一人の女の人が姦淫を犯したといって、イエスの前に突き出された。たくさんの人々が怒り、罪を犯した人を問い詰め、さらにはイエスを試みようとした。しかし、怒りに満ちていた人々が、一人また一人とその場を去っていった。問い詰める人が問われる立場になり、自分には問い詰めることができないことに気が付いたのだ。「罪を犯したことがない者が・・・石を投げなさい」(7節)というイエスの言葉は、人と人の関わりの中で憤っている人を、その眼差しを神へと向け変えさせたのだ。人の前でどのようなものか、私は正しくあなたは間違っているという
意識から、神の前にあなたはどういうものなのかという意識へと変えさせたのだ。
そして、イエスはこの女の人に「私もあなたを罪に定めない」(11節)と言われた。たくさんの人が石を投げることができなかったからでもなく、この女の人が罪を犯していても問題にしないというのでもない。
イエスは、人の罪を問うことができるのは、神だけだということを言っているのだ。どんなにたくさんの罪を犯した人がいたとしても、その人の罪を問い詰めることができるのは神だけだ。
人は隣人を罪に定めることはできない。もちろん、この世の法律は人を罪に定 めることができる。しかし、イエスが言う「罪に定めない」というのは、神の前に罪に定めないということだ。もしも誰かが倫理的な罪を犯しているとしても、神はそれを赦すことができる。人の前での罪と、神の前での罪を混同してはならない。聖書が問題にしているのは、その人の魂が救われるかどうか、神の前にその一人が大切なのか否かということ。イエスは罪人の罪を赦し救うために世に来られたというなら、この世の定める罪が最終決定ではない。
イエスは、たくさんの人の怒りから 一人の人を 助け出した。イエスには、 怒りに狂う人々から一人を守ろ うとする ゆるぎない 愛、強い意志 があった
。 イエスがいつも神の前に、神と共に生きておられることによって、 人を救い出す ことができた のだ。
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