実るのを待ったが、実ったのは酸っぱいぶどうであったことが記されています。それはイスラエルが神の言う事を聞かなかったことの結果でもありました。そのような旧約聖書の譬えの引用から、今日のぶどうの木の譬えは来ているかと思われます。
1節で私はまことのブドウの木、私の父は農夫である。ここでイエスは御自分のことを、まことのぶどうの木であると言います。そして御自分の父は農夫であるといいます。ここではぶどうの木が旧約のイスラエルから、イエスに譬えられています。そして農夫である御自分の父は神であるということです。
さらに2節で私につながっていながら、実を結ばない枝は、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものは皆、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる、と言います。ここで言われる幹から延びる枝は弟子たちのことを譬えています。
 今日の聖書は、農夫である神、ぶどうの木であるイエス、そして枝である弟子たちの三様をぶどうの木の譬えとして、その結びつきの意味を描いているものです。その結びつきと、一体性において良い実を結ぶことが言われています。
 しかし、2節でイエスは私につながっていながら、実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる。この言葉は現実にぶどうを栽培するときの剪定のことを指しています。ぶどうの栽培において剪定が重要であるといいます。ぶどうの木が良く実を結ぶように世話をする農夫は、古い枝と実を結ばない枝を切る、剪定する必要がありました。ぶどうの木は剪定されないと多くの実をつけません。
この言葉は父である神の裁きの意味合いの強いものですが、これはイエスを裏切るイスカリオテのユダを暗示していると言います。さらにヨハネ福音書の書かれた時代、ヨハネ教団がユダヤ教から異端の宣告を受けると、キリスト教から離れてしまった。それはまことのぶどうの木であるイエス・キリストに本当に結びついていなかったと言えます。
しかし、イエスは裁きを語られますが、3節で私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっているといいます。この言葉は13章10節のイエスが弟子たちの足を洗った、洗足の出来事を思い起こさせるものです。最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われたイエスは「すでに体を洗った者は、足の他は洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ」、と語られました。
ここでも主にある者は、主イエスの言葉によって清くされている。このことはイエスのすべて、それは福音と置き換えることが出来ますが、そのことによって、すでに清くされていると言います。
そのことが現実として、為されていることが教会であると思います。教会はイエスの体であり、それはぶどうの木として譬えられていますが、私達はそのイエスの体であるぶどうの木につながる枝であります。
それは4節の、私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなさい、と言います。
そのことは、教会はイエスに養われる群れであることを言っています。私達はイエス・キリストを離れては何もできない。豊かに実を結ぶことのできない存在です。それは信仰といっても良いものです。イエスにつながっていれば、信仰が豊かに実を結ぶことを言います。
ではイエスにつながるということは、どのようなことなのか。イエスにつながるということは、イエスを信じることです。このつながるという言葉の原語は留まるという意味があります。そこから。このつながるという言葉はイエスの愛に留まりなさいと言うことです。イエスの十字架の愛の中に留まりなさいと、いうことです。しかし、イエスにつながっていない者、それはイエスの愛の中に留まることのできない者ですが、その者は裁かれると言います。
そのことが6節で、わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう、と言います。ここでイエスは終末の裁きを語っているのではなく、現在イエスにつながっているかどうかによって裁きが下されることをいいます。それは教会からの追放ということではなく、神の救いの出来事、イエスの啓示を信じるか否かによって、イエスの愛の中に留まることが出来るかによって、救いか、滅びに分かれるということです。
父と子と弟子の一体性の中心にあるものは愛であり、そのことを9節から10節で父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる、と言います。
ここでイエスが言われる私の掟とは、12節にあるように、私があなたがたを愛したように、互いに愛しなさいと言う、ことです。そして、その究極の愛が13節の友の為に自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はないと、言うことです。それは私達の為に御自分の命を捧げられた愛、それは十字架の愛に根差すものです。
ぶどうの木の譬えの中心にあるものは、愛における一体性です。それはイエスの愛に留まることです。それがイエスと繋がって行くことです。それはイエスの体である、教会において為されるものです。そのことを感じ、知ることができるのは礼拝です。
今、私達はその礼拝を教会員の方々と捧げることのできない状態が続いていますが、私達の罪の贖いの為、救いのために十字架に架かったくださったイエスの愛、神の愛を信じ、祈り求めるものでありたいと思います。
