先週の水曜日2月22日から、受難節になりました。受難週だと思ってこの 箇所を読むと13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離
れた」、この言葉に目が留まります。「時が来るまで」とは、イエス様が十字架 で苦しまれた時のことです。
荒れ野の誘惑では、悪魔は最初に、地面に転がっている石をパンに変えろと 誘惑しました。しかし、イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない」
といって、誘惑を振り切りました。自分の腹を満たすよりも、神のみ心を尊ぶ べきだと言われたのです。そうしてこそ、この世に神の救いをもたらすことが
できるのです。同じことが十字架の上でもありました。十字架にかかったイエ ス様は、人々から罵られました。「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、
自分を救うがよい。」と。しかし、イエス様は苦しみを耐え、祈りました。「父 よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
荒れ野の誘惑のその次は、見渡すことのできる広い世界の一切の権力と繁栄 をあなたに与えると悪魔がささやきました。けれど、イエス様は、世の力や富
ではなく、神に従うことこそ、救い主に求められているのだと言われ、悪の誘 惑を遠ざけました。十字架の上でイエス様は、「あなたの御国においでになる
時には、私を思い出してください」という人に、「あなたは今日、わたしと一 緒に楽園にいる」と言われました。この世の力や富を手に入れることよりも、
神様のみもとで慈しみを受けて、救いの命に生かされることこそ最も幸せなの だと言われました。
荒れ野での最期の誘惑は、高い塔に登らせて、そこから飛び降りてみろと言 うのです。つまり、神様が本当に助けてくれるのか試してみろと言うのです。
2 すると、イエス様は、神を試すことはできないと言って、誘惑を遠ざけられま した。十字架の上で息を引き取られる時、断末魔にイエス様は神様に祈られま
した。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」イエス様は、神を試し、神の 思いを確かめるどころか、神様が助けてくださることを信じていました。どん
なに惨めな姿にされても、神様は顧みてくださる。だから、すべてを神様にゆ だねられたのです。
イエス様は、荒野の誘惑に遭われ、それから十字架にかかるまで、イエス様 はこの世に過ごされ、この世という荒野の中におられました。イエス様は、十
字架にかけられ苦しまれ時にも、神様を尊ばれて悪の誘惑に打ち勝たれました。 さらに、人々に対する慈しみ、愛を表わされました。神を愛し人を愛する、こ
のイエス様が誘惑に打ち勝たれたのです。
私達は人間としての弱さがありますから、誘惑に打ち勝ったイエス様のよう にできません。そういう弱い私たちのために、不信仰な者のために、イエス様
は悪と戦ってくださいました。
イエス様は、ご自分を十字架にかける兵士たちをとりなして祈られました。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエス様は、神様を忘れる私たちの為にも、同じように神様に祈りとりなして くださいます。誘惑に打ち勝つ力をくださいと、私たちもイエス様に祈りまし
ょう。
これから受難節の日々を過ごします。私達のために、私たちに救いをもたら すために悪の力と戦ったイエス様のことを覚えて、感謝の思いを新らたにして
過ごしたいと思います。
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