ローマの兵隊・百人隊長の部下が病気だった。病人を癒すためにイエスは道 を急いだが、その途中で、百人隊長が差し向けた使いの者から、イエスがわざ
わざ来てくださるには及ばない、癒されるように一言くださいと聞いた。する と、イエスは道の途中ですぐさま部下の病を癒された。そして、イエスはこの
百人隊長の、たった一言あれば癒されると信じる信仰を大いに感心された。
ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。」とある。「望んでいる事柄」「見えない事
実」とは、私達の願いのことであり、それは実現するまでは言葉として表され るものだ。言い直せば、信仰とは言葉が実現すること、言葉が本当のことにな
ると信じることだ。
列王記下5章に、アラムの国の将軍ナアマンが皮膚病を癒されたという話が ある。預言者エリシャのもとに行って、玄関先で病を癒してほしいと大声で叫
んだ。すると、預言者は姿を見せなかったが、「ヨルダン川に行って、七度体 を水に浸すように」という声がした。ナアマンは憤慨した。わざわざ来たのに、
預言者は姿も見せず、手当もしないのか。たった一言命令するだけとは、なん と失礼なことかと。しかし、家来になだめられてナアマンはヨルダン川に行き、
赤ん坊のようなきれいな肌になったと言う。ナアマンの誤りは、預言者を信用、 信頼していないからだ。自分に対する人の態度に気を取られたのだ。つまり、
百人隊長と比べるなら、預言者に対する、イエスに対する確かな信頼を抱いて いるかどうかではないだろうか。それが、たった一言に対する思いの深さの違
いとなるのだ。
私たちは、人の声、言葉を聞いて励まされたり、慰められたりする。久しく 会えないでいる人の電話の声に安心する。心が心に届くのだ。何気ないたった
一言が元気のもとになることもある。それは、言葉の主に対して私たちの思い があるかないかではないだろうか。たった一言、愛唱聖句に、私達は神様への
思いを込めている。だから、人生の導きとなり励ましとなる。「あなたの御言 葉は私の道の光、私の歩みを照らす灯。」(詩編119:105)
イエスの慈しみを確信する百人隊長には、イエスの一言があれば十分だった。 私達も、イエスへの信仰、慈しみへの確信をこれからも変わることなく抱いて
いこう。神の愛を励みとしよう。
|