神はその為に、私たちを選んで下さいました。このような困難な状況にあっても、その神の愛に、ぶどうの枝が木にしっかりとつながっているように、つながり、留まるものでありたいと思います。




       真理の霊(20426)    ヨハネ14:15-31

ここでイエスが何を言おうとされたのか。やがてイエスは父のもとに帰る。そうすれば弟子達だけが残される。師であるイエスを失った弟子たちに、どのようにすればよいかを、イエスが語ったものです。
18節でイエスは、わたしは、あなたがたを、みなしごにしてはおかない。あなたがたの所に戻ってくる。イエスはやがて父のもとに帰りますが、あなたがたを一人にしてはおかないといいます。ここで言われる、あなたがたの所に戻ってくるというイエスの言葉は終末におけるイエスの再臨というよりも、聖霊における現臨という意味合いの強いものです。
 それは15節における、あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る。というイエスの言葉が最初にあります。それはイエスが洗足で互いに足を洗うということを弟子に教えた行為です。それは13章34節のあなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。ということです。
 そのことを守るならば、イエスは16節でわたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。と言います。この弁護者という言葉は、パラクレートスと言いますが、本来の意味は傍らに呼ばれた者という意味で、法廷での弁護者、代弁者を表す言葉になりました。しかし、慰めを与える者、教えを与える者という意味も考えられ、広い意味で助け主と言うことも考えられます。
 しかし、ヨハネ福音書においては、聖霊におけるキリストの現臨ということを考えると、福音書記者は、現在、ヨハネ共同体の中で、イエスの業を引き継いでいる聖霊をそのように呼んでいると考えられます。
そしてこの霊は17節で真理の霊であると言います。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。この弁護者、助け主である霊は、真理の霊であるといいます。真理の霊であるということはイエスが何者であるかを人々に悟らせるものです。
 しかし、世はこの霊を見ようとも、知ろうともしなかった。この世とはイエスの時代のユダヤの宗教指導者、ファリサイ派や律法学者であり、またヨハネ福音書が書かれた時代のユダヤ教とキリスト教の対立の中のユダヤ教であると考えられます。しかし、ヨハネの教会に属する者は霊を通してイエス・キリストを知り、見、そして信じる者であることを言います。
イエスは、この後、十字架に架かるのですが、そのイエスの死の現実の中で、喪失感に陥いるであろう弟子たちに対して、気落ちすることはないと言う慰めの言葉に於いて、イエスはあなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に戻ってくると言います。これは十字架の後の復活の意味も含まれていますが、復活されたイエスが天に上り、父の元に帰る。やがて聖霊を送ってくださる、聖霊における現臨の意味の強いものです。
また、この言葉はヨハネ福音書の書かれた時代のヨハネ教団の現実をも表している言葉だと考えることができます。イエスを神、主であることを告白することにおいて、ヨハネの教会はユダヤ教の会堂から追われることになった。そのような中での慰めと励ましのことばが、このあなたがたをみなしごにしては置かないと言う言葉であると思います。
  19節の、しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになると言います。ここでしばらくするとは、終末的に用いられているのではなく、イエスの十字架の死と復活の出来事を指していると考えられます。イエスが死んで葬られたならば、世はもはやイエスを見ることはできない。しかし弟子たちに対してイエスは復活の体で表われるので、弟子たちはイエスを見ることが出来ると言うことです。
20節のかの日には、わたしが父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなた方の内に居ることが、あなたがたに分かる。と言います。かの日とは終末論的な言葉ですが、ここでは未来の終末論的なイメージはなく、父の子の一体性が弟子達、共同体である教会にまで及ぶことが言われています。
イエスの復活において、イエスと弟子たちの交わり、結びつき、共存は、父なる神から御子イエス・キリストを通して教会へと至る、神は生きておられると言う連続性の中にあるものです。そして、その一体性の中心にあるものは、イエスが何度も繰り返す掟、その中心にあるのは愛であることが言われます。
それは21節で私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。わたしもその人を愛して、その人に私自身を表すと言います。ここで言われることも、愛による父と子と共同体、教会の交わりは、連続性、一体性を持つことが言われます。愛が無ければ何事もなされず、何事も起きはしないと言うことです。
弟子達には、イエスはこのような言葉でご自分を表しますが、そうでない者、それは世という言葉で表しますが、イエスを否定し、またイエスを受け入れないものがいることを、22節でイスカリオテでないユダの方が、主よ、わたしたちにはご自分を表そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、何故でしょうかと、疑問を挟みます。この世とはイエスに敵対する勢力ですが、それらの者にご自分を啓示なさらないのは何故ですかと問うていると言うことです。
