今日は、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」(58節)という御言葉を心に留めたい。
パウロは、コリントの教会の信徒に宛てた手紙に、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と書く。教会の働き、伝道の働きは、パウロ自身「宣教という愚かな手段」(1:21)と言うように、すぐに成果が分からないものだ。しかし、神様の導きを信じて根気強くなせと勧めている。また、パウロは、ガラテヤ書の中に、自分が無駄に走った(働いた)のではないかと言って、私たちと同じように「無駄になる」ことを知っていたが、今日の箇所では「決して無駄にならない」と言う。
昨年の夏、関西から知り合いが訪ねて来たので、仙台城に行き仙台の町を造った伊達政宗の話をした。伊達政宗が仙台に遺した功績は、400年後の私たちもその恩恵にあずかっているのだから、彼は偉人であるし、彼のような歴史に名を遺す人の人生を誰も無駄だとは言わない。けれど反対に、誰にも顧みられることなく死んでいった幾多の人々の人生は無駄なのだろうか。
自分の人生が幸せな人生だったかどうかということについては周囲の人の見方もあるが、しかし、幸せだったかどうかは自分が決めればいいことだ。自分自身が幸せな人生だったと思うなら幸せだったのだと思う。さらには、神様が「あなたの人生は善い人生だった」と言われるなら、それが最も正しいのだと思う。この世の歩みを終えて、神様が「あなたの人生は善い人生だ」と言われるなら、私たちの人生は決して無駄ではないのだ。
今日の箇所でパウロは、「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」と言う。「朽ちるべきもの」とは、私たちの肉体であり、私たちがこの世でなしたこと、この世で得たものや人との関わり、この世での一切のことだ。それが、「朽ちないものを着る」、つまり、よみがえりの命に与るという。よみがえりの命は、すべてを朽ち果てさせる死の力に打ち勝ったのだから、もはや朽ち果てることがないようにするのだ。だから、朽ちるべき私たちは朽ちないものに変えられ、私たちの人生は決して無駄にならないのだ。そして、神の前に永遠の命を得て生き続けるのだ。神様は私たちの人生を慈しまれ、贖われ、すべてを善きものとなるようにはからってくださる。
私は家族を天に送ったが、今、神様のみ許にあることを信じている。そして、その人たちがいたから私がいまここに存在し、今の自分があることを思う。また、その人たちとのこの世での関わりが、そして、その人たちが今私の目の前にいないことが、私の人生に(神のみ心は推し量りがたく)何か善いことになっていたり、巡り巡って何か善い影響を与えてくれているようにすら思うこともある。私は誰の人生も生きるべき価値のある人生であると思うし、私たちが神さまのおはからいの中にあるなら、尚のことそうだと思う。
朽ちるべきものを慈しまれる神、すべての人生を善いものにしてくださる神がおられる。よみがえりの力と命で包み、善い人生を歩ませてくださる神様に感謝したい。 < < <<
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