イエス様が口のきけない人を癒されました。 言葉を話すことができなかった人が、言葉を話すことができるようになりました。 今日の 箇所 は、 言葉を話すということがテーマです。
話 すことが できるようになった人が、どんな言葉を 発する のか。人をほめたたえる言葉を発するのか、人をけなす言葉を発するのか。 このことに私たちの思いを向けるようにというのです。
イエス様が一人の人を癒されたことを群衆は褒め 讃え ました。しかし、 同じことを見ていても、イエス様のなさったことをけなす人がいたのです。
イエス様 が人々に 話された言葉に、こういうのがあります。 マルコ 7 15 「 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
この当時、ユダヤの人々は 、人が口に入れる物、 食べ 物 が 汚れて いると、 それを 食べた人が 汚れると思っていました。 けれど、イエス様は、
食べた物が人 を汚す のではない、人の内側 にある 心 が人を汚 す と言われます。 人の内が汚れている、それで人をけなす言葉、 人を傷つける言葉を発すると言われました。
この言葉は、今日の箇所で、イエス様 を悪霊の使いだという人たちに向けられている言葉だと思います。
当時のユダヤの人々の 中には、 イエス様 が 救い主だと は 思わない人たちがい
ました。 神様が救い主をこの世に遣わされると いうことは 信じていましたが、 それは 目の前のイエス様ではない と思っていました。 イエス様が神の力を働かせることはできない
はずだと思い込んで、それで イエス様が 悪霊を働かせていると言ってしまうのです。
人から見間違えられるということを、私たちも経験します。 誰かから 「あの人のことだけれども、あなたではない」と言われるのです。 人から見間違えられる、見損なわれる。このような時に、私たちはとても苛立ちます。
イエス様は、どうなさったでしょうか。 悪意をもってけなす人たちに、とても
論理的な答えをされ 、 とても冷静に対応されています。イエス様は、 怒 るの ではなく諭されました。自分に対して悪意を向ける人に対しても、その人が神様の働きを認めるようになり、神様の慈しみを知るようになり、救われてほしいという温かい思いを持っておられるからです。
この箇所でも、 いろいろたくさんの言葉を話されていますが、まずイエス様の慈しみ を抱いておられる ということを思わせられます。
ヤコブの手紙は、とても厳しい言葉ばかりが記されていることで有名です。3章 2節 「 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。
」 一人残らず誰もが 言葉を制御できな いから、 誰でも言葉で失敗するというのです。 さらに9節 「 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。 」
言葉の失敗とは、 ちょっとした 言い間違い もある だ ろう と思います 。 けれど、イエス様を悪霊の頭だというような、 人に対する厳しい思いが知らず知らずに言葉になって
しまい、人を傷つけてしまうなら 、心しなければならない ことだと思います。
言葉というのは、話す人の思いと、聞く人の思いが関わることです。 話す時、聞く時、自分の思いだけで心をいっぱいにしていないで、いろんなことに目を向
け心を向 け、また相手の事情を汲み取りながら、人への広い心、やさしい思いをもって話したり聞いたりできればと思います。ヤコブの手紙は、誰でもどんな人でも言葉で過ちを犯すという
ことを言ってくれていますから、 このことを しっ
かりと 覚えておいて、 人間誰でも が 持っている 弱さの一つと思って、 広い心で 人の話す言葉を受け止めたいと思います。
イエス様のように、私達の内側に、神を愛し人を愛する思いを持って 、人に 言葉を語り 、人から 言葉を聞いてい けば、豊かな交わりができると思います。
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