そして、その問いに対する答えの中心にあるものは愛ということです。イエスを受け入れないものは、愛を中心とした、神と父と教会という共同体の交わりの中に入ることができない。
そのことを23節から24節で、私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む。私を愛さないものは、私の言葉を守らないと、言います。これらすべての事は聖霊の力によってなされるものです。それは弁護者、助け主としての聖霊です。
そして14章27節からのイエスの決別説教の最後の言葉は、あなたがたに平和を与えるというものです。この平和という言葉はヘブライ語のあいさつ、シャロームと関わりのある言葉です。イエスが地上を去るに当り、弟子たちは不安に陥るかもしれないが、聖霊により助け主を送ってくださる。そのことにおいて弟子達、これは私達、現在の教会をも含めて、平和、平安を与えて下さる。満ちたり、不安を感じることはない。魂の安息を得られると言うことです。
これらはイエスがこの世界に来られたことで為されるもので、究極の救いです。それはイエスの十字架と復活によって為されたものですが、今でもイエスは助け主としての聖霊を送ってくださり、神と私達との橋渡しをしてくださる方です。それは真理の霊であり、神の啓示を私たちに知らしめてくださるものであり、私たちを平安と救いを与えて下さるものです。
 今、この世おける教会も新型コロナ肺炎で不安な時を過ごしていますが、イエスは今も教会に聖霊として現臨され、助け主として、真の霊として、この時を働いて降る方であることを信じたいと思います。


   イエスは父に至る道(20419)   ヨハネ14:1-14

今日の聖句は弟子たちとの別れが近づいていることを見越して、イエス様が弟子たちに語った言葉です。その前にはユダの裏切りの予告、ペトロの否認、イエスの別れの言葉があり、弟子たちは動揺していたと思います。その中で語られたのが今日のイエスの言葉です。それは弟子たちとの別れを前にした決別説教と言われるものです。
 1節で心揺れる弟子たちに対して、心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさいと、といいます。イエスは彼らの不安に対して信じること、信仰することの大切さを言っています。そしてイエスを信じることは神を信じることであり、イエスを見ることは神を見ること。神とイエスとの一体性が強く宣べられます。
 イエスと神との一体性、結びつきを強く示しているのが、2節の私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために住む場所を用意しに行くと言ったであろうか、との言葉です。ここでは十字架に上げられて天、父のもとに帰るイエスの目的が語られています。それは、父がいる天において、弟子たちの住むところを用意するということです。神から派遣され、天に帰って行くイエスは、弟子たちの為に天に住居と場所を用意し、彼らをも父と子の交わりに入れようとされます。
 さらに3節で行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなた方もいることになる。ここでは終末におけるイエスの再臨が語られているように見えますが、ヨハネ福音書においては、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書とは意味合いの違いがあります。
 それは聖霊におけるイエスの現臨ということです。今年の5月31日はペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊の働きによって、この世界に教会が出来た。そのことをお祝いするものです。イエスは十字架のあと復活され、40日弟子たちと共に行動されますが、聖霊を約束して天に帰られます。その聖霊の働きがヨハネ福音書において重要なことです。そのことをイエスが語っているものです。
 しかしこの説明で弟子たちは、イエスの真意を理解することはできませんでした。4節でイエスは、私がどこへ行くのかその道をあなた方は知っている、といいます。それについて答えたのが5節のトマスの言葉です。トマスは、ヨハネ福音書では、イエスの復活をその手に釘跡を見なければ信じないという、疑い深いトマスとして有名ですが、そのトマスが、主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか?とイエスに問います。ここでトマスは、イエスの言葉、道という言葉をそのまま地理的ないみでとらえています。ここでイエスが道という言葉で言おうとしたことは、そのような意味ではなく、イエスご自身が道であるということです。それは信仰の道であり、救いの道でもあります。
 それを端的に答えたのが6節のイエスの言葉です。イエスは言われた。私は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。との言葉です。イエスこそは神を知り、神の思いを知る唯一の方である。イエスを知ることは神を知ることであるということです。神の一人子であるイエス。イエスは神から遣わされた方であるからこそ、イエスは、私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ないと、言えるということです。ここでも父である神と、子であるイエスとの一体性が言われます。
 そして7節であなたがたが私を知っているなら、私の父を見ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ていると言います。ここで知る、見るということは、信じるということとほとんど同じ意味です。イエスの為された業と教えが、神の御旨と業を示しており、このことを理解するのは信仰のみであるということです。見るということは、外面的に神の姿を人間の目で見るということではありません。旧約においては神を見た者は死ぬと言われました。出エジプト記33章20節の神とモーセとの出会いにおいて、あなたは私の顔を見ることはできない。人は私の顔を見て、なお生きていることはできないからであると、神は言われました。しかし、私たちはイエスにおいて神を見ていると言えます。
