韓国に「カシコギ」という魚がいる。カシコギは、母が生み捨てた子を父が育てる魚だという。20年前に世に出た小説『カシコギ』は、白血病の幼い息子と闘病する父親の話だ。印象深いのは、入院した病室に「今日という日は、昨日死んでいったあの人があんなに生きたいと思った明日」と書かれていたこと。今日一日、この日の尊さに気づかせられる。
私達は、神様から授かった肉体の命をもって生きている。そして、聖書(ヨハネ福音書)には、クリスチャンは、さらにもう一つの命、永遠の命を与えられていると書かれている。私が幼い頃、CSの礼拝で、「クリスチャンには誕生日が2つある。この世に生まれた日、そして洗礼を受けた日です。」と聞いた。私達は、肉の命と永遠の命(神の命)に生かされている。今日の箇所でイエスは、兄弟ラザロの死を嘆くマルタに、イエスを信じる人は肉の命だけでなく永遠の命があることを信じてほしいと願っておられる。
イエスがラザロは復活すると言うと、それは終末のこと、遠い将来のことだとマルタは言う。これはユダヤ教の信仰。さらに、イエスは、イエスを信じるなら、今この時、永遠の命に生きていることを告げる。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(25,26節)今この時に永遠の命に生きる私たちは、肉の命が終わっても、永遠の命が終わることはなく、死んでも生きる。この世から去ることになっても、神の前にとこしえに生きるのだ。
今日という日のかけがえのなさを思う。私達は肉の命でこの日を生き、永遠の命でこの日を生きている。神の恵みの中に、救いの中に、神様のみ腕の中に生きている。なんと素晴らしいことだろうか。2つの命に生きるとは、どれほど豊かな神の愛に守られていることだろうか。
中世の修道院では「メメン・ト・モリ」(死を覚えよ)と声をかけ合った。死を覚え、神の救いを思えというのだ。イエスは「目を覚ましていなさい」と言われる。この日を私達はどのように生きるのだろうか。救いの道をひらいたイエスが、私達を救いへと招いている。
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