イエスは、エルサレムのベトザタの池で一人の病人を癒された。この当時、ギリシャ発祥のアスクレペイオンと呼ばれる病気を治す施設が各地にあった。このベトザタの池もその一つだった。ベトザタの池は、間欠泉で時々地下深くから水が吹き上がる。その水に触れた人が、どんな病も癒された。多くの病人が集まっていた。
そこにイエスは行かれ、38年間そこにいる一人の病人に「治りたいのか」と問われた。病人にそんなことを問いかけるのはおかしいが、病気の人が病気であることに甘え、病気に安住してしまうということもある。希望を失い、静かに
絶望していることもある。イエスの問いかけによって、その病人は38年ぶりに自分の心に向き合わされたのではないだろうか。私はどうしたいのかと、改めて自分の心に問いかけただろう。私達は誰かに問いかけられて自分自身に気づくことがある。
誰も助けてくれない、もう私はこのままで生きるしかないと絶望していた人に、イエスは思いがけない言葉をかけられた。「起き上がりなさい。」 イエスには神からの希望を垣間見せるような力があったのだろう。その人は立ち上がった。自分にはできると信じて立ち上がった。
人々はどんな病でもす場所を 「 恵みの家 」 と呼んだのだろう。そして、イエスとの関わりの中に、自分を諦めている人が立ち上がり歩き出すところが、「
恵みの家 」 になった。何もできない、誰もいない、何もないと言う人に希望が与えられることは 、 救い であり、恵みを受けることだ。
パウロは、イエス・キリストの 救いを信じて 力づけられ、貧しい時も豊かな時も、どんな場合にも対処すると言う(フィリピ4:12)イエスによる恵みを余すことなく味わっていたことを知らされる。なかなかこうはいかないが、神の恵みに強められるということは、私たちの心の拠り所だ。今、救われている、このことに気付いていることが私達を強め励ます。礼拝の時、、祈る時、聖書を読む時、さらに日々の暮らしの中に神の救いや恵みに気づくことを繰り返して私たちの信仰の歩みがある。神学者ティリッヒは、「自分が今、神に受け容れられていることを受け容れること」が
、 救いであり信仰だと言う。
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