 知るということも単なる知識ではなく、神との交わり、人格関係です。それはイエスとの出会いによって為されるものです。そこには信じるか、信じないとの決断が求められるものです。しかし、ここでも弟子の一人であるフィリポがトマスと同じように愚かな質問をします。8節でフィリポがイエスに、主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できますと言います。フィリポはイエスに直接神を見せてくださいと願いました。それはすべての人間にとって大きな願望であるかもしれません。しかし、神の被造物である人間が神を見たいなどどいうことは愚かな願いであると言えます。
 その願いに対してイエスは怒ります。9節でフィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、私たちに御父をお示しくださいというのか。ここでもイエスは父である神と同一であり、一体であることを再度述べます。10節で私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。といいます。
 ここで言葉と業という言葉がイエスによって述べられます。言葉とはイエス語る言葉であり、それは神の言葉です。それはイエスの宣教の言葉ですが、ここで語られることは父と子の一体性、神と子の一体性が言われます。それはヨハネ教会の中心的使信でもあります。それは、ヨハネ福音書の書かれた時代のユダヤ教との対決の中で、自分たちの信仰の中心とは何かということを、はっきりと述べることでした。さらに業が言われます。業とはヨハネ福音書に記されているイエスのしるしであると考えることができます。福音書記者はしるしを行うイエスに神を見、父との一体性の根拠を見て取りました。
 さらに12節でイエスは、はっきり言っておく。私を信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父のもとへ行くからであると。ここでイエスを信じる者に与えられる大きな業とは何か。これはイエスが神のもとへと帰った後に、弟子たち、それは現在の私たちの教会にも言えることですが、それは聖霊の働きと考えることができます。その聖霊の働きにおける宣教の業と考えることができます。
 イエスは父のもとに帰る前に、弟子たちに心を騒がせるな、心配ないと言います。しかし、弟子たちはイエスの真意を正しく理解することができません。それですから、トマスやフィリポが的外れな質問をイエスにします。弟子たちがイエスの真意を正しく理解するのは十字架と復活の後ですが、それでもイエスは愛する弟子たちにそのことを教えようとします。
 イエスは、私を知ることは、神を知ること。私は父に至る道であると言います。今まで神を見た者はいませんでした。しかし、イエスを通して、私たちは神を見、神を知ることができます。言が受肉された。神が人となったイエスにおいて、私たちと神との関係は決定的に変わりました。神は私たちにとって遠い存在ではなく、声を聞き、触れることさえできるできる存在です。今イエスは神のもとにおられますが、聖霊において、教会に現臨される方です。そのことから言えば、イエスは今も聖霊において働いてくださり、神と私たちを結び付けてくださる方です。
 イエスは弟子たちに心を騒がせるな、といいます。私たちは今、新型コロナウイルスで不安な時を過ごしています。礼拝もままならない状態です。しかし、教会にイエス様は見えないですが、おられます。聖霊という形で今も、この時も働いてくださいます。そのことを私たちは信じたいと思います。信じることでイエスは父に至る道であることが、真実であると知ることができます。

      キリストの復活(20412)     マタイ28:1-10
イースターおめでとうございます。
仙台市内は桜が満開で、市の中心部はもう散り始めているかと思います。しかし、仙台松陵教会の周りや、東北学院大学の泉キャンパスの桜並木は今が満開です。例年ならば多くの人達が花見に繰り出し、町はにぎやかなのですが、今年は、新型コロナウィルスの影響で自粛要請もあり、町は閑散としています。
イースターはその年によっても違いますが、だいたい3月の終わりから4月の初めに行われることが多いものです。ヨーロッパなど冬が長く、寒く、暗い地域では、イースターの頃になると、日が長くなり、太陽の日差しが強くなり、暖かくなります。それは命の輝きの時であり、動物が活動し始め、新芽が出、成長します。それは長く、暗い冬を過ごした人たちにとっては喜びの時であり、解放の時でもあります。
今、現在、ヨーロッパは日本より、新型コロナ・ウイルスの被害が大きく、教会の多くは、教会を閉じていることと思います。人々が長い冬から解放されて活動的になるのに外出を制限され、重苦しい時を過ごしていると思います。世界中が、このような苦難の時を過ごしていますが、キリスト者にとって最大の喜びであり、希望である、復活の出来事を共にかみしめてみたいと思います。
イエス様が、ゴルゴダの丘で十字架刑に架けられたのは、ユダヤの過越しの祭りの時でした。それは現在の3月の終わりから4月の初めに当ります。イエス様はローマの反逆者として、死刑のなかでも最も残虐な十字架刑によって亡くなりました。
イエス様を死んでも見捨てないと言った弟子たちは、イエス様が逮捕されると散り散りになり身を隠していました。イエス様をダビデのような救い主と信じた人々にとって、信じられないような惨めな最後でした。弟子たちはそのことを信じることが出来なかったでしょう。そのような中で、その死の最後までイエスに従ったのは何人かの女性でたちでした。
