イエス様がおられた当時のユダヤ教には、礼拝する場所は神殿と会堂があり ました。神殿は年に一度行く所、犠牲の動物を捧げる所です。会堂は、人々が 生活をしている街の中に建てられ、聖書を読んで礼拝をします。ユダヤの人々 には、この会堂は馴染み深い所です。神殿は、ユダヤ教の総本山のような位置 づけです。人々を圧倒する壮大な建築物、神様の力や威厳を示しています。今 日の箇所でイエス様は、この神殿がなくなる時が来ると言われています。
十字架にかかる前、イエス様がエルサレムの神殿に行かれた時は、神殿で商 売をしていた人たちを追い払うということをされました。貧しい人を苦しめる
ような場所であるならば、神殿はない方が良いと思っておられたのです。
神殿が人々を苦しめる場所になっている原因は、神殿で献げ物をするにも、 礼拝をするにも、律法に定められているいろいろな細かな規則を守らなければ
ならないからです。礼拝する人たちの振る舞いや作法、さらに神様の前に汚れ てはならないのです。
汚れているかどうかという考え方は、ユダヤの人々の普段の生活の中にも及 んでいました。イエス様は罪人と呼ばれる人たちの友になりました。罪人には
悪い行いをした人もいますが、律法に照らしてみて汚れているとみなされた人 たちです。神殿があるということが、日々律法を守るべきだと人々に圧力をか
けていました。
5節で、イエス様は、人々の目を奪う豪華絢爛な神殿がなくなる日が来ると 言われました。神殿がなくなり、人々を苦しめている律法もなくなる時が来る
と言われているのです。今苦しんでいる人も、神様に大切にされる時が来ると 言われるのです。さらに7節以下では、この世界が神様の救いに与る日、終わ
りの日に、神様は新しい神殿を与えてくださると言われました。その新しい神 殿こそが、神様に喜ばれる礼拝をする場所だというのです。
では、神様が与えてくだされるという新しい神殿とは、どんなものなのでし ょうか。それを考えるヒントが、1節以下のレプトン銅貨一枚を捧げた人です。
イエス様は、どんな建物が、どんな建て方が神殿にふさわしいかということ よりも、人々が今のような神殿や細かい規則に基づくのではない、新しい思い
をもって人々が礼拝するようになること、それを新しい神殿、真の礼拝をする 神殿だと言われているのです。
レプトン銅貨一枚を捧げた人、この人の姿、この人の胸に秘めている思いを もって礼拝する人たちが神様の喜ばれる礼拝をするのだし、そのような思いを
もってすべての人が礼拝をするようになる時が来ると言われているのです。
このレプトン銅貨一枚を捧げた人は、これくらいしかできなくてごめんなさ いと思っているのでしょう。もし自分を卑下する思いでいっぱいならば、捧げ
ることもやめてしまうこともあるでしょう。しかし、この人は捧げたのです。 それは、神様の懐の深さ、愛の大きさを信じているからです。心いっぱい、体
いっぱいの神様への思い、生かされていることの感謝の思いを込めて、捧げた のです。自分を諦めることなく捧げたということが、この人の信仰を表わして
いると思います。神様は、この信仰を喜んでくださいます。
私達の礼拝は、イエス様が十字架にかかってくださったので、私たちに神の 慈しみが向けられていることを信じてなされます。神様はあなたが生まれたそ
の時から、あなたがどんな人であっても、あなたを受け容れてくださっていま す。へりくだり仕えてくださっています。私達は、この神様の慈しみを信じて
礼拝をするのです。
イエス様のおられた当時のユダヤの神殿の礼拝では、こうすれば神様に認め ていただけると定めた細かい規則がありましたが、そういうものはもういりま せん。神の慈しみを心の底から信じる心があればいいのです。神の慈しみに応 えたいという思いがあればいいのです。この心こそが、神様が喜ばれる礼拝の 心、そして捧げものです。この心こそが、私たちを神様としっかりと結びつけ るのです。
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