日本キリスト教団

   
2023.08.06
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「神が与える王」
ヨハネによる福音書
12章12-19節
 イエスはエルサレムに入城し、エルサレムの人々はイエスを「主の名によって来られる方」だと歓迎した。人々はイエスが行う奇跡や癒しの業に、自分たちを利する人だと思っていたのだろう。こういう思いは、武力で敵を追い払う王様を歓迎する思いと似ていると思う。けれど、イエスは勇ましい馬に乗っていたのではなく、ろばの子に乗って人々の前を歩まれた。

 ろばはおとなしい動物だが、さらにゼカリヤ書9章9節以下には、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」と記されている。ろばに乗って歩まれるイエスは、神様が平和をもたらすために与えてくださった王なのだ。

 イエスは、なぜエルサレムに来られたのか。それは、十字架にかかるためだった。イエスは十字架にかかることを思いながら、エルサレムに来られた。イエスは神の子だから、神の子にふさわしい使命が与えられた。それは神との強い関わりをもつ神の子だからこそ成し遂げられる使命だった。他の福音書でイエスはゲッセマネの園で神に悲痛な祈りをしているが、ヨハネ福音書にはそのような場面はない。むしろ、総督ピラトに対して神のもとから来たことを主張し、論じ合う強い姿がある。イエスは、ヨハネ福音書では十字架へと勇ましく進んでいく。信仰に満たされているが故に、満身の力と強い思いをもって悪と戦う人の姿を見る。

 80年前の日本にも、敵性宗教だと睨まれ迫害され、拷問の末に死んでいった牧師、信仰者がいたことを覚えたい。この人たちは、その信仰の故に、信仰に満たされて世の力に立ち向かったのだ。

 私の働いていたある教会は、50年前に教会が生まれて、すべてを自前で揃えていた。礼拝堂に置いてあった説教壇は、他の教会の倉庫に保管されていた古めかしいものだった。さらにその出自をたどると、戦時中に迫害され、軍部によって閉鎖された きよめ派 の教会で使われていたものだったと分かった。信仰の故に苦しんだ人々のことを思い出すよすが とした。
 
 平和をもたらそうとする人は、大なり小なり闘うことを余儀なくされる。いつの世にも自分の利益を手放すことを恐れて抵抗する人たちがいる。マルティン・ルーサー・キング牧師は、暗殺の危険の中に人種差別と闘った。そして、アフガニスタンで水路を作った中村哲医師も、凶弾に倒れた。

 中村医師は、福岡のキリスト教主義の中学でキリスト教を信じるようになった。彼の最後の部屋には、内村鑑三の『後世への最大遺物』という本があったという。内村は、後世に遺すべきものとは、「この世の中は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるであるということ・・・希望の世の中であることを信ずることである。」「邪魔があればあるほど我々の事業ができる。・・・われわれが神の恩恵を受け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を残すものである。」と述べています。「種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業」であり、「一人ひとりがなすべきことをあきらめずになし続ける人生」こそ、後世のためになる最大の遺物だと内村は説いた。

 これは、決して大きな理想ではない。天才や能力ある人を求めているのではない。一人の人間の等身大の理想だ。神の御心の成ることを信じ平和を求める私たちの願いが、一人ひとりの人生のたゆまぬ歩みによってかなえられていくことを祈りたい。神からの使命を引き受け、後世に遺る事業を遺した中村哲医師、十字架へ進んでいくイエスの姿を思う。

 愛隣こども園
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