イエス様が十字架に架けられたのは金曜日でした。金曜日の日没から土曜日の日没までは、ユダヤの安息日ですから何もすることはできません。イエスに最後まで従った女性たちは、安息日の明けた週の始め、日曜日の明け方にイエスが葬られている墓に向かいました。
そのことが1節で、さて、安息日が終わって、週の初め日の明け方に、マクダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に言った、とあります。ここには2人の女性がでてきます。マクダラのマリアとは福音書すべてに出てくる名前ですが、ルカ福音書8章2節では7つの悪霊をイエス様に追い出してもらった女性として、出て来ます。またマリアとはイエスの母マリアではないかと言われています。
イエスの葬りは祭司長やファリサイ派の人達によって周到に準備されました。
それはマタイ福音書27章63節から64節にあるように、閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていた時、自分は3日後に復活すると言っていたのを、私達は思い出しました。ですから、3日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、イエスは使者の中から復活した、などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになりますと、そのことを心配して、イエスの墓には石で封印をし、番兵をおいたとあります。
そのような状況の中で2人の女性はイエスの墓に向かいました。この2人の女性が何のためにイエスの墓に向かったかは、マタイ福音書には記されていません。マルコ福音書では女性たちがイエスに油を塗りに行くために香料を買ったとありますが、マタイ福音書でも同じようにイエスの葬りの準備を自分たちの気のすむようにしたかったかもしれません。
2人の女性が墓を見に行くと、2節で、すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座りました。地震は神の顕現、現れであり、天使は神の使いです。その天使の姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったといいます。それを見て番兵は恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと言います。イエス様の復活に対して、番兵が死人のようになった、とは面白い対比であると思います。
弟子たちはすでに逃げ出していますから、この2人の女性の行為は、最初の主の復活の証人となりました。当時、ユダヤ人の法廷では、女性たちは法的資格のある証人とは見なされていなかったので、このことは驚きのことです。その出来事はイエスに付従った女性たちにとっても驚きのできごとでした。
イエス様は前もってご自分の復活を予告されています。マタイ福音書16章21節には、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたとあります、それに対してペトロがイエスをいさめたということが記されています。
そのことを女性たちが知っていたかはわかりませんが、知っていたとしてもそのことが現実に起きることが信じられないことであったと思います。天使は女性たちに驚くことはないといいます。そして女性たちに命じます。7節でそれから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あのかたは死者の中から復活された、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」との使信です。
8節で婦人達は、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていったとあります。復活の出来事は女性たちに喜びと共におそれでもあります。
復活されたイエス様は、その女性たちに現れます。ガリラヤにこのこと知らせるために急いでいる、女性たちにイエス様は現れます。9節ですると、イエスが行く手に立っていて、おはようと言われたので、婦人達は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏したとあります。ここでイエス様がおはよう言った言葉は、喜ぶという意味があります。イエス御自身が弟子たちに喜びなさいと言っているということです。
イエス・キリストが十字架に架けられたことで、気落ちし、打ちひしがれている弟子たちに喜びなさいと言っていることです。自分たちがメシア、救い主であると思っていたイエス様が、みじめに十字架の上で死んだ、そのイエス様が今、自分の目の前に現れている、そして、喜べとあいさつを送る。そして、弟子たちに、イエス様は先にガリラヤで待っている。それはイエス様を裏切ったと思っている弟子たちにとって、喜びの出来事です。
聖書を始めて読む人達にとって、このイエス様の復活の出来事はすぐには信じられないことであると思います。科学的な常識からすれば、信じられないことです。しかし、信仰は科学ではありません、信じるか、信じないかと言うことです。イエス様を裏切った弟子たちは、このイエス様の復活に力づけられ、殉教覚悟で伝道することになります。イエス様の復活の出来事は罪の為に死すべき人間が、イエス様が復活されて、死に勝利されたことで、私達もそのことを信じることで、永遠の命の希望を与えられた出来事です。今、世の中は新型コロナ・ウイルスの影響で重苦しい、不安の時を過ごしていますが、この時、死に勝利された、イエス様を復活させられた神の力、神の愛を信じて歩みたいと思います。