イエスは、 ローマ 帝国の 刑罰 である十字架刑に処せられ て 息を引き取られた。それは、多くの出血に苦しめられるものだった。 イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘では、
これまでにも 犯罪人が処刑されローマ兵が死を確認した。イエスの十字架の時、群衆が集まり、苦しむイエスを見て胸を打ちながら帰っていった。
イエスは息を引き取る間際に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれた。十字架のもとでイエスの死の姿を見ていたローマ兵は、「この人は本当に正しい人だった」と言った。「正しい」というのは、道徳的な正しさではなく、神の前に正しいことを言う。つまり、神の御心にかなった人、罪のない人だということ。神とは無縁のはずのローマ兵でもわかるくらいに、イエスは神のみ心に従って生きたのだ。
以前、ある教会で、激しい闘病を経た親友の葬儀に出席したという人が、 大きな苦しみの中にありながら 親友がすべてを整えていたことに感銘を受けたと涙をためて私にお話しくださった。
このように、 普通、立派な死に方をした人が讃えられるものだ。けれど、イエスは立派な死に方をして、イエスが讃えられるだけでなく、 イエスの死を目撃した
ローマ兵は「神を賛美した」。
ローマ兵が神を賛美したのは、それ程にイエスが神に従ったことが分かったから、罪がない人だと思ったからであるし、イエスが神様を信じているから立派な死に方をできたと思ったの
だろう。そして、イエスの死が人並み以上に苦しい激しいものだったから、ローマ兵に神様のことを思い出させたのだと思う。イエスは、神に従い、壮絶な死を遂げ、そのことによって神を讃える思いにさせたのだ。
イエスは、最期の時まで世の人に神を讃えるようにする人であり、それは、イエスの死の後も変わらない。神様は、イエスの死をしっかりと受け止めてくださり、死をよみがえりに変えてくださった。神と共に
生きること 死ぬことには、希望があるのだ。イエスの死は、私たちの罪過ちを引き受け、神にとりなすものだった。罪過ちから離れることの できない私たちに、イエスの死は希望をもたらしてくださる。
クリスチャン小説家・椎名麟三は、洗礼を受けた喜びの言葉として、「これでじたばたして死ぬことができる」と言った。信仰の建前ではなく、人の弱さを受け止めつつ信仰の掛け替えのなさを語った。神を讃えるようにさせるほどに苦しんだイエスが、弱く小さな私の希望だ。イエスは、「 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 信じていきたい。
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