イエスは、通りすがりに目の見えない人を見かけた。すると、弟子たちは目が見えないことは良くないことだと思ったのか、誰の罪によってこの人の目は見えなくなっているのかと、イエスに尋ねた。イエスは、「この人に神の業が現れるためである」とお
答 えになった。
神の業とは、どういうことだろうか。 一つ目の意味は 、この人の目が癒され、癒した人イエスを神から遣わされた救い主だと信じるようになること。イエスはこの人を癒されたが、「シロアム(遣わされた者)」の池の水で目を洗ったという。これは、洗礼式のことを暗示している。
もう 一つ の意味は 、この人が不自由であること、困難を背負っていることを通して、新しい目で今までと違うことを見るようになるということ。苦しみによって開眼するということ。神の御業とは、苦しい人、不幸な人はそうであるばかりでなく、神のみ心を知る機会を与えられているのだ。
何 でも思い通りにできることが、本当に善いことだろうか。 そういう人は、人の悲しみを素通りすることはないだろうか。私達は、上手くいかないことがあったり、立ち止まらされたり、壁にぶつかっては、一つの見方、平板な見方をやめて、もっと広く深く物事を見るように促
される。心を柔軟にさせられ、人への同情心が与えられもする。このようにして、私達は人生を歩んでいる。
パウロは、自分の弱さを誇るという。弱いから強くなれるというのではない。弱いままで、弱いからこそ、神のみ心を知ることができるのだ。神様は、私たちの弱さも含め、すべてを愛おしんでくださっている。
星野富弘さんは、体育教師だったが、事故で大けがをしてベットに横たわることになった。「動ける人が動かないでいるには、忍耐が必要だ。私のように動けない者が動けないでいるのに忍耐など必要だろうか。」という詩を書く。不自由で
忍耐をする毎日なのに、そういう自分を受け容れたこと、自分の人生に納得がいったという証言だ。星野さんと神様の関わりは平和になった の だ。
星野さんに、「神の業」が示されている。私たち一人ひとりに、神の業が現わされている。信じていきましょう。
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